第2話 毒の愛/Crossroad


 神聖ラール帝国、最新鋭空中戦艦オーディン。通称・戦神戦艦オーディン。

 その客室で、リュカとマリーはソファにもたれて座っていた。

 大人3人がゆったり座れる広さのソファで、クッションが柔らかくてなんだか懐かしい気持ちになった。

 この7年、こんな柔らかくて気持ちいいソファに座ったことなんてなかったから。


「お姉ちゃん、大丈夫?」


 マリーがリュカの顔を覗き込むようにして言った。


「うん。だいぶ落ち着いた」


 故意ではないが、人間を1人殺した。その事実はリュカにとって酷く重いものだった。

 それと同時に、あの機体――ファントムへの強い恐れを感じた。

 機械が人の意志を無視して殺戮する。そんなマスカレードは見たことも聞いたこともない。


「そう。なら良かった。この世の終わりみたいな顔してたから……」


 あの時は通信回線を繋ぎっぱなしだったので、リュカの表情も言葉も全部筒抜けだった。


「そんなに酷い顔だった?」

「うん。元から微妙な顔だけど」

「ちょ、ちょっとマリー! なんてこと言うんだよぉ!」


 リュカはマリーをソファに押し倒して脇腹をくすぐった。


「きゃー! お姉ちゃんに襲われるぅ!」


 言いながら、マリーは涙目で笑う。

 そんなマリーを見て、リュカも笑う。


「ありがとう、マリー」


 リュカはくすぐるのを止めて、真面目に言った。


「お姉ちゃんは善人だよ。マリーが保証する」


 大人びた妹は、優しく微笑む。

 時々、どっちが姉なのか分からなくなる。

 リュカはソファに座り直して息を吐いた。

 善人、か。

 リュカは心の中で呟いた。

 善人なんて何の役にも立たない。本当に、本気で、何の意味もない。そういう7年だった。


「まぁ、本当の善人はマスカレードを盗んだりしないけどね!」

「あ、そっか」


 ソファに座り直したマリーが納得したように頷く。

 少しの沈黙。


「お姉ちゃん、魔王はあのマスカレード買ってくれるって?」

「その交渉はまだしてないよ」


 あのあと、戦神戦艦オーディンに誘導してもらって着艦したけれど、リーゼとは着艦ハッチが違っていた。

 ファントムを降りてすぐ、制服を着た軍人にこの部屋に案内されたのだ。


「そっか。でもまさか魔王が出てくるなんてマリーびっくりした。ヴァイスリーリエを確認した時はマリーたち死んだかと思った」


 ヴァイスリーリエとは、リーゼの乗る純白のマスカレードの名称。両肩に百合の紋章を描いた美しい機体。

 まるで幻想のように美しく、だけど血塗れの機体。


「あたしもびっくりしたよ、さすがに」


 マリーはリュカとリーゼが友達だと知らない。そのことを言うべきかどうか少し迷った。

 けれど、結局は言うことにした。マリーに隠し事をしたくない。

 たとえ、


「あのねマリー、実はあたしね……」


 言葉の途中で、客室のドアが静かにスライドした。

 一瞬、リーゼが来たのかと思ったが違っていた。

 入ってきたのは赤い軍服を着た若い女だ。年齢はリュカとそう変わらないか、少し上ぐらいに見えた。

 銀色のショートヘアで、可愛い系統の顔立ち。だけど目が吊り上っていて、怒っているように見える。それから、気の強そうな表情というか、雰囲気。


「リュクレーヌはどっち?」


 銀髪の女がリュカとマリーを交互に見て言った。

 女の胸は制服の上からでもそれなりに大きいのが分かる。しかし胸以外に余計な脂肪はなく、よく鍛えられているのか、とってもしなやかな四肢をしていた。

 リュカはちょっとだけ、本当にちょっとだけ、羨ましいと思った。


「あたしだけど、今はリュカだよ。リュクレーヌじゃない」


 リュカは痩せている。胸も含めて。この7年、今日食べる物がない、というほどではなかったが、お腹一杯に食べられるわけでもなかった。

 まぁ、アリアンロッドで調理師をしていた3ヶ月は、賄いがあったのでそれなりに満足のいく食事が摂れていたが。


「なんで……」とマリーが言った。


 なんでリュクレーヌという名前を知っているのか、という意味だ。

 ちなみに、マリーも比較的痩せ型だ。リュカはマリーにだけはちゃんとした物を食べさせたかったし、ちゃんとした服を買ってあげたかったし、人間らしい暮らしをさせてあげたかった。でも上手くいかなかった。

 1度ドブネズミに落ちたら、這い上がるのは難しい。そういう世界だった。


「まぁなんでもいいけど」女が言う。「リーゼロッテ様が呼んでるからついて来て」


 女が踵を返す。


「名前ぐらい、名乗ってもいいんじゃない?」


 リュカが言うと、女が振り返る。


「クリスタよ。親衛隊のクリスタ。断っておくけど、リーゼロッテ様の前で妙な動きを見せたら即射殺するから」


 キッとクリスタがリュカを睨んだ。


「妙なことなんてしないよ、あたしは」


 リュカはちょっとムッとしながら立ち上がる。


「お姉ちゃん……」


 マリーが心配そうな瞳でリュカを見る。


「平気。ちょっと話してくるから待ってて」


 リュカは笑顔を見せた。

 マリーの不安が少しでも和らげばいいと思って。


       ◇


 リーゼロッテ・ファルケンマイヤーはシャワーを浴びて髪を乾かして、丹念に梳かした。

 遊んでいる髪が一房もないことを姿見で確認したのち、制服を着る。他の軍人とは違う純白の制服。ちなみに普通の軍人は暗いグリーンの制服で、親衛隊は赤色の制服だ。

 リーゼは白が好きだった。

 白はいつだって、純粋で優しいリュクレーヌを思い出させてくれるから。

 自分の機体を白く塗ったのも、名前をヴァイスリーリエ――白百合としたのも、全てはリュクレーヌを想ってのこと。

 リュクレーヌには白百合という言葉がピッタリだと感じていたから。


「リュクレーヌ……」


 胸の高鳴りが止まらない。

 たった1人の友人。世界にただ1人だけの、リーゼロッテの友達。7年前に死んだと思っていた10年前の友達。

 実際に会ったのは一日だけ。でも何より美しく、何より素敵な思い出。

 リーゼロッテは制服にシワがないか何度も確認した。

 それから香水を少し振って、深呼吸。

 姿見に映ったリーゼロッテの頰はだらしなく緩んでいた。

 そんな自分の微笑む顔を何年かぶりに見て、吐き気がした。

 高揚していた気分が下がり、現実を直視する。


「バカか私は……」


 リーゼロッテは床に座り込む。


「私はもう……あの時の私じゃない……。あのリュクレーヌが、今の私を受け入れるはずがないじゃないか……」


 魔王リーゼロッテ・ファルケンマイヤー。

 それは世界の敵であり、憎悪の対象。

 侵略者にして殺戮者。

 激しい怒りに身を焦がしながら、世界を焼き尽くそうとする者。


「また会えたのに……私は彼女に触れることすら許されはしない……」


 純白の百合を、血塗れの手で掴むようなものだ。

 綺麗なモノに触れるには、リーゼロッテの手はあまりにも汚れすぎている。

 今の地位を手に入れるために、一体何人を殺した?

 世界征服を高らかに叫び、一体何人を地獄に突き落とした?

 それだけのことをする怒りが、灼熱の怒りがリーゼロッテにはあった。

 確かにあったのに、

 リュクレーヌが生きているのなら、生きていると知ってしまったから、

 その炎は燃え尽きる寸前だった。


       ◇


 リーゼの部屋は酷くシンプルで、生活感がなくて、まるで人形の部屋のよう。


「久しいなリュクレーヌ」


 白い軍帽を被ったリーゼが、表情1つ変えずにそう言った。

 リーゼの部屋にはリュカが1人で入った。クリスタは気に入らない様子だったが、リーゼがそう命令したからクリスタは引き下がり、今は部屋の外で待っている。


「うん。元気……なのは知ってる」


 あはは、とリュカは笑った。

 テレビで時々、リーゼの顔を見ていたから。


「まぁ座れ」


 リーゼが簡素な椅子を指差した。そして自分はベッドに腰掛ける。

 リュカは言われた通り、椅子に腰を下ろした。客室のソファに比べると、ずいぶん硬い。でも、その方が慣れている。


「生きていたとは驚きだ」

「まぁ、ね。マリーのシックスセンスのおかげで助かったの」


 それと、母が強い口調で「あなたたちは生きなさい」と言ったから。


「マリー? 誰のことだ?」

「妹だよ。それよりゴメンね。ずっと生きてることを知らせたかったけど……」


 その手段がなかった。


「構わないさ」リーゼが言う。「生きていてくれて、素直に嬉しいぞリュクレーヌ」


 リーゼはまるで、凛とした花のよう。

 そういう態度を取っている。

 でも、それはまやかしだ。10年前と同じ。

 果てしない強がりの果て。

 愛されたいと、自分の本心を語ったリーゼの方がリュカは好きだ。


「今はリュカって名乗ってるんだよ、あたし」

「リュカ? パスティアでは男の名前だろう?」


 リーゼが目を細めた。

 パスティア王国――今は亡きリュカの祖国。7年前に失った、平和で穏やかな国。


「しばらくは男ってことにして働いてたから。ほら、あたし胸もないしね」


 あはは、とリュカが笑う。


「……お前、いつからそんな風に笑うようになったんだ?」


 リーゼは目を丸くして言った。


「え?」

「どんな生活をしていたんだリュクレーヌ!?」

「えっと……どんなって……」


 この7年を思い起こして、自然に拳を握る。その拳が震える。

 視界が歪む。


「……ドブネズミって、言われて……」

「ドブネズミ……だと……」


 それは差別用語。貧乏人や生活のままならい人に、特に家のない人間に対して使う。国際連合が推進する資本主義が生んだ闇。

 神聖ラール帝国の属国だったパスティア王国は、7年前に独立し、国際連合に加盟。現在はパスティア共和国を名乗っている。

 誰も望んでいなかった、強制的な独立。一部の過激派を国際連合が操って、独立支援の名目で大軍を送り込み、パスティア王国を蹂躙した。

 そして民主主義と資本主義を押し付け、パスティアを腐敗させた。

 今のパスティアを支配しているのは外資で、元々のパスティア王国民は現代の奴隷のような酷い労働環境の中にいる。


「だからね、リーゼ。リュクレーヌは死んだんだよ。世界を綺麗だと信じて疑わなかった純粋なリュクレーヌはもう死んじゃった。あたしはリュカ。リュカ・ベルナール。生きるために悪いこともしたし、アリアンロッドからマスカレードだって盗んだ」


「そんなことが、そんなことがあっていいはずがない!」リーゼは勢い余って立ち上がる。「私に優しさを教えてくれたお前が、お前が、ドブネズミだと!?」


 パスティアの姫、という言葉でリュカはその頃のことを少し思い出した。

 煌びやかな王宮。みんな――王族も、その側近も、国民も――笑顔で、そして平和だった。

 リュクレーヌはシックスセンスを使ってみんなが幸せになれるよう助力し、パスティアの愛の花と呼ばれていた。あの頃、世界は正しく、そして優しいと信じることができた。

 でも7年前、全ては突然崩れ去り、父王は空に散り、母は崩れ燃え上がる王宮に残った。


「ありがとうリーゼ、あたしのために怒ってくれて」リュカは笑った。「あたしは現実を見て、現実を知って、世界は間違ってるって強く思った。お姫様のままじゃ、永遠に知ることのなかった世界のシステムのこと」


 その想いは、ずっと仕舞っていた。

 自分には何の力もなく、どうすることもできないと、そう思っていたから。

 だから、


「リーゼが世界を征服するって言った時、あたし嬉しかったんだ。リーゼなら、きっとこの理不尽で残酷な世界を変えてくれるって、そう信じられたから」


「違う、違うんだリュクレーヌ!」リーゼは泣き出しそうな子供みたいに言った。「私はただ、世界を壊してやりたかっただけなんだ。パスティアを救わなかったラール帝国も、パスティアを潰した国際連合も、どっちも滅ぼしてやりたかった! それだけなんだ! 私ははただ、自分の怒りと憎しみのためだけに世界征服を掲げたんだ! 本当はただ、どいつもこいつも地獄に落としてやりたかっただけなんだ!」


 悲痛な声。それが嘘ではないと、真実なのだと誰でも分かるぐらい。

 ああ、そっか、全部あたしのためだったんだ。

 リュカはほんの少しの嬉しさと、大きな落胆に襲われる。

 でも、ならば、


「じゃあ、目的を変えてよリーゼ。滅ぼすんじゃなくて、ちゃんと征服して。そして――」


 そして。


「――征服した世界をあたしにちょうだい」


 沈黙。しかし長くは続かない。


「……なに?」

「きっと綺麗な世界を、みんなが幸せに暮らせる愛のある世界を、澄んだ世界を作るから」


 今の世界は間違っている。

 システムそのものが間違っている。

 根本的に、どうしようもないぐらい。

 特に、国際連合が推進する『正しい者が報われる』という嘘の世界。

 ある側面の人間に富と権力が集中し、別の側面では10歳から働いても苦しい生活を余儀なくされる。学校も行けない、社会保障も受けられない。

 そして裕福な子供たちにドブネズミと罵られ、石を投げられるような、そんな側面のある世界。

 そんなのは絶対に間違っている。


「リュクレーヌ、自分が何を言っているのか……」

「理解してる。あたしは闘うことはできないけど、リーゼを支えるよ。できることは何でもする。だから世界を征服して」


 7年前まで信じていた綺麗な世界が存在していないのなら、

 そうなのなら、

 自分で創り上げる。

 もしそれこそが間違いだと言うのなら、

 そもそもリュカとリーゼは今日、空で出会ったりしなかったはずだ。

 リュカのシックスセンスが「今日だ」と囁いたのだから。マスカレードを盗むなら今日しかないと。


「……本気、なのか?」

「うん」

「……修羅の道だぞ……。そして願えるならば、私はお前に幸せな人生を歩んで欲しい。ラール帝国のどこか静かな地方に家を用意してやる。必要なお金も、私が用意する。何の不自由もないようにしてやれる。それでも……」

「それでもあたしは世界が欲しい」

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