暖かな雪に見ゆ

伊東椋

――希望――

 大東亜戦争末期。

 人々は戦争によって生きる希望も意味もなくしていった。

 しかしそんな戦乱の渦中においても、生きる希望を最後まで持っていた者がいた。

 今の平和を成り立つために犠牲になった人々。

 犠牲になった人々と―――彼女たちは、今も海の底で静かに眠っている。

 それは、そんな一人の彼女との物語。

 彼と彼女が紡いできた、生きる希望を諦めなかった物語。

 その全ての事実を、ここに語り継ごう。




 昭和十九年十二月八日。

 一人の帝国海軍少佐、阿賀野海翔あがのかいとが戦艦『長門』に着任したこの日は、奇しくも大東亜戦争開戦の発端となった大日本帝国海軍による真珠湾攻撃から三年目の関聯記念日であった。

 阿賀野少佐は戦艦『長門』への配属が大分前から決定していたが、以前に勤務していた駆逐艦で訓練中の事故により頭部を負傷、検査入院を余儀なくされ『長門』への乗艦は当初の予定より大幅に遅れていた。昔から『長門』を愛して止まなかった阿賀野にとって『長門』への配属は正に夢が叶ったような出来事だったが、怪我による予定の狂いが『長門』乗組みに特別な思いを抱く阿賀野に一抹の不安を抱かせた。

 故に無事、夢にまで見た『長門』を目の前にした阿賀野の心は、まるで少年のように浮足立っていた。


 戦艦『長門』は竣工当時世界最大の41cm主砲と高速な機動力を持つ戦艦として君臨し、大正九年に横須賀鎮守府に入籍を果たした。大東亜戦争開戦時は連合艦隊旗艦として山本五十六連合艦隊司令長官が座乗した事でも有名である。

 後に戦艦『大和』の登場により『長門』は連合艦隊旗艦と世界最大の超弩級戦艦という座を『大和』に譲ったが、「日本の誇り、アジアの誉れ」として国民の間で最も親しまれた戦艦であった。


 そして帝国海軍軍人である阿賀野もまた『大和』の存在は知っていても、自分が好きな戦艦は『長門』である事に変わりなかった。日本が造る軍艦はどれも美しく、最高の艦だが、やはり『長門』が一番なのだと断言する程だ。古くから日本を護り続けてきた、日本の守護神。姉妹艦の『陸奥』や米英の戦艦と並び世界のビッグ・セブンとも呼ばれた『長門』は、正に今も日本の象徴する戦艦だと、阿賀野は信じて疑わない。

 阿賀野は夢だった『長門』航海長就任への辞令を渡された時、跳ね上がりたいほど嬉しかった事を覚えていた。実際に本物を目の辺りにすると、興奮が冴え切らなかった。

 そんな阿賀野は本日、『長門』が停泊する神奈川県横須賀港に訪れ、眼前の『長門』の巨体を見上げている最中だった。

 「これが……、『長門』か……」

 つい、名前を口にする合間に生唾を呑みこんでしまった。高揚感が昇る。

 しかし喜んでばかりにはいられない。大日本帝国と米国を始めとした連合国との間で行われている戦争は、日本にとってはかなり苦しい状況だ。開戦から一年程は連戦連勝を記録した事もあったが、既に戦況は悪化の一途を辿り、今年の昭和十九年六月にはあ号作戦で機動部隊壊滅、十月の捷一号作戦での連合艦隊の事実上壊滅。その両方の決戦に『長門』も参加していたが、結果は日本側の大敗北だった。

 残された艦艇は『長門』を含め、数少ない。『大和』などの戦艦が残存していようが、悲しい事に時代は大艦巨砲主義から航空兵力主義にある。肝心の航空機とそれを運ぶ航空母艦が無くてはまともに戦える状態ではない。

 更に日本の生命線と呼ぶべき海上交通路シーレーンの遮断により油や弾薬を運ぶ輸送船が悉く敵の潜水艦の餌食にされ、その影響で、燃料や物資が不足し、『長門』も外洋に出る事が出来ず横須賀港から一歩も動けずにいた。

 そんな時だからこそ――阿賀野は浮足立っていた己の心を叩き、ラッタルを渡った。

 いよいよ『長門』の甲板に足を踏み入れた瞬間、阿賀野は気を引き締めた。

 「俺が……この『長門』を動かすんだよな」

 戦艦を指揮して動かすのは正確には艦長であるが、しかし航海長も艦長の指揮下、“舵”という重大な部類を任される一人だ。燃料も無く今は動けずにいる戦艦ではあるが、しっかりとこの任務をこなそうと、阿賀野は固く意を決するのだった。

 「――寒ッ」

 阿賀野はぶるるっと震え上がった。季節は冬。しかもここは海の上だ。内地より寒いのは当然だった。肌に当たる潮風が刺すように冷たく感じる。

 違う意味で固くなりつつも、新任の航海長として毅然とした振る舞いを忘れずに、阿賀野は堂々とした足取りで『長門』の甲板を歩く。

 艦内に向かった先で、ふと、完治した頭の傷が疼いたような気がした。阿賀野は妙な気配を察したように、主砲の上に見えた人影に視線を向けた。

 そこには――確かに、人が居た。

 更に沸き上がる微妙な違和感。主砲の上にわざわざ登っている行為自体普通ではないのだが、兵を見た感覚、いや、人間を見た感覚とは微かに異なる感覚。上手く説明出来ないが、それこそが妙な違和感そのものだった。

 あんな高い所にいては冷たい風を強く浴びる。寒くないのか?とそういう問題でもないようなことまで思ってしまったが、とりあえず阿賀野の足は自然と主砲の方に向けられていた。

 近付いてやはりよくわかるのだが、『長門』の41cm主砲も中々大きいものである。

 何時の日か、自分の目の前で、この主砲が敵に向かって火を噴く瞬間が見られたら良いな。

 なんて、今考えることでは無いだろうと思いつつ、主砲までの距離を縮めた阿賀野は、目に入った光景に驚愕してしまった。

 「な……」

 馬鹿な、と。言葉を続けてしまいそうになったが、余りに衝撃的過ぎて、ぽかんと開いた口から白い息が燻っただけだった。

 主砲の上に座り、足をぷらぷらさせているその存在。冷たい潮風が強く当たっているはずなのに、その顔は全然辛く見えない。顔――、童顔の兵にしても女々し過ぎる。いや、そのもの。そしてまた小さな頭。風に吹かれて髪が靡いているが、その髪はおそろしく長かった。

 その顔立ちをじっくりと観察してみる。まるで人形のように綺麗に整っていて、検査ではいつも悪くない成績を残している自らの視力を初めて疑った。


 ―――明らかに、女である。


 おそらく歳は二十歳前後。そう見える程、その女は若かった。長い黒髪が風に吹かれて靡き、それを手で抑えている仕草も絵になる。

 一瞬見惚れてしまったが、ハッと我に返る。女が海軍の艦に、おまけに無断で砲の上に居るとはどういう了見だ。阿賀野はどかどかと大股で、女が居座る主砲に歩み寄った。意を決して叫んでみる。

 「おい! 貴様ッ!」

 主砲の上にいる彼女に叫んでも、彼女は見向きもしない。おそらく自分が言われてるとは気付いていないのだろう。

 「おい貴様だ! そこの女ッ!」

 女、と言う単語にピクリと反応した様子で、ゆっくりと主砲の上から阿賀野の方に視線を向ける少女。その大きな瞳が更に大きく見開いて、驚いている様子だった。驚きたいのはこっちだ、と阿賀野は内心呟きながら、こっちへ来いと手招きした。

 「そこの女、降りてこい!」

 彼女は怒号を上げる阿賀野の要求に明らかに戸惑いながらも、意を決したようにやがて主砲の上からふわりと舞い降りた。その光景はどこか神秘的で息を呑んだが、彼女が近寄ってくる姿を視認して、阿賀野は顔を引き締めた。

 まず、聞きたいことが山ほどあるので訊ねていく。

 「貴様、何故海軍の艦に乗っているんだ」

 軍艦に女が乗るなど聞いたことがない。軍艦は男だけの世界。女が踏み入れる領域じゃない。たまに若い士官が恋人をこっそり自分の軍艦に乗せるところを見たことがあるが、阿賀野はそれも気に入らない性質だった。

 阿賀野の鬼のような顔に、彼女は戸惑いつつも、ゆっくりと口を開いた。

 「えっと……これ、独り言じゃないよね……」

 「は?」

 「私に言ってるんだよね?」

 「貴様以外に誰がいる」

 「あ、やっぱり……」

 わぁ~、と事実を再確認したかのように。少女は両手を口元に当てながら、阿賀野の身体を隅々まで見渡していた。何なんだこいつは、と阿賀野は呆れそうになった。

 「えっと、貴方はなんていうお名前で……」

 「他人に名前を聞くときはまず自分から名乗るのが礼儀だろ。 ……まぁいい。 私は本日着任した阿賀野海翔少佐だ」

 阿賀野の名を聞くや、少女は驚いた様子を見せた。

 「貴方が……。そうなんだ、新しく来た航海長さんは私が見えるんだね……」

 「先から何をワケのわからんことを言っているのだ? 貴様はどこの者だ。 『長門』のどこかの士官の恋人か?」

 阿賀野の呆れたような声の質問に、少女は首を横に振った。

 「違います」

 きっぱりと否定した。

 「……では何故、『長門』に乗り込んでいる?」

 「それは……」

 曖昧な声を漏らし始めた少女の動作に、阿賀野は目を見張った。

 怪しい。まさか敵のスパイか。いや、こんな女が……しかし。阿賀野は変に頭を悩ませたが、とりあえず名前を聞くことにした。

 「貴様の名は? 俺が名乗ったのだから、貴様も名乗れ」

 「私は……」

 それが本心に迫る質問だったかのように。

 彼女は戸惑いつつも、決意したようにぐっと力を込めて、阿賀野に振り返った。

 「長門と申します」

 その小さな口から紡がれた言葉は、まるで嘘を付いているようには到底聞こえなかった。

 だからこそ、驚く意味が重複して、阿賀野はぽかんとなった。目の前の少女の表情は真剣だった。

 「……この戦艦と同じ名前か。奇遇だな」

 「違います。この戦艦が、私。私が、この戦艦」

 「冗談はよせ」

 「冗談じゃないよ。航海長さんは艦魂って知らないの?」

 噂くらいは聞いたことがある。帝国海軍軍人になるなら必ず聞く伝説のような噂話だ。一隻の艦にはその艦に宿る魂、艦魂というものが存在する。その艦魂は全て例外無く若い女性の姿をしていて、その容姿などは普通の人間と変わらない。阿賀野も帝国海軍軍人となって長いが、今の今まで実際に艦魂というものに出会ったことがなかった。

 「まさか……貴様が、その艦魂とでも言うんじゃないだろうな」

 「そう」

 まるでさも当然かのように、自らを長門の艦魂と名乗る少女は頷いた。

 「……馬鹿か?」

 「何でそんなことを言われなくちゃいけないんだろ? まぁ信じられないのは当然か……」

 長門と名乗った彼女はわかっていたと言う風に溜息を吐いた。阿賀野も溜息を吐きたい気分であり、「でも新米の兵ってわけじゃ明らかに無さそうだし……私が初めて見えた艦魂というのもおかしいな……」とぶつぶつ言い始めた少女の独り言もどうでも良い気がしてきた。

 「阿賀野少佐!」

 青い声に引かれて、阿賀野が振り返った先には若い水兵が三人、居た。徴兵年齢が下げられている昨今、年将兵という存在は珍しくなかった。まだ青々しさを残した一人の水兵が、はきはきとした声で言った。

 「少佐の御着任に際し、本日自分達が艦内の案内を務めさせて頂きます!」

 水兵達は新たな航海長を前にして緊張を隠しきれない様子だったが、今の阿賀野にそれに構っていられる余裕はなかった。

 「おい。こいつをつまみ出してくれ」

 水兵達は顔を見合わせた。そして三人が自分達の顔を互いに見合わせながら―――

 「……誰を、ですか?」

 「貴様達じゃない」

 阿賀野は長門と名乗る彼女に指を指す。指を指された長門はニコニコと笑っていた。その笑顔を見て阿賀野は何故か悔しさを感じる。水兵は阿賀野が指差す方を見るが、その先に居たのは羽を休ませた海鳥だけだった。

 「申し訳ございません、少佐! 今ここには、自分達と少佐以外に誰もおりません!」

 水兵は動揺しつつも無駄に大きな声で続けた。他の二人の水兵も緊張した表情で直立不動のままである。

 「女がいるだろ」

 「は?」

 さすがに理解を超え過ぎたのか、思わず間抜けな声を三人同時に漏らしてしまった水兵達だった。水兵達は自分達が犯した無礼な過ちに気付き、慌てて謝罪の言葉を叫ぼうとした所で、阿賀野はこれ以上の無駄足掻きは止めることにした。

 「いや、もういい。すまなかった。案内は良いから行っていいぞ」

 水兵達は疑問な顔になりながら阿賀野に言われると、逃げるようにさっさと立ち去っていった。着任早速、自分は変人だと思われたのかもしれない。阿賀野は溜息を吐いて、笑顔を振りまく彼女に振り返った。

 「信じてもらえたかな? 私は貴方以外に見えてないの」

 「どうやら信じざるを得ないらしい」

 「でしょ?」

 阿賀野はまだ納得できない気持ちだったが、長門の笑顔を見ているとなんだかどうでもよくなってきた。

 「改めて紹介するね」

 少女は胸に手を当てて、にっこりと微笑んだ。

 「私は長門型戦艦一番艦『長門』の艦魂、長門。よろしくね、阿賀野海翔航海長さん」

 差し出された手に、阿賀野は溜息を吐きながら、自分の手を以てその小さな手を握り返すしかなかった。



 阿賀野は今、長門に誘われて主砲の上に登っていた。まさか『長門』に着任して当日、『長門』の自慢の41cm主砲に乗ることになろうとは、さすがに夢にも思わなかった。

 やはり甲板より高い主砲の上は風が更に冷たく、肌寒かった。阿賀野は震え上がり、小さなクシャミを漏らした。

 「大丈夫?」

 「……予想以上に寒いが、大丈夫だ」

 赤くなった鼻を隠すように指を据えた阿賀野に、長門はクスリと笑う。

 「少し寒いかもしれないけど、もうすこし待ってて。多分もうすぐだから……」

 長門が主砲の上に座り込み、足を砲身の間に投げ出す。阿賀野は立ったまま、長門を見下ろして訊ねた。

 「何の事だ?」

 「綺麗なものが見られるから」

 「?」

 長門はにっこりと優しい笑顔で阿賀野に振り返った。

 その動作が阿賀野にとって不意打ちだったのか、妙な鼓動が阿賀野の胸を打った。

 「そ、そうか……」

 「うんっ」

 阿賀野は頬に朱色を染めながら顔を逸らした。長門はニコニコと空を見詰めている。

 初めて見た時から思ったが、長門の容姿は阿賀野がこれまでに見てきたどの女性よりも美しかった。

 戦艦の美しさとは異なる、女性としての美しさ。

 長い黒髪が川のようにさらさらと流れていて、輝くような笑顔も子犬のように可愛らしかった。少しだけ大人っぽい雰囲気の中に、未だ濃く残る幼さが自己主張している。まだ二十歳になったばかりの女の子、みたいな感覚に近い。

 阿賀野は思わず、くっと笑みを零した。

 「どうしたの?」

 「なんでもないよ」

 いきなり噴き出した阿賀野に首を傾げた長門だったが、やがて何かに気付いたかのように、長門が空を見上げた。

 「あっ、来た……!」

 「え? ……あ」

 空からちらちらと、白い結晶が舞い降りてきた。それは肌に溶け込み、心地よい冷たさを与えてくれた。

 それが何なのか、阿賀野は直ぐに理解した。

 「……雪、か」

 ちらちらと降り注ぐ雪を見上げ、阿賀野は呟いた。隣で長門は満面な笑顔を輝かせる。そんな長門を見て、阿賀野は驚いたように言った。

 「……何故。雪が降るってわかったんだ?」

 「なんとなく、かな。いつも空を見ているから、そういうのがなんとなくわかるの。雨が降るときや雪が降るとき、強い風が吹くのもなんとなくわかる。ただ、それだけの話」

 「……そうか」

 なんとなくはっきりしない解答だったが、阿賀野はそれでも良いという気がしていた。兎に角、目の前の光景を見詰めるだけで満足だった。

 二人はしばらく、舞い散る白い雪を見ていた。白い雪がちらちらと降り、そして消えていく。それはとても儚く、切ないものだった。そんなことを言い出したのは、長門だった。

 「私たちの命って、こんなものだよ」

 「何?」

 阿賀野はぽつりと呟いた長門を見下ろした。長門は足をぷらぷらさせて、ただ雪が降る空を見詰めている。

 「私たちは戦うために生まれた兵器。だからいつか戦いで必ず死ぬ。雲から生まれた雪は、地に着くまでの間、あり続ける。だけど地に着いてしまえばあっさりと溶けて消える。それはとても切なくて、悲しいものだと、私は思う……」

 寂しそうな表情を浮かべた長門を見据えながら、阿賀野は口を開く。

 「でもたくさんの雪が地に着けば、やがては地は雪で積もるだろ」

 「……地に積もった雪は踏まれて、春になれば溶けてなくなる。だからいくら長生きして命を延ばしたって、必ずなくなります」

 「それは人間だって同じだ。人間だって、戦争で死ななくても、いつかは病気か寿命で死ぬ。艦魂と人間でも、同じことが言えるだろ」

 只、自然と出た言葉を口にしただけだった。特に考えて言っているわけではなかった。人間とは、言葉を話す人間とは、考えても考えなくても言葉が出るものだ。

 「そんな暗いことを言うな。 確かに戦況は帝国にとっては苦しい状況だが、だからと言って、そうやって生きる希望を無くすよう言い方をするな」

 阿賀野の言葉に反応した長門が、今度は阿賀野の方を見る。

 「生きる希望……?」

 「そうだ。生きる希望を持てば、必ず良いことがある。生きていれば良いことがあるんだ。俺だって、こうして長門と出会えたわけだしな」

 「お上手だね、航海長さんは……」

 くすくすと笑う長門だが、対する阿賀野は真剣だった。そして真剣に、口元を緩めた。

 「全然そんなことはない。当たり前のことだ」

 「でも―――」

 再び顔を下げた長門の表情は、立っている阿賀野からは見えない。

 「これまでに大勢の友達が先に死んじゃった。みんな、私を残して……。妹だって死んじゃったし……ここにいるのは、私一人だけ」

 古来より日本を護り続けてきた戦艦『長門』。そして彼女はこの艦生の中で、大勢の人や艦魂と出会ってきた。この戦争が始まって、大勢の戦友、友達を失い、愛していた妹まで失って、こうして自分は一人だけ横須賀港に居る。他の戦艦はここにはいない。一人ぼっちの長門にとって、それは果てしなく寂しいものだった。

 「馬鹿」

 阿賀野はぽん、と長門の頭を優しく叩いた。

 長門はちらりと、先程とは別人のような優しい表情を浮かべる阿賀野の方に視線を向けた。

 「俺がいるだろ? だから今日から、お前は一人ぼっちなんかじゃない」

 「航海長さん……」

 「だからそんな暗くなるな」

 頭を優しく撫でつつ、阿賀野は言った。誰かに頭を撫でられるのは何時ぶりだろう、と長門は思う。頭に触れる心地良さが、長門の氷のように凍っていた心に湯が浸かるようだった。やんわりと溶ける、心地良さ。

 初めて見た時は少し恐い人かなと思ったけど、本当は―――

 長門の表情は自然と柔らかくなった。

 「じゃあ、航海長さん。お願い事を一つ、良いかな?」

 「お願い事? 何だ」

 「私と、お友達になってください」

 長門の口から紡がれた言葉に、阿賀野は驚いた表情を浮かべた。

 「友達?」

 顔を上げた長門は目元を指で拭ってから、にっこりと阿賀野に微笑んだ。

 「……まぁ、これから共に戦う者同士。戦友だな」

 「違うよ」

 「えっ?」

 まさかお願いした立場から即否定されるとは思いもせず、阿賀野は唖然とする。

 長門はふるふると首を横に振った。阿賀野が理解している意味とは違うことを主張していた。

 「ともだち」

 ―――純粋な、“友達(ともだち)”という意味で。

 「……大して変わらないだろ」

 「私は『ともだち』が良いの」

 「何故」

 「その方が、何だかとても優しい感じがするから……」

 「何だそれは。いや、しかしだな……」

 阿賀野は友達といわれるのは子供の頃以来だなと思ったが、長門は譲らなかった。

 長門は阿賀野に詰め寄って、頬を膨らませて人差し指を向けた。

 「と・も・だ・ち」

 頬を膨らませた長門が、人差し指をぐいっと阿賀野に押し付ける。阿賀野は長門の押しに降参し溜息を吐いた。

 「……わかったよ。友達、な」

 「うんっ!」

 長門はまるで子供のように無邪気な笑顔になって、万歳と声を上げた。

 「(こんな女が、我が帝国海軍の誇る戦艦『長門』の本来の姿だと……?)」

 阿賀野は口元を緩ませる。

 「(ただの、女の子じゃないか……)」

 阿賀野の脳裏には、古い記憶にある地元の女学生の姿が思い浮かんでいた。



 雪が降る日、阿賀野は長門と出会った。

 雪は申し訳程度に降り、横須賀港を一時幻影のような真っ白な世界に招待した。

 そんな世界で出会った少女の事を、戦艦の魂を、長門の事を阿賀野にとって生涯忘れられるものではない。

 「俺の地元にも長門のような若い女が居たものだが、長門のような女に出会ったのは初めてだよ」

 「嬉しい事を言ってくれますねぇ、航海長さん」

 長門と出会って一ヶ月。慣れない航海長の仕事に従事し、いよいよ慣れてきた阿賀野もこうして長門と空いた時間に話を交わす余裕も出来てきた。新しい艦に慣れる方を優先していた阿賀野と接する時間が増えたことに、長門は嬉しそうな様子だった。

 「俺が海軍兵学校に合格して地元を発つ日も、地元の人達が総出で見送ってくれたのだが。近所に居た女学生は真面目で正直な娘だったが、今も元気にしているだろうか」

 「航海長さんの地元は何処なんですか?」

 「山口だ。下関。本州最西端さ」

 「下関! 私も何度も関門海峡を通りましたし、下関港にも寄ったことがあるよ! えっと、確か最近だと世界初の海底の鉄道トンネルが出来たとか!」

 「よく知っているな」

 共感が多い話、しかもそれが地元の話とあっては盛り上がるのも必然だった。まるで時間を忘れているかのように、二人は夢中になって話を続ける。

 「それにしても、不思議だね」

 「何を?」

 「だって、私の名前の由来って長門国でしょう?そして航海長さんの出身地は山口県の下関。こんな所で共通点があるなんて、運命的なものを感じるね」

 「確かに……」

 どうして今まで気付かなかったのだろう。余りにも突拍子過ぎた長門との出会い、そして新たな艦への習熟期間が重なり、あまり考える余裕が無かったのもある。

 「やっぱり私と航海長さんの出会いは、運命だったんだね」

 「運命、か……」

 そういうのも悪くないな、と阿賀野は思った。長門は無邪気に笑うばかりで、深い意味は無さそうだった。

 むしろ深い意味とは何か、と自問して阿賀野は我に帰る。余計な事を考えそうになった頭を振り払い、何とか言葉を見つける。

 「それなら何時の日か、下関に行けたら良いな」

 「航海長さんと、一緒に……?」

 「そういう事になるな。俺がお前の舵を取って、共に下関に行く。素晴らしいとは思わないか?」

 阿賀野の言葉を受けて、長門は呆然としたような顔になった。その表情がみるみるうちに眩しい色を帯び、やがては華やかに咲き誇った。

 「うん……うん……ッ! とっても、すっごく、良いと思う!」

 「そ、そうか」

 想像以上に嬉しそうな反応を見せる長門に、阿賀野は圧巻されてしまった。視線の先にある長門の顔は、まるで開花した桜のようだった。

 「航海長さん! 何時か必ず、一緒に航海長さんの故郷に行こうね!」

 手を握ってきた長門の行動に、阿賀野は驚いた。それが希望に満ち溢れた約束と理解し、阿賀野は直ぐに了承した。

 「ああ。行こう」

 「約束だからね!」

 長門の差し出された小指。阿賀野はそれを子供の頃からおまじないの一種であることを知っていた。だからその小指をどうするかも知っていた。

 自分の小指を長門のまた小さな小指に絡め、共におまじないを口にする。

 「指きりげんまん、嘘付いたら針千本―――」

 おまじないを口にしながら、小指を絡める阿賀野は、幼少の頃に友達とこうした行為をした記憶を思い出した。

 「(成程。友達、か……)」

 阿賀野は出会った頃の長門が友達と言った心情を、初めて理解したような気がした。



 阿賀野の故郷であり長門の由来となった下関に行く約束は、三月に入る頃、希望から絶望に変わった。

 昭和二十年三月。関門の空に連夜米軍機が到来するようになり、海峡に約4700個もの機雷が投下された。この数は全国に投下された1万1千個の半数近くを占め、海峡を通航する船舶は次々と機雷の餌食となり、関門海峡は事実上封鎖された。

 関門海峡を控え戦略的要衝の地である下関は、火の山・後田・金比羅・彦島等に砲台を備えた西日本最大の要塞地帯であった。要塞司令部がある貴船町。小月には関門海峡を防衛する航空戦闘隊、吉見には下関海軍防備隊が配置されていた。又、彦島には三菱重工下関造船所と三井製錬、長府の神戸製鋼等の軍需工場、前田の下関発電所、世界初の海底関門トンネルなど戦略的重要施設が数多くあった。

 そんな重要拠点の下関が敵の攻撃に晒されるのは当然の話だった。三月の機雷敷設を受け、日本にとっても重要な海峡を封鎖された下関は、後に六月には大規模な空襲に晒される運命にあるが、それはまた後に起こる別の話である。

 兎も角、この時点で長門と阿賀野が結んだ約束は完全に断ち切られたのだ。


 四月、戦艦『大和』を中心とした第二艦隊が沖縄に向け海上特攻作戦を展開し、戦艦『大和』は他の第二艦隊各艦と共に東シナ海の海底に沈没した。しかし『大和』の沈没は秘匿されたため、大和の“友達”である長門が知る由もなかった。

 一方の『長門』は六月、特殊警備艦に艦種変更とされた。副砲及び対空兵装が撤去されて陸上げし、マストや煙突も撤去され、空襲擬装用に迷彩塗装が塗られた。それは、かつて連合艦隊旗艦を務めた『長門』は、今やただの浮き砲台でしか無くなったことを意味していた。

 敵の上陸部隊を迎撃する砲台―――つまり、本土決戦への備えであった。


 結局、『長門』は任務や用務を与えられることなく、静かに横須賀港に留まるだけだった。航海長としての実戦を、阿賀野はずっと果たせないままでいた。

 しかし一方で長門との交流は続いた。接する時間も日に日に増えて、阿賀野は忙しい時でも必ず仕事を終わらせて長門に会いに行っていた。二人の距離は徐々に近づいていることは明白だった。



 六月末と七月に入ってからは、阿賀野の地元である下関が空襲に見舞われる。

 敵が開発した焼夷弾は日本の木造家屋に絶大な効果を発揮し、他の都市同様、下関も大部分が焼き尽くされた。

 空襲後、阿賀野の下に一通の手紙が届いた。その手紙は阿賀野の家族の無事を報せるものであったが、同時に多くのものが失われた事実も書かれていた。

 「実家……焼けちまったみたいだ。近所にいた女学生や従兄弟夫婦も死んだ。一面、焼け野原……か」

 「航海長さん……」

 長門は何も言えなかった。阿賀野もただ、手紙を見詰めるだけで、怒ることも泣くこともしなかった。

 機雷敷設の後の空襲。本州最西端の街・下関は徹底的に敵の手によって叩かれた。二人の約束を踏みにじり、嘲笑うかのように。


 

 ある日、『長門』乗員に次々と転勤命令が発せられた。定員一三六八名に対して一〇〇〇名を割った。 阿賀野は大規模な人員配置の裏側を知った。この事態が意味するのは、戦艦『長門』が既に戦艦として出陣することはなく、自ら敵に向かって戦いに赴くことが二度とない、ということを。

 そして七月十八日。

 『長門』が、横須賀港に飛来した敵機の攻撃を受けた。

 嵐の前の静けさが漂う静寂な蒼い海の上で、突然敵機の編隊が横須賀に襲来した。空襲警報が艦内に鳴り響き、阿賀野は自室から跳ね起きて、艦橋へと急いだ。

 阿賀野は『長門』航海長として戦闘時は艦橋に立たねばならない。艦橋には艦長副長以下、数十名の士官が構える。航海長である阿賀野も艦橋へと走った。

 艦橋に上がると、既に艦長を始めとした各長、士官達が伝声管を通じて各配置に指示を伝え、慌しい雰囲気に包まれていた。慌しい艦橋の中、士官たちに紛れた長門の姿を見つけた。直ぐに阿賀野は、長門の下へと駆けつけた。

 「長門!」

 「こ、航海長さん……」

 長門の表情は不安に満ちていた。見た目は若い女とは言え、実戦経験を重ねているはずの長門にしては怯えすぎのような―――いや、無理もない。艦種変更に基づく武装の撤去で、今の『長門』には頼りになる武器が不足しているのだ。実戦を知っている者だからこそ、その恐怖は人一倍わかっている。

 「大丈夫か、長門……」

 「う、うん。私は平気だよ」

 嘘だ。阿賀野は直ぐに察した。

 長門の表情は見るからに真っ青で、細い両足が小刻みに震えていた。阿賀野はそっと長門の頭に手を添えると、自分の胸に引き寄せた。

 驚いた長門は阿賀野を見上げるが、阿賀野は優しく微笑んだ。

 「安心しろ、お前は俺が護るから」

 「……航海長さんが傍にいてくれると、不思議と心が安らぐよ」

 嘘を言っていないことを強調するように、密着した長門の身体から震えが収まる。

 「なら、俺の傍にいろ。俺はお前の『ともだち』だからな」

 「……うん」

 長門はそっと両手を阿賀野の胸に当てて、顔を寄せた。

 偽装をしているためか敵機は『長門』に襲い掛からない。なんとかやり過ごしてくれと願うが、それは叶わなかった。

 「敵機来襲ッ!」

 見張り員の叫び声が、阿賀野の耳に届いた。

 長門はビクリと震え、阿賀野が長門の肩をぎゅっと掴んだ。

 そしてやがて爆発音と炸裂音が響き渡るようになった。艦橋が更に慌しくなる。一瞬、冷静であるが威厳を込めた声で指示の言葉を伝える艦長の大塚幹少将が阿賀野の視界に入った。それが、阿賀野が大塚艦長を見た最後の姿となった。

 長門はハッと何かに気付き、阿賀野に抱きついて叫んだ。

 「航海長さんッ!」

 阿賀野は何事かと思ったが、直後、見張り員の悲鳴に近い声が響いた。

 「―――敵機、爆弾投下!!」

 艦橋が一瞬、静まった。そしてその瞬間、強烈な爆風と衝撃が艦橋に襲い掛かった。

 「――――ッ?!」

 阿賀野の視界が光に包まれた。そして身体が無重力の世界に放りこまれたかのように感じた。

 急降下した敵爆撃機が投下した爆弾が『長門』の艦橋に命中した。艦橋は吹き飛び、紅蓮の炎と黒煙が艦橋を包み込んだ。

 「ぐ……ッ!」

 鈍い痛みを感じ、阿賀野は目を開けた。気が付いた阿賀野が居た場所は、甲板の上だった。起き上がると、体中に鋭い痛みが走った。手を触れると頭から血が流れているのがわかった。身体の至る部分がボロボロだ。そして視界に入ったのは、先程まで居たはずの、黒煙を上げる艦橋だった。

 「そんな……」

 自分はあの吹き飛ばされた艦橋に居た筈なのに、何故甲板に倒れていたのか。

 そして、阿賀野は隣で倒れている長門の存在に気付いた。

 「な、長門……ッ!」

 川のように滑らかな長い黒髪が乱れて広がり、長門の上半身は赤い血の海に染まっていた。見るも無残な長門の姿に、阿賀野は必死に長門の名を叫んだ。阿賀野の呼びかけに反応したのか、長門はゆっくりと目を開いて、阿賀野を見た。

 「こ、航海長さん……。良かった、無事だったんだね……」

 血がこぼれる口から弱々しい言葉が紡がれた。

 「長門、しっかりしろ……ッ!」

 阿賀野は血だらけになった長門の身体を抱きかかえた。ダランと下がった腕を伝って、赤い血が甲板に滴る。

 長門は爆弾が艦橋に炸裂する間際、艦魂の能力の一つである瞬間移動を使い、抱き締めた阿賀野と共に甲板に逃げ込んだのだ。しかし本体である艦が損傷を受けた事で、艦魂である長門の姿も無残な姿となっていた。

 上半身が真っ赤な血で染まり、軍服が破けて露になる肌も真っ赤だった。長門の荒い呼吸から、艦の損害が痛いほどわかる。阿賀野は上着を脱いで、長門の上半身に当てた。上着はあっという間に長門の血で赤く染まった。

 と、その時。また爆発音と衝撃が艦を揺さぶった。同時に長門の身体から鮮血が迸った。

 「―――ひぐぅッ!」

 長門は苦しそうにビクンと身体全体を震わせ、苦痛で顔を歪ませた。阿賀野は咄嗟に、赤く染まる長門の上半身を抱き締めた。

 「痛い……痛い……」

 「長門……ッ」

 長門が苦しそうに血と共に吐く息から、言葉が耳越しに聞こえる。それはとても辛そうだった。

 「でもね……航海長さんが、げほ……ッ、傍に居てくれると……和らぐ……ずっと、いて……」

 「ああ……! ああ……ッ!」

 何度も頷く阿賀野の瞳から一筋の雫が零れる。阿賀野は血を流し苦痛に顔を歪める長門の身体を抱き締め続けた。

 やがて空襲が去り、阿賀野が抱き締める長門の表情は苦痛の歪みから、安堵の表情へと変わっていった。



 七月十八日。横須賀港に停泊していた戦艦『長門』は、米機動部隊の艦載機からの攻撃を受けた。この空襲で、『長門』に三発の爆弾が命中。一発は艦橋を直撃。一発は第三砲塔前に命中した。艦橋が破壊され艦長の大塚幹少将以下三十三名の乗員が戦死し、後任艦長は杉野修一大佐(旅順港閉塞作戦で戦死した杉野孫七兵曹長の長男)が引き継ぐ事となった。


 敵機が去り、空襲が終わって横須賀港に静けさが戻った。

 艦橋が破壊され、黒煙が漂う『長門』をオレンジ色の夕日が包み込んだ。その夕日を、阿賀野は長門を抱いたまま、見詰めていた。阿賀野に抱かれて眠る長門の寝顔は、血で汚れていても、その寝顔はとても安らかだった。その安らかに閉じていた瞳が夕日に照らされ、ゆっくりと開いた。

 「……航海長さん」

 「気が付いたか、長門」

 長門は夕日の色に染まった阿賀野の安堵する表情を見た。

 「ずっと、いてくれたの……?」

 「ああ」

 長門が傍にいてくれと言ったからではない。自分がいたかったからだ。

 ―――などと、長門に直接言える程、阿賀野は素直ではない。しかし阿賀野の顔を見た長門は、見透かすようにクスリと微笑んだ。

 「ありがとう……」

 「礼を言うのはこっちだ」

 「え……?」

 「あの艦橋から俺を救ってくれたんだ。長門は俺の命の恩人だ。ありがとうな、長門」

 「私は……その……」

 「……………」

 沈黙する二人。やがて長門がぽつりと呟いた。

 「私……痛くて苦しくて、震える中で、航海長さんに抱き締めながらあることを思い続けてました……」

 「何を?」

 阿賀野の問いに、阿賀野の顔を見上げた長門がはっきりと言った。

 「―――生きたい、って」

 「……長門」

 「死にたくないって思った。生きて、まだずっと航海長さんと居たいと思った。航海長さん……阿賀野海翔少佐とこれからもずっと一緒にいたいって……希望を持った」

 「……………」

 「それが、私の生きる希望」

 阿賀野は長門の頭をぽん、と手を乗せて、優しく撫でた。長門はビクリと震え、大きな瞳で阿賀野を見上げた。長門が見た阿賀野の表情は、優しく微笑んでいた。

 「俺も、同じだ」

 「え……?」

 「俺の生きる希望も、お前だ。長門といたいっていう思いが、俺の生きる希望だ」

 「……ッ」

 何故だろう。今だけは、素直になれた阿賀野だった。

 長門が見詰める阿賀野の頬も、夕日に当たっているからか、ほのかに色を帯びているように見えた。

 対して長門の顔は、夕日に負けない程にはっきりと真っ赤に染まっていた。

 そして顔を俯いて、またぽつりと呟いた。

 「……海翔さん」

 「え?」

 「海翔さんって呼んでも構わない?」

 長門は頬を朱色に染めながら、顔を上げて言った。阿賀野は呆然と長門を見下ろした。 

 「えっと……今、阿賀野海翔少佐って言ってみたら、何だか名前で呼んだほうがいいなーと思って……だから、その……」

 長門はあたふたと慌て、しどろもどろに何かを言っている。

 阿賀野はそんな可愛らしい長門を見て、優しく小さな溜息を吐いた。

 「別に構わないぞ」

 長門は驚いたような表情で阿賀野の顔を見た。阿賀野は顔を逸らしてどこか空を見詰めている。

 「別に、名前で呼んでくれても俺は全然構わない……長門になら、むしろ良いぐらいだ」

 長門も再び顔を赤く染め、黙った。阿賀野も顔を隠すように手を当て、自分に溜息を吐いた。

 「……うん」

 頷く長門。その口元が初めて緩んだ。そして長門はどこか気恥ずかしくも、微笑んで口を開いた。

 「海翔さん」

 「……ああ」

 そして阿賀野に抱かれながら、長門も水平線に浮かぶオレンジ色の夕日を見詰めた。二人とも夕日の色で赤くなった顔を誤魔化そうとするように。二人はいつまでも、その夕日を見続けていた。



 空襲から一ヶ月の間に、様々なことが日本に起こった。

 七月二十八日。広島県の呉港が敵の空襲を受けた。これは三度目となる敵の大規模な攻撃だった。呉に集結していた大日本帝国海軍の艦艇群が敵機の盲爆を受け、その殆どが被害を受けた。戦艦『榛名』を始めとした大型艦が大破着底した。この呉大空襲以降、日本に残された戦艦は横須賀に留まる『長門』だけになった。しかしその『長門』も物資不足によって修理が思うように進んでいなかった。

 そして八月六日―――

 八月六日午前八時十五分。第三十三代アメリカ合衆国大統領、ハリー・S・トルーマンの大統領命令を受け、広島県広島市上空に飛来したB29エノラ・ゲイが、世界人類史上初の原子爆弾を投下した。

 広島市は一瞬にして壊滅し、一般市民十数万人の命が一瞬で地獄の業火に焼き尽くされた。

 続いて同九日、長崎市にも原子爆弾が投下された。この二度目の原爆投下により長崎の一般市民七万人が犠牲になり、広島と長崎を合わせ計二十万人近い命が失われた。二度に渡って無抵抗の一般市民が核の犠牲になったのだ。これはポツダム宣言を黙殺した日本に対する報復であった。

 更にソ連が日ソ不可侵条約を破棄し、連合国軍側として参戦した。日本領の満州と樺太に進撃したソ連軍に対し、日本軍は太刀打ち出来なかった。日本は原爆投下とソ連参戦によって窮地に立たされてしまった。

 この結果、日本は遂に一度は黙殺した無条件降伏勧告であるポツダム宣言を受諾し、八月十五日、天皇陛下の玉音放送によって日本全国民に敗戦が知られることとなった。日本の無条件降伏によって莫大な犠牲を払った戦争は、ここに終結した。

 阿賀野も『長門』艦内で天皇の玉音放送を聴き、敗戦を知った。

 「朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ似テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告グ…………」

 初めて耳にする主君の言葉に、阿賀野や長門を始めとした誰もが黙って聞いた。

 「…………難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ似テ萬世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」

 放送が終わると、殆どの者が嗚咽を漏らしていた。阿賀野も内容を理解し、呆然としていた。当然だった。我が皇国は敵が発した共同宣言を受諾し、無条件降伏―――つまり、負けたのだ。

 敗戦の二文字が、重くのし掛かった。

 周りから嗚咽が零れる中、阿賀野も無言で雑音が流れるラジオをただ見詰め続けていた。呆然と黙っていた阿賀野の胸に、長門が顔を埋めてきた。長門は阿賀野の胸の中で小さく嗚咽を漏らし、阿賀野も何も言えず目を伏せるだけだった。



 その夜は、不気味な程に静かな夜だった。

 日本本土の何処にも敵の空襲は来なかった。空襲警報が鳴ることも、迎撃機が舞い上がることも無く、久しぶりの静寂が夜を支配していた。

 横須賀の街も明かりを取り戻していた。空襲がなくなり、灯火厳守をする必要もなくなったからだ。しばらくぶりに見た街の明るさを、阿賀野は『長門』の主砲の上から眺めていた。

 夜の潮風が、夏だと言うのに冷たかった。長門と出会った日を思い出す。

 街の明るさを見て、隣にいた長門は言った。

 「本当に、戦争が終わったんだね……」

 光で明るくなった街を見ていると本当にそんな気持ちにさせた。戦争は本当に終わったのだ。

 「ああ」

 阿賀野はただ頷いた。

 この戦争で、自分たちはなにを得て、なにを失ったのか。得たものは、殆どない。この戦争は、一体何の為に行われて終わったのだろうか。

 「これからどうなるんだろうね……」

 敗戦国になった日本。その未来に不安を抱くのは当然だった。

 多くの犠牲の上に成り立ったものが、敗戦。戦争が終わってもその国の運命と将来に平和が訪れるかどうかはわからない。かつての敵国に占領され、どんな日常が待っているのか誰にも想像できないのだ。この国の運命は、自分たちの運命に繋がる。この国は一体どうなるのだろうか―――阿賀野の思考を遮るように、長門の言葉が続いた。

 「違うよ。日本のことじゃなくて……」

 首を振った長門を、阿賀野が視線を向ける。

 二人の視線が合った。

 「私と、海翔さんが」

 「……………」

 「海翔さんは、軍人から普通の人に戻ると思うよ。多分軍隊は解体される。……だったら、敗戦国の軍艦である私は、どうなるかわからない……」

 「長門……ッ!」

 「海翔さんは普通の日常に戻ってこれからも生きていられる。でも私は、敗戦国の軍艦になっちゃったから、もしかしたら―――」

 「言うなッ!」

 阿賀野は自分でも驚く程、大きく叫んでいた。長門は驚きもせず、ただ悲しげに視線を外し、その瞳を明るい街に向けるだけだった。

 「大丈夫だ、長門。お前はきっとこれからも生きていられる!」

 根拠も無く、ただ長門の為では無く自分の為に言っている口が、どうしても憎い。

 「そうなったとしても俺がなんとかするッ!俺が傍にいるッ!だから安心してくれ」

 一航海長の自分に何ができる。しかも軍隊は解体されて自分は軍人ではなくなるのかもしれない。一人の人間が一隻の軍艦を本当に救えると思っているのか。

 「だから長門、そんなことを言わないでくれ」

 長門の揺れる長い黒髪に必死に叫ぶように言う。しかし長門は振り向かなかった。

 「海翔さん……」

 長門が、ようやく阿賀野の方にゆっくりと振り返った。しかしその表情は、苦しく微笑んでいた。

 「お別れになるかもしれない。海翔さんは、これからも生きて、お元気で……」

 長門の言葉に、阿賀野は驚愕し言葉を失った。長門は視線を夜闇に輝く明るい街に戻した。阿賀野はただ、立ち尽くすしかなかった。



 その夜、阿賀野と長門は艦内を一緒に歩いていた。しかし二人とも無言だった。

 阿賀野の自室までやって来た二人。阿賀野は自室の扉の前で立ち止まり、部屋に入ろうとしない阿賀野を見た長門は不思議に思った。

 「……では、海翔さん。おやすみなさい」

 長門が立ち去ろうと背を向けようとした際、阿賀野の手がしっかりと長門の手首を握り締めていた。

 「海翔さん……?」

 「…………」

 阿賀野は無言で、ゆっくりと振り返った。その瞳ははっきりと長門の顔を映していた。

 「長門……」

 阿賀野の真剣な表情に、長門はどきりとなった。心臓が高鳴り始める。

 「な、なに?」

 阿賀野は、先ほどの長門の言葉を思い出した。

 目の前にいる彼女は、自分の生きる希望。そして彼女も自分を生きる希望と言ってくれた。戦争が終わっても、それは変わらない。だからそれは、生きる希望というのは―――

 この、言い表せない不思議な気持ち。

 「海翔さ―――」

 突然、ぐいっと長門が阿賀野に引き寄せられた。そして長門の驚いた顔が阿賀野の顔に迫り、そして二人の唇が重なった。

 長門は驚いた顔になっていたが、やがて頬を朱色に染めながら目を閉じた。

 そしてずっと、二人は柔らかい唇を重ね合わせていた。




 八月十五日の夜が更け―――

 戦争が日本の敗戦によって終結すると、戦勝国となった連合国軍で構成された占領軍が進駐し、日本に対する占領政策が始まった。その一環として連合国軍総司令部GHQにより、大日本帝国陸海軍は完全に解体された。

 敗戦と共に、降伏した敗戦国の残存する兵力、武器が戦勝国に接収、又は処分されるのは古来より終戦処理の主要事項の一つである。軍の解体により軍の航空機や戦車等が処分される中、阿賀野は海軍の艦艇にも同様の処遇が下される事を察していた。

 当然ながら一残存海軍艦艇の一隻である『長門』も接収の対象だ。

 しかし最早軍人でも無くなった阿賀野に策があるはずもなかった。

 そんな阿賀野に契機が訪れたのは突然の事だった。阿賀野の下に復員局を通じてGHQから職員として招待されたのである。これを好機と受け止め了承した阿賀野は、東京丸の内の明治生命ビル内にある対日海軍技術調査団に出頭し、ここで元海軍の日本人協力者として働く事となった。阿賀野は英米海軍の士官たちに調査の協力をしながら、同時に帝国海軍の所有していた艦艇の情報を漁った。やはり数々の艦が接収・処分される中、阿賀野はようやく『長門』の手掛かりを突き止めた。

 ―――敗戦国の軍艦である私は、どうなるかわからない―――

 その言葉から危惧する通り、日本の艦は復員艦を除き次々と処分され、散っていった。

 だが、戦艦『長門』は未だ健在だった―――



 「久しぶりだな、横須賀……」

 昭和二十年九月。阿賀野は久方ぶりに、横須賀の港に訪れた。

 終戦後も横須賀港に留まり続けていた『長門』。日本を代表する戦艦として、日本人皆から愛された美しい戦艦も、空襲の傷跡を生々しく残し、今やその敗残の身を横須賀港に横たえたままであった。

 港内の一番ブイに繋がれていた『長門』の下へ、阿賀野は同行した米軍関係者と共に訪れていた。阿賀野は懐かしさを感じながら『長門』の艦上へ足を踏み入れた。

 そして主砲の上に早速よじ登った阿賀野を見て、連れ添いの米軍関係者は驚いて呆れていたが、阿賀野は構わず主砲の上に上がった。

 そして――遂に、彼女を見つけた。

 長い黒髪が揺れる背中がそこにあった。

 「――長門ッ!」

 その長い黒髪が揺れて振り返り、彼女の大きな瞳が阿賀野を見た。

 「……海翔さん」

 阿賀野は『長門』に駆け寄り、抱き締めた。長門は驚いた表情を浮かべるが、直ぐに優しく微笑んだ。

 「会いたかった、長門」

 「私も、だよ……」

 二人はしばらく、お互いの温もりを感じるように抱き締め合ったのだった。



 二人は主砲の上から蒼い海と空を見詰めていた。心地よい潮風が肌を撫でる。

 昔と同じだった。

 こんな時間が、いつまでも続けばいい。そう願っていた。

 しかし、そんな時間は終わることを阿賀野は知っていた。そして二度とないことも。

 阿賀野は、ある事実を聞かされていた。それは、余りにも残酷で悲しいものだった。

 「……………」

 「どうしたの、海翔さん。久しぶりの再会だっていうのに浮かない顔して……」

 「いや、何でもない。気にするな」

 海翔はその思いを、隠し事を、胸の中にそっと秘めた。

 しかしその隣で、長門が不意に悲しげな表情を見せたことを、阿賀野は気付くことが出来なかった。



 長門と再会してからと言うものの、阿賀野は長門に何度も会いに行っていた。

 まるで出会った頃の後のように。回数をゆっくりと増しながら。

 彼女との、残された時間を楽しむために―――

 長門と再会して一週間。もうすぐ十月だと言うのに、厳しい残暑の猛射が地上を襲っていた。

 麦藁帽子を被った長門が、防空指揮所で風に浴びて涼んでいると、両手にアイスクリームを持った阿賀野がやって来た。

 「長門、アイス食うか」

 「アイス?」

 「ああ。銀座で料理店を開いている腕利きの知り合いがいてな。そいつに来てもらってアイスクリームを作ってもらった。美味いぞ」

 「わざわざ来て?」

 「いや、たまたまそいつが遊びに来ててな。ついでに頼んだんだ」

 阿賀野が「ほら」と、暑さで溶けかかっているアイスを長門に手渡した。長門は両手で受け取り、じっと白く煌めくアイスを見詰めた。

 そしてぺろっと、アイスを舐めた。

 「おいし………ッ?!」

 次の瞬間、長門はぷるぷると悶え始めた。阿賀野は驚いて「どうした?」と慌てて訊ねる。

 「口の中がキンキンに、冷たい……」

 初めて食べたアイスクリーム。しかもこんな長門曰く絶対零度のような冷たさを口で味わうのは生まれて初めてだった。こんな経験は二十五年間の艦生で初めてになる長門にとって苦痛だった。阿賀野が心配になる程に、長門は長い間、ぷるぷると震えていた。

 「だ、大丈夫か?」

 「……うん。でも、おいしい」

 長門は目元に涙を浮かべながらもにっこりと微笑み、恐る恐るではあるがぺろぺろとアイスを舐め始めた。阿賀野はほっと胸を撫で下ろし、さて自分も―――と、思った所で、阿賀野は目敏く長門の頬にアイスクリームが付いているのを見つけた。

 「長門」

 「うん? ―――ッ!」

 阿賀野は長門の頬に付いたアイスクリームを指で拭い取ると、そのままぱくりと自分の口元に運んでしまった。ぺろりと、指から長門の頬に付いていたアイスを舐め取った。

 「うん、確かに美味いな」

 「…………………」

 「……どうした?」

 呆然としていた長門が、やがて爆発したように顔を真っ赤に染めた。

 長門は思わず顔を伏せ、高鳴る胸元に手を当てた。

 まるで機関を全速稼働しているように、胸や顔が熱かった。排気温度がみるみる内に上昇していく。

 「長門?」

 「ぱくっ!」

 「うおっ!?」

 長門はアイスを豪快に口の中に含んだ。長門の行動に驚愕した阿賀野だったが、更に先とは比較にならない程に苦しそうにぷるぷると悶え始めた長門を見て、更に慌てた。

 「お、おい! 本当に大丈夫か!?」

 「口の中がひどく冷たい……あぅぅ……ッ」

 「お前って奴は……」

 呆れた表情を浮かべた阿賀野が、長門の顔に寄る。長門は近付く阿賀野の顔を見て、ハッと何かに気付いたように目を見開いた。

 長門は舐めたアイスクリームを阿賀野に差し出した。阿賀野は差し出されたアイスクリームを見て、首を傾げた。

 「もういらないのか?」

 「……そ、そういう事じゃなくて……その、口がとても冷たいので……」

 「?」

 「あたためて、ほしい……」

 阿賀野はどうすれば良いかわからなかった。と言うよりは、長門が何を言っているのか理解出来ていなかった。

 長門の頬に付いていたアイスを取って舐めたら、いきなり顔を赤くしてアイスを一気に舐めて、悶え始めた長門。だが今の長門は、どこかそわそわしていてわざとらしい。阿賀野は怪訝に思うも、長門は必死に要求を続けた。

 「口の中……あっためて……」

 それは、特大の勇気を振り絞った長門の言葉だった。

 そう言って、長門は目を閉じた。

 この長門の行動で、阿賀野は理解した。同時に顔を赤く染めた。理解したのは良いが、問題は行動だ。

 ―――まさか。

 阿賀野は長門が望んでいることを再考し、やはり同じ結論に至った。そして戸惑った。何故そういう結論に至るのか阿賀野もわからなかったが、長門自身がそれを望んでいることは事実だった。ますます動揺を禁じえない。しかし、何時までも女々しく慌てている場合でもないことを阿賀野はしっかりと理解していた。

 目を閉じた長門はずっと待っている。その頬は朱色に染まっていた。

 そんな長門の顔を見て、阿賀野は決意した。

 「……………」

 阿賀野はアイスで白くなった長門の柔らかい唇に、自分の唇を当てた。

 「……………」

 「……ん」

 長門がジロッと不満な視線で阿賀野を見詰める。阿賀野はまたもや理解した。

 「………ッ」

 二度目。しかし一度目より、濃厚に。

 改めて意を決した阿賀野が再び目を閉じた長門の両肩を掴むと、長門の身体がびくりと震えた。しかしそんな一瞬の反応如きで躊躇する事は男が廃る。阿賀野はそのまま攻めるように、荒波を掻き分ける船のように、強引に長門の唇に自分の唇を寄せた。長門が待っている接吻は、間違いなくより深いもの。強引に攻めるような勢いでも、最初の当てる一瞬だけは、長門の唇に自分の唇を優しく当てる。

 そして、そこからが本命だ。長門の唇に阿賀野の唇から何かが当たった。それが正しく強引に、長門の唇を割って、中に侵入を開始する。

 「……ん。んぁ…ッ」

 長門の唇から甘い声と吐息が漏れる。それが更に、阿賀野の内に眠る何かをくすぐる。何時しかその行為に夢中となって興奮が伴う。それは二人とも同じだった。長門の唇の中に自分の舌を忍ばせ、唇よりもっと柔らかくて甘い感触を味わう。先程のアイスの味が絡まる。甘くて濃厚なキスだった。

 それを堪能するように、貪るように―――正しく獣(けだもの)の如く食すように、阿賀野は長門を味わい尽くした。

 白い線を引いて、二人の唇が離される。

 紅潮した顔が、お互いの眼前にあった。

 「……………」

 「……………」

 こんな甘い一時は、二人とも生まれて初めてだった。

 気恥ずかしい沈黙の時間。その沈黙を破ったのは、意外にも長門だった。

 「……そういえば、海翔さん」

 唐突に、長門が指を唇に当てながら、口を開いた。その頬はまだ紅潮していた。

 「まだ、言ってもらってないです……」

 「……何を」

 すぐに気付いたが、とぼけてみる阿賀野。まるで子供のように。

 「……今の気持ちです」

 「興奮した」

 「怒るよ?」

 むっとした長門を目の前に、阿賀野は咳払いをする。

 そして―――その口を開く。

 「あー、長門……」

 「うん……」

 お互いに逸らしていた顔を合わせる。

 長門が見上げる中、阿賀野が口を開く。

 二人の顔は紅潮したまま。

 「………好きだ。俺は、長門が好きだ」

 「……私も。海翔さんが、好きです……」

 沈黙が降りたが、二人はじっと紅潮した顔で見詰めたままだった。

 そしてまた、どちらからともなく、再び互いの唇を近づけて、重なった。

 こんな時間がいつまでも続けばいい。そうすればとても幸せな時間の中で生きていけるのに。

 しかし知っていた。こんな時間は束の間の幸せなのだと。

 束の間の、幸せの人生―――いや、艦生なのだと。




 昭和二十一年三月十八日。

 祖国の敗戦後も長らく係留していた『長門』は遂に横須賀港を出航した。

 その艦体は旧海軍ドッグで修理し、久々にピカピカな状態だった。しかしこれが最後の航海になる事を、阿賀野は知っていた。阿賀野は再び『長門』航海長として乗艦し、『長門』の航海を指揮した。この航海が阿賀野航海長の初めての航海であり、そして最後だった。

 この時、『長門』の乗員に日本人は阿賀野一人だけだった。本来はアメリカ人だけで行く所を、阿賀野がなんとかして航海を共にしたいと半ば強引な形でねじ込んだのだ。奇跡的に最初で最後の『長門』の航海を、阿賀野は同行する事に成功した。

 しかし出航直前、かつては日本の天下第一艦だった『長門』が、アメリカの油を積み、アメリカの旗を揚げ、乗員のほぼ全員がアメリカ人によって操艦されんとした光景を目の前にした時、不覚にも涙が出そうになった阿賀野だった。

 目的地は日本の旧南洋委任統治領の東北端に近いマーシャル諸島ビキニ環礁。

 『長門』と同じくして日本の艦艇では軽巡『酒匂』も向かったが、彼女は完全に米海軍の手によって操艦された。

 『長門』は二週間の航海を経て、ビキニ環礁に到着。

 当の本人の長門は久しぶりの南海に喜んでいたが、阿賀野は素直に喜べなかった。南海の果てしなく蒼くて綺麗な海を見ても、その気持ちが晴れることなどあるはずがなかった。

 それよりも長門の姿を、しっかりと目に焼き付けるようにいつも見ていた。

 何故なら、もうすぐ彼女とは会えなくなるからだ―――



 昭和二十一年六月三十日。



 彼女の運命のカウントダウンが迫った前日。

 いつもの主砲の上に、長門はいた。阿賀野は長門の背を見詰め、目を伏せるが、気付かれまいと直ぐに顔を整え彼女のもとに歩み寄った。

 「長門」

 「海翔さん」

 長門はニッコリと微笑んで阿賀野を迎えた。その笑顔が阿賀野の心に激痛を走らせたが、表に出すまいと努力を行う。

 「よお」

 自分は何を笑っているんだ、と己に毒を吐く。

 「海、綺麗だよね。やっぱり南太平洋の海は、いつも綺麗だなぁ」

 「ああ、そうだな……」

 既に二人の周りは夜闇が溶け込んでいるが、その中でも透き通るような南海は確かに綺麗だった。

 夜闇に染まる海から聞こえる波の音が、静かに過ごす二人の辺りを駆け抜ける。

 空を仰いだ長門が、ぽつりと呟いた。

 「南十字星……」

 「ああ、日本じゃ見られないな。よく知っているな、長門」

 「それくらい知ってるよ。それに、戦時中にトラックで何度も見たし……」

 阿賀野は南十字星が輝く夜空を見上げ、「そうか」と返す。長門が言ったトラック島は第一次世界大戦後から終戦まで大日本帝国の委任統治領であり日本帝国海軍の南太平洋上における前線基地が置かれていた島だった。

 しかし1944年の海軍丁事件(米軍による当時帝国海軍の拠点だったトラック島への空襲)で潰滅した後は米軍の攻略対象から外され、敵中で孤立したまま終戦を迎えた。連合艦隊が健在だった頃は長門も馴染みのある場所だったが、その島で日本は多数の艦船と航空機を失った。

 しかしそれだけに留まらず、この南太平洋の美しい海の底には多過ぎる程の残骸や遺骨が眠っている。

 このマーシャル諸島も今や米軍の占領下。

 そして、ここは米国のとある実験場として利用されていた―――

 「昔は、みんなと一緒に南十字星を見てたけど、今度は海翔さんと二人だね」

 「………………」

 長門の脳裏には、かつて共に戦った戦友の―――いや、『ともだち』との記憶が思い浮かんでいるのだろうか。そんな長門をじっと見詰めていた阿賀野だったが、長門は阿賀野に振り返るとにっこりと微笑んだ。

 「でも、私は海翔さんと二人で見れてとても嬉しい」

 「……俺もだよ、長門」

 二人は南十字星が輝く夜空を見詰め続ける。そして長門が突然、呟くように言った。

 「これが最後の夜空かぁ。出来れば日本で死にたかったけど仕方ないよね……」

 「!!」

 阿賀野は鈍器のようなもので頭を殴られた衝動に駆られ、咄嗟に長門の方へ視線を向けた。

 「長門、お前……ッ!」

 「うん」

 長門は微笑みながら、しかしどこか悲しげに、振り返った。

 「知ってた」

 「――――ッ!」

 阿賀野は驚愕し、言葉を失った。

 長門は立ち上がり、手で後ろを組んで、阿賀野の方に歩み寄った。

 「知ってた、だと……?」

 「うん。海翔さんが来る前からずっと」

 長門の言葉が意味する所に気付き、阿賀野はハッとなる。

 ということは、阿賀野が知る前から長門自身は既に知っていたのだ。自分の運命に。

 阿賀野は『長門』に再び訪れる前に、米軍関係者からある話を聞かされた。


 ――――戦艦『長門』は、原子爆弾爆発実験の標的艦となる――――


 敗戦国の艦として日本の艦が次々と処分される中、唯一健在だった『長門』も既にその処遇が決まっていたのだ。

 当初、阿賀野は愕然として絶望に押し潰されかけたが、そんな阿賀野に米軍側はある条件を提示してきた。

 『長門』への調査を協力してくれれば、その見返りとして乗艦の自由を与えよう。

 阿賀野は、決意した。

 せめて残された最後の時間を彼女と共に幸せに過ごそう―――それが阿賀野が導き出した答えだった。

 『長門』が原爆実験の標的艦になるまでに『長門』の調査に協力して、その見返りとして『長門』への乗艦を自由にして良い、という条件を呑んだからこそ、阿賀野は今まで長門の前に訪れることができた。そして今まで隠し通し、覚悟していた。しかし自分が知るずっと前から、むしろ彼女自身が既に知っていて、逆に自分に隠していたのだ。阿賀野はその真実に打ちのめされた。

 長門は、続ける。

 「私、今までとっても、とっても幸せだった。こんな気持ちになったのは生まれて初めてでした。二十五年間生きて、色々な出会いを経験してきたけど、貴方のような人は初めてでした。本当に感謝してます……」

 「長門。俺だって……」

 長門はそっと人差し指を阿賀野の唇に当てた。阿賀野は黙った。

 「今まで辛いことがたくさんあった。良いこともあったけど……。あの雪が降った日に海翔さんが来るまで、私は絶望と共に生きていました……。生きる希望もなく、絶望しかなかった日々。でも、海翔さんが、私に生きる希望を教えくれて、そして海翔さんが私の生きる希望となってくれました」

 長門は手を胸に当て、ゆっくりと言葉を紡いだ。

 「貴方は、私の生きる希望。そして―――」

 長門は、瞳に涙を浮かばせながらも、優しく微笑んだ。

 「世界で一番愛しています」

 その瞬間、南海の生暖かい風が二人の間に吹き渡った。

 阿賀野は、呆然と立ち尽くした。

 長門は、ぺこりと頭を下げ―――

 そして次に顔を上げた時には、その瞳から涙がぽろぽろと零れていた。

 「ご、ごめんなさい……ッ。わ、私……。うっ、うぅ……ッ」

 長門が必死にこぼれる涙を拭おうとするが、涙はますます溢れてくる。

 「何だよ―――」

 阿賀野は、駆け出した。

 そして涙を零して顔を歪ませる長門を、力強く抱き締めた。

 「何で謝るんだよ。泣いていいんだよ。畜生……!」

 「ううぅ……ッ」

 阿賀野も、堪えていた涙を遂に零した。長門の嗚咽が阿賀野の耳元に響く。

 「俺は、長門と出会えて嬉しかった。凄く、凄く嬉しかった。今までありがとう。俺は長門のその気持ちが、想いが、とても嬉しい……。そう言ってくれて、俺は本当に世界一の幸せ者だ。お前の気持ちは、俺の気持ちと全く同じだ。俺もお前を世界で一番愛している……。だから、凄く嬉しい……」

 「一緒、だね……」

 「ああ。俺とお前の想いは一緒だ。永遠に……だ」

 「うん……ッ」

 長門は微笑むと、また、泣いた。声をあげて泣いた。阿賀野も長門を抱き締め、声を殺して涙を流した。

 南十字星が輝く星空の下で、南海に浮かぶ一隻の軍艦の上で、少女の泣き声が夜が更けるまで続いた。阿賀野もずっと、長門を抱き締め続けていた。いつまでも、いつまでも……。



 翌日の七月一日。

 原爆実験標的艦の『長門』は、遂にその日を迎えた。

 先ずA実験と称される空中爆発の影響を見ることを目的とした実験に挑まれた。午前九時、上空のB29から一発の原子爆弾が『長門』を含む標的艦群の頭上に落とされた。それは広島・長崎を焦土に変えた爆弾と同等の爆弾だった。

 高度二〇〇メートル付近で爆発したそれは、今まで彼女が経験した事もないであろう猛烈な衝撃波と爆風を生み出し、彼女に襲い掛かった。この世のものとは思えない衝撃と大音響が海と大地を揺らした。そして同時に地獄の業火が彼女を襲い掛かった。爆心地から一五〇〇メートルの地点にいた『長門』は大きく傾いた。しかし彼女は無傷だった。かつて日本海軍が誇った超弩級戦艦の巨体は健在だった。

 『長門』は自国の二都市を滅ぼした原爆に耐え抜いて見せたのだった(ちなみにこの実験に参加したもう一隻の日本軍艦の軽巡『酒匂』は、この実験の翌日に沈んでいる)。


 七月二十五日。

 第二実験は水中爆発を試みた実験だった。『長門』は爆心地から九〇〇~一〇〇〇メートルの位置にいた。

 爆発の瞬間、水中から襲い掛かった大爆発が全ての標的艦に襲い掛かった。ある艦は一瞬にして呑みこまれて沈んだ。当然、『長門』―――彼女もまた、そんなこの世のものとは思えない二度目の経験を受けた。

 この実験の結果、『長門』は左舷に傾いたが沈む様子は無く、未だ健在であることをはっきりと示していた。

 実験の経過を見守っていた米軍の兵士や調査官達も感嘆の声を上げていた。

 無理もなかった。最も爆心地に近い所にありながら二度の核爆発を受けたにも関わらず、僅かに傾いただけで健在な姿を保ったのだから。

 しかし阿賀野は、複雑な気分になった。

 彼女は二度も想像を絶する辛さを経験しているに違いない。なのに彼女は、まるで無言に何かを訴えるように何時までも沈まないまま浮かび続けている。

 もう良いんだぞ、長門。お前は充分過ぎる程に、よく頑張った―――

 なのに、何故まだ浮かぶんだ。

 阿賀野は、早く彼女がこの苦しみから解放されてくれ、と願い、心が痛かった。

 「まさか……」

 阿賀野はただ一隻浮かび続ける戦艦を見詰めた。生き続けようとするその姿に、阿賀野はそれ以上言葉がまるで出なかった。

 この実験の結果、『長門』は右舷側に約五度の傾斜を生じさせた。それでも彼女は海上に浮かび続けていた。

 しかし、この時、彼女の命が刻々と小さくなっていくのを、彼女以外気付く者はいなかった。

 南十字星が輝く夜空を、彼女は見詰めていた。

 もう指一本動かせない。だが自分は生き続けている。

 「もう……何も感じないや……」

 一度目は想像を絶する熱さ。自分の存在が焼き尽くされそうな感じだった。しかし二度目となるともう感覚がなくなる。そして彼のことを想うと、心が和らぐ。

 実験の、衝撃波が襲う度に、彼が見てくれていると想うと、耐えることが出来た。自分でも驚いている。周りの標的艦が沈んでも、自分は浮かび続けた。まるで水底から何かが自分を支えてくれていたような。

 もしかしたら、この海の下に沈んだ仲間たちの英霊が力を貸してくれたのでは。

 そんな気さえ、思ってしまう。

 しかしもう、自分の命の灯火が今にも消えそうになっていることに、長門自身気付いていた。

 もう、ちょっとの風で消えてしまいそうな、弱い灯火。

 「――――――」

 『ともだち』から、いつしか愛する人となっていた、彼。

 白いチリが、舞い降りた。ちらちらと、白いチリがまるで雪のように降り注ぐ。

 それは、キノコ雲から降り注いだ死の灰だった。

 しかしそれはとても幻想的で、綺麗に見えた。

 まるで、彼と初めて会ったときに見た、雪のようだった。

 彼の笑顔を思い出した。

 「……海翔さん。もっと貴方と生きたかった。私の生きる希望―――大好き……」

 揺さぶり始めた艦体と同時に、彼女は、静かにその瞳を閉じた。



 七月二十九日。

 その日の朝、原爆実験の関係者が『長門』のいた海面を見てみると、既に『長門』の姿は海上にはなかった。彼らが目を離した隙に、彼女の姿は何処かに消えていた。

 七月二十八日深夜から二十九日未明にかけての夜間に、艦内への浸水によって誰にも見取られる事なく静かに転覆し沈没したのだろう。

 阿賀野は『長門』が浮かんでいた蒼い海に、静かに敬礼した。

 その瞳には、涙は零れていなかった。

 あの時、散々泣いた。だから、もう零す涙もない。



 戦艦『長門』―――竣工当時は世界最大の41cm主砲と高速な機動力を持つ戦艦で、戦前は日本国民に親しまれた代表的な戦艦だった。戦争末期、友の死と孤独に絶望の毎日だった彼女の前に、一筋の光が、阿賀野海翔少佐が現れた。彼と接し、距離を縮めた彼女はやがて彼自身を生きる希望とし、彼と共に残された時間を幸せに生きた。知っていた己の運命を受け止め、人類が生み出した恐ろしい最終破壊兵器の実験の標的艦とされて、二度も被爆しながらも、誰にも知られずに一人静かに海の底へと沈んだ。彼女は、今でも、彼の生きる希望となっている。





 平成十二年七月。

 現在、戦艦『長門』の沈没地点はダイビングスポットとしてこの地の貴重な観光資源となっている。沈没状態とはいえ、ビッグ・セブンの中で一応形が残っているのは『長門』だけである。現状は上下逆さまで沈没しており、艦橋部分は折れている。

 無数の泡があわ立ち、彼の身体を一瞬包み込んだ。



 「おじいちゃん、本当にやるの?」

 孫娘に言われ、すっかり年老いた阿賀野ははっきりと言った。

 「行かねばならない」

 阿賀野は『長門』が殉じた実験を見届けた後、日本に帰国し両親の疎開先に戻った。阿賀野は親の勧めたお見合いも全て断り、戦争によって親を失った戦災孤児たちを受け入れる孤児院を作った。戦後の苦境の中を、阿賀野は孤児たちを育て上げた。阿賀野によって引き取られた戦災孤児たちも立派な大人となって独立した。阿賀野は育てた子供たちの独立を見届けると、地元の下関に戻りそこに住まいを設け余生を過ごそうと考えた。

 「なら私も行くよ。私、一応免許持ってるしね」

 「助かる」

 「あのさ、教えてくれない? この海の底に何があるの?」

 既に水中ダイバーの服装に着替え終えている二十歳の孫娘が訊ねる。

 「……おじいちゃんの、初恋の人だよ」

 「え?」

 その後、阿賀野は、マーシャル諸島ビキニ環礁のど真ん中で、その年老いた身体も厭わず水中にダイブした。

 蒼い南海の水中は、家族旅行で訪れたことがある沖縄の海のように蒼かった。サンゴ礁が花のように咲き誇り、魚たちが優雅に泳いでいる。原爆実験や水爆実験として使用された海域だが、今や核実験の傷跡は水中では見られない。ただ、見られるのは―――

 巨大な艦底が見えた。斜面になっていて、そこに色とりどりのサンゴが張り付いている。

 阿賀野は数十年ぶりの再会を果たした。

 ほぼ逆さの状態で海底に横たわっている旧日本海軍の戦艦『長門』。左舷が爆発の衝撃でへこんでいる。折れた艦橋が海底に突き刺さり支えになっていて、出来た隙間から艦体の下をくぐると、サンゴがびっしりと付いた41cm砲があった。

 この主砲は、かつての彼女との深い思い出がある。懐かしさが溢れる。

 おじいちゃん、危ないよ―――と、合図する孫娘にも構わず、阿賀野はゆっくりと水中を泳ぎ、逆さ状態の『長門』の下をくぐる。

 そして、呼吸の音と吹き出る泡の音とは別に、はっきりと聞こえた。

 『海翔さん――――』

 阿賀野は目を見開いて、辺りを見渡した。

 そして、目の前で、光の中で彼女を見た。

 「(長門……俺は、帰ってきたぞ…)」

 光の中の彼女は、昔と変わらない、優しい笑顔だった。

 『海翔さん―――私の分まで、生きてくださいね―――』

 「(俺は、もう十分に生きた……。お前のところに、もうすぐ行くからな……)」

 彼女は笑っていた。しかし、それ以上何も語ろうとはしなかった。

 光が消え始め、同時に彼女の姿も光と共に消えていった。阿賀野は手を伸ばした。

 「(長門……ッ!)」

 光は完全に消え、彼女の姿も見えなくなった。阿賀野はただ、水中で、サンゴの傍で浮遊するだけだった。

 「(長門……)」

 呆然とする阿賀野のもとに、孫娘がサンゴの群れをくぐってやって来た。阿賀野の肩を叩き、そろそろ戻ろうと言っているようだった。阿賀野は大人しく従うことにした。



 船の上で、阿賀野は水平線を見詰めていた。

 ぼーっと水平線を見詰める祖父に、孫娘はコーヒーカップを持って声をかける。

 「はい、おじいちゃん」

 阿賀野は無言で受け取るが、口に運ばない。

 そんな祖父に、孫娘は一つ息を微笑ましく吐くと、問いかけるように言った。

 「おじいちゃんの初恋の人って、あの沈んでた軍艦?」

 隣に座ってコーヒーを口にする孫娘が問うと、阿賀野は水平線を見詰めたまま力なく頷いた。

 「ああ……」

 「軍艦が恋人だったなんて、おじいちゃん変わってるね。……ということは、おじいちゃんが乗っていた軍艦ってあの軍艦なんだね。おじいちゃんとあの軍艦の話、聞きたいな?」

 「……聞きたいか?」

 「うんっ」

 阿賀野は水平線から目を離し、わくわくと心待ちにする孫娘を見詰めた。

 「そんな面白い話ではないぞ。しかし、これを人に話すのは初めてだな」

 阿賀野は、語り始めた。

 さて、どこから話そうか―――

 なぁ、長門。お前との二人の話をしている俺の隣で、恥ずかしがってるんじゃないか?

 二人の話を俺の孫娘に話してるのが、そんなに恥ずかしいか?

 こらこら、そんなぽこぽこと殴るなって。

 いいじゃないか。俺とお前の話は、生きる希望で満ち溢れてるんだからさ。

 とても幸せだったからな。

 いいだろ?そんな恥ずかしがるな。俺だって恥ずかしいよ。

 でも、話すのも悪くない。

 長門、俺は本当にお前の生きる希望になれたのかな。

 だって、長門が死に、俺はこうして生きている。孫まで持っている。さっきも俺に言ってくれたけど、俺はお前なしでも生きてこれた。

 ありがとう、長門。そう言ってくれて。

 俺も、お前が生きる希望だったさ。

 今でも世界で一番愛してるよ。

 こんなことを言ったのは数十年ぶりだな。言ってて恥ずかしくなってきた。

 誰にも言ったことがなかったさ。お前だけだ。

 長門、安らかに眠っていてくれ。

 俺と出会う、その時まで―――――




 平成十八年九月。

 広島県呉市。

 伝統的に軍都として栄えた呉市にある大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)は、明治以降の日本の近代化の歴史そのものである呉の歴史と、その近代化の礎となった造船、製鋼を始めとした造船技術大国日本の各種の科学技術と共に先人の努力や当時の生活・文化に触れられ、戦時中の旧日本海軍の沈んでいった軍艦の模型や一部等が展示されている。館内には、十分の一スケールの戦艦『大和』が展示され、大型資料展示室の零式艦上戦闘機や人間魚雷『回天』、特殊潜航艇『海龍』等、それらが全て本物として見ることができる。屋外には『長門』の姉妹艦である戦艦『陸奥』の主砲身や潜水調査船『しんかい』などの実物も展示され、芝生広場や『大和』の大きさを再現した公園も整備されている。

 「おじいちゃん、見えたよ」

 「………………」

 孫娘が運転する車の助手席に座る阿賀野は、眼鏡の奥にある老眼に成り果てた瞳をゆっくりと上げた。

 大和ミュージアムの建物の前にある巨大な潜水艦が、阿賀野の視界に入った。

 巨大な潜水艦を横目に流し、車は建物の前にある駐車場に入る。

 先に車から降りた孫娘が用意した車イスに、手助けされながら阿賀野は腰を下ろした。

 六年前のダイビングの力は既に阿賀野の老巧した身体には残されておらず、足も一年前から歩く力を失っていた。身体も衰弱し、入退院を繰り返す身となっていた。

 今も大学病院で入院している身である。しかし今日は無理を言って外出許可を貰い、ここに至る。

 そのきっかけは、ある日の夜、一日中ベッドに寝て暮らす阿賀野が、テレビで信じられないものを見たことだった。

 テレビの某鑑定番組で、あるものが出品された。

 それは、旧日本海軍軍艦の象徴といえる旭日を描いた軍艦旗だった。

 それは正に、彼女のものだった。

 終戦後に戦艦『長門』を接収した米海軍の艦長の娘であるアメリカ人が、三点の軍艦旗を番組に出品した。それは、阿賀野の記憶の奥底から懐かしい思いを掘り起こした。

 戦後、米海軍に接収されて原爆実験の標的艦とされて沈んだ戦艦『長門』の軍艦旗だった。

 司会を勤める石坂浩二氏が、この、出展された旧日本帝国海軍戦艦『長門』の軍艦旗を自費、一千万円で買い取った。

 後に軍艦旗は、「縁りある呉の大和ミュージアムで飾るのが一番ふさわしい」と語った同氏により、広島県呉市にある大和ミュージアムに寄贈された。

 十分の一スケールの『大和』の横を通り、大和ホールの中を、孫娘に押される車イスに座った阿賀野はその軍艦旗を目指す。

 いや。軍艦旗というより、まさしく彼女を求めているような瞳だった。

 そして、ガラスケースに納められた旧日本海軍の象徴といえる赤と白の旭日が描かれた軍艦旗が視界に入った。

 寝かされた軍艦旗が納まったガラスの前で、阿賀野は目を見開いた。

 「おぉ……」

 骨と皮だけになった手をゆっくりと伸ばすが、その指先がガラスにこつんと当たる。

 阿賀野は赤と白の軍艦旗を見詰め、潮風に吹かれて靡く旗を脳裏に浮かばせた。

 ――――彼女の、象徴。

 ――――彼女の、生きた証。

 航海長として最後まで彼女と共に生きた、彼女そのものが、そこにあった。

 六十年の時を遡り、眼前にあるそれはどうしようもなく懐かしくて、心を奮い立たせるような感覚が阿賀野の内を駆け廻っていた。

 当時の軍では軍旗、軍艦旗はその部隊や艦艇のシンボルであり、象徴であり、心の拠り所であり、神聖なるものに他ならない。その部隊・艦の魂が乗り移っていると表現する人もいるくらいだ。

 いや、まさしくその旗には、彼女が宿っている―――


 「………長門」


 阿賀野は、ガラスの先に、彼女を見た。

 彼女は、昔と変わらない柔らかで優しい笑顔を、輝かせていた。

 「本当に会えたな、長門……」

 『―――また、会えたね―――』

 彼女は、長門は首を微かに傾けて、昔と変わらない表情で微笑んだ。

 『―――私、やっと日本に帰れた……。帰ってきたよ、海翔さん―――』

 「ああ。……よく、帰ってきてくれた」

 阿賀野は何度もゆっくりと頷き、眼の縁に涙を浮かばせていた。

 「本当に、よく帰ってきてくれた……。日本に帰ってこれて、良かったな、長門……」

 いつしか長門も、涙を一筋伝いながらも、満面な笑顔で頷いた。

 『――――うんっ!それに、また日本で海翔さんと出会えた。これほど嬉しいことはないよ―――』

 「俺もだ……ッ。また長門と出会えて、今まで生きていて本当に良かったと思うよ……」

 阿賀野は口元を微笑ませて、目の前にいる彼女の姿を眼に焼き付けるように見詰める。

 「……俺は今度こそ、もうすぐお前のところに行く。また、一緒にいよう……」

 『―――海翔さん、教えて。私は今でもあなたが生きる希望だよ。海翔さんも、私が生きる希望?―――』

 「当たり前だ」

 『―――それが聞けて嬉しい。だから海翔さん、最後の最後まで、精一杯生きてください―――』

 「前も言ったけど、俺は十分に……いや、十分すぎるほど生きたよ。お前の分まで」

 『―――それでも、生きてください。それが、私の願いです。……海翔さんが、私に生きる希望を教えてくれたように―――』

 「……わかっている。……長門」

 阿賀野は涙を一筋零し、にっこりと微笑んだ。

 それは、長門から見て、昔の彼そのままの笑顔だった。

 二人は、当時の昔のままの、姿となっている。

 「俺が来るまで待っていろよ」

 『―――うん。待ってるから、海翔さんもお元気で―――』

 「……なが、と」

 『―――海翔さん、前に言えなかったこと。言うね―――』

 長門の姿が光の粒子と共に消え往こうとしていた。

 『―――大好き。あなたを、世界で一番愛しています―――』

 「俺も……だい、すき……だ……」

 光は粒子となって消え、同時に彼女の姿も軍艦旗から消えた。阿賀野はそれを見届けると、突然ガクリと頭を下げた。

 「お、おじいちゃんッ?!」

 見守っていた孫娘は、いつもの持病が来たかと顔を青ざめて阿賀野を呼びかけるが、覗き込んだ阿賀野の表情を見て、言葉を失った。

 阿賀野のその表情は、目元から頬に涙が伝った跡があり、優しく微笑んでいた。



 長門。

 お前が言ったように、また出会えて良かった。

 俺は、最後まで生きるよ。

 本当の、最後の瞬間まで、精一杯生きる。

 お前に誓ったように。

 生きる希望を持って。

 また、必ず出会えるよな。

 だから、また出会えるその時まで――――


 光の中、二人は手を繋ぐ。

 長い黒髪を揺らした彼女と、共に。

 その姿は、昔のまま。

 二人はどこまでも幸せに、果てしない幸せと共に、手を繋いで歩み始める。

 二人は、まるで希望の光のように明るく輝いていた。




 Fin...


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暖かな雪に見ゆ 伊東椋 @Ryoito

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