第16話 開幕前夜
品のよい紫檀のデスクの上に、数冊の書物が読みかけのまま忘れ去られていた。
セピア色に色褪せた羊皮紙の上に書き連ねられた文字や、あちこちに残されている指跡の染みが、この本が幾多の持ち主の手を渡ってきた、かなりの年代物であることを物語っている。
開かれたままのページには、遥か神話時代の知られざる古き王国についてが記述されているが、それが最後に読まれたのがいつのことだったのか、他でもない本の持ち主ですら、もはや思い出すことが出来なかった。それ程の時間が流れ去り、記憶もまた忘却の彼方へと消え去ってしまっている。
燃え尽きることのない魔法の炎が灯された燭台の淡い明かりが照らす室内には、様々な書物や魔術に用いられる器具類が陳列されていた。そこはどうやら魔術師の研究室らしいが、室内は時が止まってしまったかのような静謐な空気に満たされており、そこには生き物の持つ生々しさが一切感じられない。
部屋に配された調度品も、壁に飾られた装飾品も、全てが絵画の中に描かれた存在のごとく、ひどく希薄で現実味のない代物に見え、それはまるで死者だけが享受する安息に支配された世界のようであった。
その中でも一際、現実離れしているのが、部屋の一角を占めている寝台の上の姿である。染みひとつない真っ白なシーツの上に横たわってるのはこの部屋の主であろうか。白蝋のような肌は陶磁器のように滑らかで、その皮下には血流の気配がまるでしない。ただでさえビスクドールのように見える肌のそこかしこが緑色の結晶体に覆われていて、その姿はおよそこの世のものとは思われぬ。
そんな生死すら不明の存在が、目を閉じたままそっとつぶやいた。
「待っていたよ・・・本当に長い間、待っていた。君が来てくれて本当によかった」
白い唇が小さく弧を描く。それはとても満足げな、それでいてひどく寂しそうな微笑であった。
「だけど、急いでほしい。もうあまり時は残されていないのだから・・・」
そっと見開かれた両眼の瞳が幻視しているのは迷宮の奥深く、闇の底に佇む古の祭壇の姿だ。黒曜石の敷き詰められた床に巨大な魔方陣が描かれている。その周囲一帯は禍々しい瘴気が渦巻き、穢されていた。魔方陣の中央から伸びているのは巨大な腕。それは天を呪い、地の底から這い上がろうとする者の腕であった。鋭い爪を持った禍々しい指先は、狂おしげに彼方の空を求め、それを掴み取ろうとしていた。
キルギスホーンの街はいつにも増しての喧噪に包まれていた。グエンの一行が発見した『裏迷宮』によって、一時は存続すら危ぶまれていた門前都市に再び活気を取り戻すことが出来たからである。
迷宮が攻略済みになってしまった時点でこの地を離れた者は多く、商工会などは本国の特使と連日、今後の都市運営についての話し合いを続けていた。
そこへ新たな未踏領域が発見されたわけだから、慌てて旅装を解き、迷宮に戻る算段をする者、解散したパーティの再編成や新たな情報を求める者などで町中がごった返すといった始末であった。
グエンのパーティは、クロマが迷宮の偵察や情報収集、レーベとカナンが中心となり装備や消耗品の調達を行い、探索の準備を進めていた。今回はルビィとアネルも探索チームのメンバーに組み込まれている。
これは神出鬼没の危険人物、スローンの介入を警戒しての事だ。彼は既に何処へかと旅立ったようだが、なにせ自在に空間転移が可能な存在である。その気になればいつでもその場に姿を現し、気の向くままに厄介ごとをばら撒くことが出来るのだ。彼が何故、ルビィやアネルに関心を示しているのか、いまだその理由は判りかねているのだが用心するに越したことはない。
そうしてパーティメンバーがそれぞれの役目をこなし、探索行の準備を進めていた。ルビィもまた、自分の役目である食料の調達と糧食の準備に忙しい。
探索に用いる食料はその用途のため、優先的に保存性と携帯性が求められることは言うまでもないが、だからといって味が二の次と割り切れるものでもない。食事はどんな場合においても、人間のモチベーションに大きく作用するものだ。
特に迷宮のような、変化に乏しく閉鎖された空間の中では時間の感覚すら曖昧になり、精神的にも疲弊しやすくなってしまう。激しい戦闘の合間に摂られる束の間の休息と食事によって、精神と肉体をどれだけ回復できるか。それは迷宮攻略の最重要事項のひとつと言って良い。栄養価が高く、味の良い糧食が求められるのも当然のことであった。
『暁のカモメ亭』亭主自慢の燻製肉の塊、カナン手製の香草を練りこんだ硬い薄焼きのパンといった定番の保存食は既に必要な量が準備できていた。携帯用の固形スープも、今夜中には煮詰め上がるだろう。三月ほど前から樽に仕込んである麦と大豆の発酵調味料も仕上がっており、これは疲労回復の効果に大きく期待できる。その他には塩漬けにして発酵させたキャベツ、野苺を煮詰めたジャム、水分の少ない硬いチーズと小魚の乾物を用意する予定であった。
その日、ルビィは早朝から街の郊外にある川を訪れていた。保存食の材料を確保するためである。キルギスホーンは内陸に位置するため、海産物はほとんど流通しておらず、たまに市場に商品が並んでも驚くほど高い値が付けられる高級品であった。そうした背景と栄養面への考慮から、ルビィは葦の茎で編んだ罠で自ら川魚を捕らえることにした。小魚を骨まで食べられるようによく炙ったものは保存性もよく、脚気の予防食にもなるのだ。そこまではよかったのだが・・・
川辺に佇むルビィの背後には、大剣を背負ったグエンと巨大なぬいぐるみを従えたアネル、そして弓使いのアビゲイルがおり、女戦士と傀儡師は相変わらず火花を散らしているし、弓使いはそれを眺めながら意地の悪い笑みを浮かべていた。いつもの構図であるが故に、ルビィはこの後のことを思うだけで頭が痛くなる。近くに居を構えるカナンも同行しているのだが、彼女は川辺の野草を探すと言って上流へと立ち去ってしまった。
「グエンさんがヒマなのはわかりましたが、アネルとアビーはどうしてここに?探索の準備はいいんですか?」
無駄な行為だとは思いつつも一応、ルビィは二人に尋ねてみた。
「荷物の運搬は一通り片付いてるわよ。か弱いあたしに力仕事させるなんて、なんて連中なのかしら」
ふくれっ面で不満を言うアネルであったが、買い付けた品々を運搬したのは言うまでもなくウサギモドキのぬいぐるみだ。このゴレムは怪力を買われ力仕事の任務が与えられたのだが、その結果、唯一といってよかったグエンの仕事がなくなってしまい、彼女は更にヒマを持て余している。それ以来、女戦士はルビィの側を片時も離れないといった具合であり、それがまた一層、アネルの機嫌を損ねているらしい。
「俺は今日のノルマは果たしたからな。ヒマだから手伝ってやるよ」
得意の弓で仕留めた鴨を数羽、肩からぶら下げた弓使いは心にもない言葉を口にして、にやにやと笑っている。その顔付きからして手伝う気なんぞ毛頭なく、ただただ面白がっているようにしか見えない。
「・・・わかりました。くれぐれも邪魔しないでくださいよ」
そう言いながらルビィは川辺の岩場に飾り羽の目印を見つけると、そこにつなぎ止めておいた細目の縄を解いた。それを手繰り寄せて、前夜のうちに川の澱みに沈めておいた仕掛けを回収するのだ。
筒状の仕掛けの奥には、獲物をおびき寄せるために炒った麦の殻や鳥の内臓を詰めた小さな麻袋が入っており、その匂いに誘われた獲物は一度中へ入るとそこから逃げることが出来なくなる。身の危険を感じると奥へ奥へと逃げる水棲生物の習性を利用した罠であった。首尾よくいけば川に棲む小魚やウナギ、淡水性のエビが捕らえられているはずだ。この漁の仕方は故郷の師匠に仕込まれたもので、少年は手馴れた手付きで縄を手繰った。
漁の成果は期待していたたほどではなく、5つほど仕掛けた罠からは籠に半分ほどの小魚と数匹のウナギが入っていた。保存食にするための魚は充分に確保できたが、ついでに夕食の材料を、と思っていたルビィにとっては少々物足りない。
「よし、うさきちの出番ね!」
アネルの操作により、ぬいぐるみゴレムが川に飛び込んだ。ゴレムは黒曜石でできたつぶらな瞳でしばらくの間、水中の様子を探っていたが、おもむろに片手を振り上げたかと思うと目にも留まらぬ鋭いスイングで水の中を薙いだ。
河原に数匹の魚が飛んできて、石ころの上を跳ね回っている。なるほど、漁の腕前はなかなかのようだが、これではウサギというより熊ではないか。ルビィはそんな胸中に浮かんだ言葉をぐっと飲み込んだ。
「ふん、まだるっこしいな。よく見ておけ。魚はこうやって狩るのだ!」
大剣を振りかぶったグエンが川へと跳躍する。そこには川の流れに半分ほどその身を沈めた大きな岩があり、彼女は裂帛の気合を込めて大岩に剣を打ち下ろした。岩が砕ける轟音と共に盛大な水しぶきが上がり、それをまともにかぶったアネルとルビィは頭から爪先まで水浸しで、濡れ鼠もいいところだ。もちろん中心にいたグエンも、である。要領のいいアビゲイルはすでに水しぶきの射程外に逃げ出していて、腹を抱えて笑っていた。
しばらくの後、水面が落ち着いてくると、ずぶ濡れ顔に自慢げな笑みを浮かべたグエンの足元に川魚諸々が浮かび上がってきた。岩が砕ける衝撃波で気絶したものらしい。グエンらしいいかにも豪快な漁法である。
こうして結果的に大漁となったわけだが、一行は濡れた服を乾かすために焚き火を熾し、ついでに取れすぎた魚を焼いてそこで昼食をとることになった。
グエンの一行が川で漁に励んでいた頃、地下迷宮の新たな領域に足を踏み入れたパーティがあった。率いるは探索者として名高い『剛毅なる鉄槌』こと、ハンク・グローブルという名の戦士で、先のクリスタルの塔討伐戦にも参加している。ハンクの一行はキルギスホーンの街を拠点とする者の中でも上位に数えられるパーティであった。
便宜上『裏迷宮』と名付けられた新たな領域の地下三層に到達した彼らは、青銅製の巨体を持つゴレムを三体片付け、動力源になっていた上質で大型の魔法炉を入手することができた。通常の迷宮での稼ぎに比べると、これだけで三倍増しの収入となる。ハンクは上機嫌でパーティメンバー達に帰還準備を命じた。その時である。
「・・・お頭、奥から何か来やすぜ」
パーティの斥候役を務めるレンジャーがハンクに注意を促した。彼は聴覚の鋭敏さが売りで、接近してくる足音から敵を探り取ることを得意としている。
「ひい、ふう、みい・・・デカブツが通路の先から4体ほど。どうしやすか?」
「また、ゴレムが来たのか?まぁ、いい。行きがけの駄賃だ。全員、戦闘準備」
ハンクは愛用の戦鎚を構え、先陣に立った。他のメンバーもベテランの探索者であり、こうした遭遇戦も手馴れたものである。すぐさまに陣形を整え、戦いに備えた。
眼前真っ直ぐに伸びた通路の先にぼんやりとした明かりが見え始め、それが徐々に接近してくる。奇妙な光景であった。ゴレムが松明を灯すなどという話を聞いたこともない探索者達は、近寄ってくる敵がゴレム以外の存在だと悟り一層、警戒を強める。敵が弓と魔法による遠距離射撃の射程に入ったところで、ハンクが攻撃を命じた。様子見の威嚇攻撃を行うつもりらしい。
弓矢の連射は、それを照らす炎の弾丸と共に近寄ってくる大きな影へ向って一直線に飛んでいった。それらは敵に命中する寸前、鐘を打つかのような轟音を発し、空中に浮かび上がった光る魔方陣によってことごとく跳ね返された。
ハンクの顔から急速に血の気が引いてゆく。異様な敵の姿を記憶の奥から紐解くよりも早く、彼は仲間に向って枯れそうな声を無理やり張り上げた。
「これは・・・いかん!撤退だ!全力で逃げろ!何があっても絶対に後ろを振り返るな!走れ!」
こんな場合においても、経験値の高いパーティメンバーの反応は早い。歴戦の勇者が戦利品どころか、手持ちの装備品までをも放り投げて逃げ出した。選択に躊躇するゆとりなどあるはずもなく、なによりも重要な命ひとつを握り締め、全員が全力で走り出す。
少しでも身を軽くするため鉄製の肩当てを投げ捨てた瞬間、ハンクは見た。背後から強烈な光に照らされ、迷宮の壁面に浮かび上がった自分の影を。
迷宮の通路が、迫り来る巨体により生み出された巨大な焔によって明るく照らされてゆく。床に突き立ったまま残されたハンクの戦鎚はやがて、周囲を燃やし尽くした地獄の業火の前に溶解し、蒸気となって消滅した。
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