第15話 クロマの気持ち


 迷宮の暗がりを照らす燭台の灯りが、ほんの僅か揺らめいて見えた。


 月光を映す水面が微風に撫でられたかのようなささやかな揺らめきは、やがて闇の中に溶け込み、静寂の中に消えていった。


 岩場の陰で獲物にあり付いていた小さな蜥蜴のうち、勘のいい一匹が一瞬、頭をもたげたが、すぐに興味を失って再び食事に戻った。その背後の壁を、ひとつの影が通り過ぎて行ったのだが、もう気付くものはいない。後に残ったのは不規則に揺れる蝋燭の灯りと、蜥蜴が虫を食む咀嚼音だけであった。


 暗闇を伝わってゆく影は、通路の分岐点にたどり着くとそこに静かにわだかまった。それは人影のようだ。懐から慣れた手付きで冊子を取り出し、ここまでの道のりをそこに書き込んでゆく。紙面を照らす灯りはなかったが、影にとってこの程度の地図であれば視認せずとも作図することが可能であった。自分の手元すら見ずにペンを走らせながらも、影は油断なく周囲の気配を探っている。


 闇に溶け込み、単独での強行偵察を可能にする手練の斥候。影の正体はスカウトのクロマであった。


 その日、クロマは迷宮の新しく発見された領域を偵察していた。隠密を旨とする彼女は単独での偵察時にこそ、その真価を発揮する。気配を殺し闇に身を潜めた斥候は、何者にも探知されることなく偵察行動を行うことが出来る。そうしてクロマは地下迷宮第四層に相当する場所へ到達していた。


 シャドウドラゴンが守護していた階段には新しい脅威が現れることもなく、ここに至るまで大きな危険は存在しないようであった。にも関わらず、クロマは浮かぬ顔をしている。ここまでの作図によって、この地下迷宮の構造がレーベの予想通りであろうと思われたからであった。


 新たに発見された第二層の回廊は迷宮の外周を取り囲むようになっており、それはまた、この迷宮が認知されはじめた頃に最初に生まれた疑問への明快な回答になり得た。長年、探索者達の間で取り沙汰されてきた謎――それは即ち、何故この迷宮は逆さピラミッドの形状をしているのか、という疑問である。


 ダンジョンとしての機能を考えれば、この形状は大きな矛盾を孕んでいた。深層に降りれば降りるほど、その面積が小さくなるからだ。それだけ探索範囲が狭まることになり、何かを隠そうとする意図があればそんな形状にすること自体がナンセンスであろう。


 有力な説としては、単純に建造コストの問題であろうという推測がある。荒地を露天掘りにし、そこにダンジョンを建設したと考えれば辻褄が合わない事もない。時間や資金、そして技術の面で制約があるのであれば説得力のある推論だ。


 しかしながら、その説は既にこのダンジョンそのものに否定されていた。規模や設備、そこに投入されている技術に加え、その全てを実現し維持し続けている膨大な魔力――それらはどれを取っても、主である『翠玉の導師」が端倪すべからざる力の持ち主であることを物語っている。それほどの者が迷宮の創造に際して何の制約を受けるというのか。


 キルギスホーン地下迷宮は建造当初より、積層方の階層を持つ構造で建造されたのであろう。小さな町がすっぽり収まるほどの広大な面積を持つ迷宮が、地下奥深くまで幾層にも重なっているに違いない。そしてそこに下向きの三角錐の形状をしたダミーの迷宮を配置し、侵入者を欺ていたのだ。最下層に偽の財宝まで用意しているのだから念の入ったことである。


 この地下迷宮の最大の罠。それはその構造そのものであった。財宝発見に浮かれた探索者の目にはもはや真実の扉は映らず、迷宮の秘密は暗闇に閉ざされたまま、永劫に護り続けられたであろう。無論、そのトリックに気付く者がいなければ、という前提ではあるが。


 そしてその巧妙な罠は単なる幸運なのか、それとも必然であったのか、無鉄砲な新米探索者と、人知を超えた神魔のごとき存在の介入によって暴かれることとなった。グエンのパーティが頓挫していた探索行も、おかげで再会の糸口を得ることが出来たのである。大手柄を立てたルビィではあったが、それでもクロマはそれを素直に賞賛出来ず、むしろ眉を顰めて不機嫌にならざるを得なかった。


 凄腕の斥候はルビィという少年のことをいたく気に入っているようだ。これはとても珍しいことであった。小動物を可愛がることにかけては、度を越し過ぎるに余る程の彼女だが、その分、他人は木石にも劣るというくらいの扱いであった。クロマはそれほどまでに他者に興味を持つといったことがなかったのである。


 その例が示すようにクロマはレーベの指示に従って剣の手解きをしただけで、特にルビィに関心があったわけではなかった。それが水を吸う軽石のごとく教導を受け入れる少年に接するうち、次第に好感を持つに変わっていったのだ。とにもかくにもルビィは素直であって、クロマがなかば冗談のつもりで課した課題でも、馬鹿正直にこなす姿を彼女は非常に好ましく思っている。


 他人とは、即ち敵であるという過酷な生き方を強いられてきた彼女はまた、自分の中で起きた心境の変化についても新鮮に感じていた。それは決して不快なものではなく、むしろとても心地がよい。


 ――弟がいたらこんな感じなのだろうか。違うな・・・これは・・・子犬?


 猫のような、と表現される凄腕のスカウトに、ルビィは『まるで子犬』と評されるに至ったのである。


 ――まったく、無茶をする!レーベの言うとおり、命があったのは本当に幸運なことだ。何かあったらそれこそ、本当に取り返しがつかなかった!絶対、お仕置きが必要だ!


 クロマの険しい表情は、こうしたルビィへ抱きつつある好感の裏返しでなのであろう。仏頂面をしつつも、無鉄砲な少年に課すお仕置きをあれこれ考える姿はどこか楽しげに見える。それが凄腕の斥候らしからぬ油断に見えたのも無理はあるまい。


 迷宮の壁際に潜むクロマの姿は、ほぼ完全に迷宮の風景に溶け込んでいた。彼女自身が自らの手で染め上げた黄昏の闇のような外套のおかげである。だが背後からそっと彼女に忍び寄る者には効果がなかったようだ。


 それは見かけだけであれば、小さく貧弱な亜人と見紛うような姿をしているが、もっと危険でたちの悪い存在であった。尖った爪には即効性と腐食性のある麻痺毒が分泌されており、触れればたちまち皮膚が焼け、傷口から入り込んだ毒によって全身の自由も奪われてしまう。そうして獲物を動けなくしてから、ゆっくりとその生き血を啜るのがこの妖物の捕食の仕方だ。


 深い洞窟に生息する穴居人種の中でも、より暗闇での生活に適応した亜人種であるケイブモンスター。それが今まさに、クロマの背後に接近してきていた。


 別名を『闇に忍び寄る者』と言うだけあって、気配を消して獲物に接近する様はクロマの隠行の技にも匹敵するかもしれない。両眼が退化のため極端に小さい替わりに、非常に発達した聴覚と嗅覚、吸血の食性に特化した下顎を持つ、そのグロテスクな面相が愉悦に歪む。どうやら笑っているようだ。もはや獲物は目と鼻の先であり、奇襲の成功は疑いようもない。クロマは相変わらず、迷宮の壁際にしゃがみこんだままなのだ。


 それまで物音ひとつ立てずに近づいてきた穴居人が、奇声を上げてクロマに飛び掛かる。鋭い爪は闇色に染められた外套をいとも容易く貫通した。赤い血が飛び散る様を想像し、怪物の口元が更に大きく釣りあがった。しかし――


 鮮血が噴出すことも、悲鳴が上がることもなかった。外套の中に在るべきものは既にそこにはいなかったのだ。迷宮の床に落ちた外套と、それを人型に支えていた革鎧だけがそこに残されている。


 豆粒ほどしかない眼を剥き、穴居人はしばし呆然としていた。目の前の光景がすぐには理解できずにいるのだろう。やがて自分が欺かれたことに気付き、穴居人が怒りに吼えたが、怪物の咆哮は始まったとほぼ同時に唐突に途切れることになった。喉元を貫いた短剣によって、怪物の欲望はその命と共に絶たれたのである。


 床に崩れ落ちた怪物の死骸の背後に、クロマが下帯のみの姿で立っていた。手元の探短剣を一振りし、剣先に残った怪物の体液を払い落とすとそれを鞘に納める。脱ぎ捨てた革鎧は再び身に着けたが、麻痺毒に汚染された外套はその場に残すことにした。


 空蝉――クロマの技のひとつだ。手練の斥候は油断することは決してなかった。むしろ油断したのは妖物の方であろう。背後からの接近に気付いた彼女は、敵に気取られることなく外套の中で鎧を脱ぎ、それを囮として使ったのだ。視力が退化している穴居人の眼を欺くことはもちろん、油断しきったその背後を取ることなど容易に過ぎる。


 ふと、思いついたようにクロマは自分の髪の匂いを嗅いでみた。そこからは花の様ないい匂いがする。昨夜の入浴の際、カナンが用意してくれた洗髪用の石鹸の香りだ。使ってみるとなんだか髪もすべすべして、とても気に入ったのだ。恐らく穴居人はこのほんの僅かな匂いを嗅ぎつけたのであろう。一昔前の彼女であれば、ありえないことであった。


 だが、今の彼女はこのいい匂いのする石鹸の使用をやめるつもりはない。それは心地の良い、楽しいことのひとつだからだ。昔の彼女が持てなかった、たくさんの物が今の彼女にはある。そのひとつひとつが、クロマをしっかりと支えているのである。


 装備を整えた手練の斥候が帰路に着く。その表情にはもう険しさなどは残っていない。足取りは往路とは打って変わり、今にも歌い出しそうなほどに軽やかで楽しげであった。


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