第11話 探索者の資格
草原を吹き抜けてゆく風がどこか懐かしく、頬に心地よい。
夏の終わりに近づいているせいだろうか。日差しも優しく、草むらに寝転んだ少年はついついまどろんでしまいそうになる。
――もうすぐ彼女がやってくる。それまではいいじゃないか。こんなに気持ちいいんだから・・・
そう誰にともなく言い訳をして、少年は眠りを誘う晩夏の香りに身を任せようとした。意識が深く暗闇に落ち込もうとしたその時、少年の曖昧だった記憶が輪郭を取り戻し始める。
――これは・・・夢?それとも僕は死んでしまったのだろうか?
懐かしい故郷の草原。これは現実の光景ではない。昨夜見たあの夢がまた蘇ってきたようだ。
――でも、もういいや。疲れたよ。僕は眠たいんだ。
流れ出た血潮と共に失われてゆく体温。少年は全身が痺れ、冷たくなってゆく感覚を思い出す。それは決して不快なものではなかった。深い眠りに落ちてゆく、そんな心地よささえ感じられる。
どこか遠くで、自分の名を呼ぶ声がした。聞き覚えのあるあの声。懐かしい笑顔が少年の脳裏に浮かんだ。彼女がやってきたのだ。
少年が草むらに身を起こすと、草原の向こうから一心に走ってくる少女の姿が見えた。手を振りながら駆けて来る少女の背後に、見覚えのある暗い影が浮かんでいる。
それは道化師だった。
少年はあらんかぎりの声を張り上げ、少女の名を呼んだ。世界には音がなかった。
声無き絶叫と、振り下ろされる血塗れの大鎌。その血は誰のものであったか。涙でぼやけた視界がねじれ、やがて全てが漆黒の闇に飲み込まれた――
「気が付いたかね?」
そこは寝台の上であった。ルビィは全身包帯だらけでベッドに横たわっており、枕元の椅子には旅の汚れを落とし小ざっぱりとした姿のスローンが腰掛けていた。読みかけの書物を膝に置き、彼は少年の脈をとった。そんな立ち居振る舞いは薄汚れた旅人のものではなく、まるで医者かなにかのようにも見える。
実際、サイドテーブルの上には血だらけの包帯の山と無数の薬瓶、それに得体の知れない薬草や干したキノコ等が所狭しと拡げられていた。スローン自身がルビィの治療を行ったのだろう。彼には医術と魔法の心得もあるようだ。
天井や壁、家具や装飾類は見覚えのないものばかりだった。どうやらここはスローンが宿泊している部屋らしい。迷宮の床で死にかけるなどという絶望的な状況を脱し、ここへたどり着いたルビィはそのまま、スローンの治療を受け眠り続けていたのだ。
「君は五日間も寝込んでいたのだよ。危ういところではあったけれど、治療は何とか間に合ったみたいだね」
スローンはそう言って、あの笑顔を浮かべた。
「今、粥でも用意してあげよう。胃が弱っているだろうからね。それに泣き虫の姫様にも、君が目を覚ましたことを伝えてあげないと」
食事の用意のためにスローンが立ち去ったしばらく後、よれよれになったドレス姿のアネルがやってきた。目の周りが赤く腫れており、泣き明かしていたことがひと目でわかる。
ばつが悪そうに枕元に立ち、うつむいてしまったアネルにルビィは声をかけた。久しぶりの発声に喉が驚いたのか、その声は妙にしわがれていて、少年は自分の老人のような声に思わず噴出しそうになった。
「アネルも無事だったんだね。よかった・・・」
そんな言葉を聞いたアネルの目に、みるみると大粒の涙が溜まってゆく。泣き出しそうになるのを必死に堪えているのだが、その試みは徒労に終わるだろう。溢れ出る感情の決壊を抑えるのはそう容易いものではなく、ついにアネルはルビィに抱き付き、盛大に泣き出したのであった。
シーツを涙と鼻水でぐしゃぐしゃに濡らしながら泣くアネルの背後には、腕が破損したままの巨大ぬいぐるみが付き従っていた。フリルまみれのヨレたドレスも、あの日着用していたものそのままである。ゴレムの修理どころか、着替えすらそっちのけでルビィに付き添っていたのだろう。
「なんで、あんなことしたのよ・・・あんた、バカなの?」
存分に泣き、ようやく気持ちに余裕ができたのか、アネルは照れ隠し混じりに悪態をついた。そう言われてしまうとルビィには見も蓋もない。迷宮に現れた道化師は、いとも簡単に頑健なぬいぐるみの腕を破壊してみせたのだ。
そんな恐るべき相手に何の手立てもなく、真正面からぶつかったとあっては自殺行為と咎められても仕方のない振る舞いであろう。ルビィはベッドから身を起こし、ほろ苦く笑った。
「ごめん・・・あの時は考える余裕がなかったんだ。でも、もう大丈夫だよ。スローンさんがちゃんと治療してくれたみたいだし」
身体のあちこちを試すように動かしているルビィを見て、アネルは驚きを隠せなかった。生きた化石でも眺めるような目付きで少年の身体をなめ回し、仕舞いにはあちこちをつついて見せる始末だ。
「あんた、本当に大丈夫なの?あんなにひどい傷だったのに・・・」
「うん。傷口がちょっと突っ張る感じがするけど、痛みもたいしたことないよ」
本来なら喜ぶべきことであろうが、アネルの顔は薄曇りのような陰りを帯びたように見えた。それはまさに、新たな脅威の出現を警戒する探索者の表情であった。
「あの男、何者なの?」
「スローンさん?旅の学者だって聞いてるけど――」
ルビィはアネルに、旅の学者との出会いのあらましを説明した。その態度をみても、彼はスローンにかなり心酔しているようであった。そのことが殊更、既に一人前の探索者たる人形使いの警戒心を刺激する。
空間転移魔法――それは奇跡に匹敵する術式のひとつである。ルビィが身に着けていたバングルの力で致命的な危機を回避できたのだが、そんな魔法を行使できる人間がそうそう存在するわけがなかった。
アネルは人形を操る特殊な術式の行使者だ。もちろん魔法学に精通しており、バングルが発動した魔法の特異性もある程度は理解している。そんな彼女ですら、物体を他の場所へ瞬間的に移動させるなどという術式など聞いたこともなかった。それは最早、人知を超えた、神の御技か悪魔の所業としか思われぬ。
前述もしたが、魔法の行使には力の源泉と術式を要する。それは対価と呼び換えてもいいだろう。生きた者を転移させるには、何を引き換えに差し出す必要があるのか、どれだけの対価が必要になるのか、想像するだけでアネルは背筋が寒くなった。
とにかく警戒が必要だ――本来なら探索者としてベテランの領域に属する傀儡師は、二度と油断を許さぬ決意を固めている。もう、あんな出来事は御免だと、子供のように泣きじゃくった自分の姿に相当な気恥ずかしさも感じていた。
「大丈夫。次はもっとちゃんとやるよ」
アネルがけろりと言ってのけたルビィの顔を唖然として見つめ返す。
「あんた、また行くつもりなの?」
「そりゃ、そうだよ。あの先に進まなきゃ何もわからないじゃないか。あれは重大な発見だと思うな。なにかとんでもないものが隠されているに違いないよ」
とんでもないのはあんたの性格よ――出かかった言葉を、アネルは無理やり飲み込んだ。ルビィの言い草は死にかけたばかりの者の言葉とは思えない。常軌を逸していると言ってもいい。だが、探索者として考えればその言葉はとても否定できるものではなかった。命がけで危険な迷宮に潜る者達――彼らはその点で既に常識の範疇にいないのだから。
一見、なんの力も持たぬ少年にしか見えないルビィの内面には、どうやらそんな常識外れの何かが潜んでいるらしい。彼を見くびり切っていたアネルは、背中に冷や汗が流れるのを感じた。
「おや、もう起き上がれるほど回復したのか。君の身体は見かけによらず、ずいぶんと頑丈に出来ているらしい」
薄めのコンソメで仕立てたパンの粥を持ってきたスローンが呆れ顔で笑った。こればかりは少年を鍛え抜いた師匠の手柄というところか。ルビィとアネルもつられて苦笑いを浮かべたが、人形使いの視線には相手を推し量るような警戒の念が密やかに込められていた。
ルビィに施した傷の手当ては見事な手際であったし、どうやら今のところは害意はないらしい。しかし油断は禁物だ。なにせ正体がまったく掴めない状況なのだから――アネルのそんな視線を知ってか知らずか、謎めいた学者は意地の悪い微笑みを浮かべた。
「泣き虫さんもようやく元気になったようだね。ほら、せっかくだし粥を食べさせてあげたらどうだい?ほとんど付きっ切りで看病してたんだから」
「・・・ちょっと!余計なこと言わないでよ!」
アネルの頬に朱が差した。頬どころか耳まで真っ赤に染めて、少女に戻った傀儡師は正体不明の学者に喰ってかかる。それをうまくいなしたスローンは完全に面白がって暴露を続けた。
「それがさ、何度言っても聞かなくて三日三晩、寝ずの看病してたんだよ。泣きながらね。最後にはよく効く眠りの香まで使う羽目になったんだ。それでようやく寝付いてくれたというわけさ」
「やめて!やめて!やめてぇっ!」
アネルの精神集中は乱れきり、術式の途切れた巨大ぬいぐるみはぴくりとも動かなかった。仕方なく小柄な少女は自らスローンに襲い掛かったのだが、身長差はいかんともし難く、水車のごとく振り回した両腕は空しく空回りするだけである。
せっかく泣き止んだというのに、新たな羞恥にまみれたアネルは涙が溢れてくるのを抑えることが出来なかった。
「さて・・・」
ひと悶着ありつつも、食事を終えたルビィにスローンが向き直った。迷宮での出来事を一通り聞き取った旅の学者は、どうやら興味を抑えられないといった風情であった。
「迷宮の、それも表層域にそんな危険な番人がいるとは大変興味深い。それはぜひ、この目で確かめなくては」
勢いよく立ち上がったスローンを、ルビィとアネルはぽかんとした顔で見上げた。
「次はぜひ、私も同道させていただきたい!なに、邪魔はしないさ。それどころか出来る限りの手伝いはさせてもらうとするよ!」
こうしてルビィのパーティに謎の学者が加わることになった。根拠もなく喜んでいる少年は、アネルが浮かべた不安交じりの表情に気付くことはなかった。
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