第10話 暗闇の道化師
目に眩いほどの青い空と積乱雲の下、丘の上に立っているひとりの少女。
絶対、絶対、絶対!いつかやっつけて、家来にしてやるんだから――
カーテンの隙間から差し込む朝の日差しに照らされ、ルビィは自分のベッドで目を覚ました。開け放ったままだった窓から香る風の匂いが運んできたのだろうか。ずいぶんと懐かしい夢を見たものだ。
ルビィの生まれ故郷は、中原中央に版図を広げるルーデンバウム連合王国の東方辺境にあった。更に東に進むと広大な砂漠地帯が広がっており、そのためか、比較的温暖な気候帯に属するキルギスホーンに比べると四季の区別がはっきりとしている。
そんな季節の違いがあるとはいえ、乾季の終わりを迎えたキルギスホーンの風には、どこか故郷を想起させる草の匂いが含まれていた。その香りが誘ったのだろう。それが何であるか、理解するにはまだ幼すぎた昔の想い出が久しぶりの夢で蘇ったのだ。
かぼそい腕でいつもルビィに挑戦してきた負けず嫌いな少女の姿は、今でも彼の記憶に鮮明に焼きついている。こうして思い起こしてみると、それがルビィにとって初めての恋であったのかもしれない。
朝の身支度を終え、朝食を済ませたルビィはいつものように地下迷宮に向うのではなく、商工会へと足を運んだ。アネルはぬいぐるみ型ゴレムのメンテナンスとやらで今日は丸一日、自分の工房に篭るらしい。その間、手の空いたルビィは『キルギスホーン地下迷宮案内図』の製作過程について情報収集することにしたのである。
キルギスホーンの街は元々、街道筋の宿場町に端を発する。王国の12選王侯がひとり、ルーセットアイゼン侯爵の領内にあり、門前都市として再開発された際に尽力した大商人達へ自治権が与えられた。その折、都市の自治機構の中心として設けられたのがキルギスホーン門前都市商工会である。
地下迷宮に集まる探索者と、それを取り巻くあらゆる産業が都市の経済基盤といっても過言ではないのが門前都市だ。そこから生じる利益には相応の税が課せられ、その税収によって市政が賄われているのだ。商工会が探索者の迷宮探索が円滑に行われるよう、有償無償の様々な支援するのは当然の流れであった。こうした地図の作成はその一環であろう。
ルビィが聞き込んだ所によると、商工会は探索者から収集した情報を元に地図を作成したらしい。少年は、地図作成の経緯を調べれば手詰まりになった調査の手がかりが何かしら見つかるかもしれないと考えたのだ。
そうしてルビィは商工会を尋ね、折りよく商工会の担当者に面会することが出来たのだが、結果は思わしくなかった。担当者の回答はルビィが予測していた範疇のものであり、要するに集まった情報を元に作成された地図は、作成される段階で矛盾の辻褄を合わせる格好で現在の内容になった、というのが結論である。表層域での事ということもあり、多くの探索者が気にも留めず、再調査もないまま地図の矛盾は放置されたのだった。
ルビィ自身の予想が正しいと証明されたわけだが、取り立てて新しい情報もなく調査は暗礁に乗り上げたままである。その胸中に喜びなどあるわけがない。失望のままに商工会を後にしようとしたルビィは、入れ違いに入ってきた男に呼び止められた。
「ここがキルギスホーンの商工会で間違いないかね?」
服装から見てもたった今、この街にたどり着いた旅人であることが窺い知れた。男は旅の埃にまみれ汚れてはいたが、その顔は若々しく覇気に満ちている。人懐こい笑顔を浮かべ、旅人はルビィの肩を軽く叩いた。
「この街は初めてでね。悪いが君、ちょっと案内を頼まれてくれないか?」
日頃からお人好しの性格をレーベから指摘され、少しは警戒心を持つように心がけていたルビィであったが、この時ばかりは男の雰囲気に引き込まれた。男の笑顔にはそうした不思議な魅力があったのである。
ルビィは商工会の窓口へ男を案内し、身分登録の手続き方法を説明した。登録は強制的なものではなかったが、登録しておけば商工会発行の身分証が発行され、街に滞在する際には何かと都合がよいのだ。
極端な話ではあるが運悪く迷宮で命を落としても、登録者にはそれなりの事後処理が為される。黴臭いダンジョンの片隅に放置されたまま、塵芥になるまで朽ちるよりはいくらかましではあろう。ルビィ自身もこの街にやって来た時に済ませていた。
「ここに名前を書くのか・・・中央共通語でかまわないかね?それともルーデンバウム語?ここいらではどの言語がよいのだろうか?」
「共通語で構わないと思いますけど・・・」
おかしなことを言うものだ、とルビィは思った。男は中原にある大抵の国々で通用する中央共通語を流暢に使いこなしていて、異邦人とは思えなかったし、その顔立ちも中原出身の人種となんら変わりはないようだ。そんな疑問の表情を浮かべた少年の顔に気付き、男は再びあの不思議な笑みを浮かべた。
「いや、私は長いこと世界中を旅していて、時々自分の故郷の言葉がどんなだったのかも忘れてしまうのだよ。まったく、言語学が私の専門のひとつでもあるというのにな・・・」
そう自嘲して笑った男はスローンと名乗った。世界中のダンジョンを巡り旅を続けている学者だという。この後、特に予定のなかったルビィは男のため街を案内することにした。理由はわからぬまでも何か不思議な魅力を持つこの旅人に、興味を持ったことは否めない。いささか無用心ではありはしたが、人を害するような危険な香りも感じられなかったからだ。
スローンはさすがに学者だけあって博識であり、案内中に交わした彼の経験譚はルビィの少年らしい好奇心をいたく刺激するものであった。特に南方沿海州の海底ダンジョンの話は探索者としてだけではなく、調理人としてもとても興味深いものであり、深海に棲む大型の烏賊なぞは「臭くて喰えたもんじゃない」などと顔をしかめてみせたスローンに、ルビィは大笑いしてしまった。
「今日はありがとう。本当に助かった。いずれ共に一杯やろう。もちろん私がご馳走させてもらうよ。その時まで私の名を忘れないでくれ」
そうしてルビィが楽しい旅人とのひと時を終え、再会の約束をして別れたのは午後も遅くのことであった。
翌日ルビィはゴレムのメンテナンスを終えたアネルと共にダンジョンへ向った。目指すは第二階層、地図上にある矛盾点の真上の場所である。第二層ではすでに敵に出会うことすら稀になっていた。巨大なぬいぐるみを警戒して、少しでも知能のある生物は近寄ろうともしなくなっていたのである。
その為、ふたりはさして障害もなく、周辺の探索に専念することが出来た。アネルが壁面に施された細工に気付いたのは、何の成果もないまま昼時の休憩でも挟もうかなどと思案していた、まさにその時である。
表層域の壁面は石組みになっているのだが、それを構成している壁石のいくつかが変色していた。あきらかに経年劣化とは異なるもので、むしろ材質の違いが長年の磨耗によって際立ったようにも見える。もしも完全な状態であれば、その違いに気付くことはなかったであろう。
ルビィは注意深くその壁石を調べた。が、アネルが不注意に触れた石のひとつが、重い地響きを立てて壁に吸い込まれてゆき、ルビィの細心の注意も無駄なものになった。同じような響きが壁や床面から続々と輪唱を始めている。ダンジョンの何らかの機構が起動してしまったようだ。
「アネル・・・」
「な、なによ!あたしのせいじゃないもん!そうよ、壁よ!この壁が悪いんだわ!」
恨みがましく見つめるルビィに、開き直って言い訳するアネル。ふたりの目前で、壁石が目まぐるしくその位置を変え始めた。平面だった壁が形を変え、まるで門か何かを模るかのように配列され直してゆく。やがて全ての石が動きを止め、重苦しい稼動音が止むと辺りは再び暗闇と静寂に満たされた。
壁面に突如として現れた門の開口部に、何か演台のようなものが設置されていた。壇上には石版が置かれ、そこには今では古文書くらいでしか見かけることのない古代文字が記されている。そのような古い言語に心得がないルビィとアネルには、もちろん解読など出来るはずもなかった。
ふたりは恐る恐る演台周辺を調べてみたが、他に何かを動作させるような細工も見つからない。せっかくの発見にも関わらず、調査はここでまた手詰まりになってしまった。過失により稼動させた仕掛けが致命的なトラップでなかったこともあり、ルビィは失望とおかしな安心感が入り混じったため息をつく。だが、安心するのはまだ早かったようだ。
演台の奥の方の、さらに濃い暗闇から接近してくる足音に気付き、ルビィとアネルは再び緊張を高めた。閉ざされた空間の中から近づいて来る者。それがたまたま出会った他の探索者などといったまともな存在であるはずがない。そんな場所から這い出てくる者があるとすれば、それは闇に住まう者、ダンジョンの住人であることは明白であった。
通路に設置された照明装置の淡い灯りが、明らかに場違いな者の姿を照らし出す。それは道化師――右肩に不釣合いなことこの上なく巨大な鎌を担いだ、小人の姿だった。
王侯貴族が宮中にはべらす道化の衣装にマスカレードで着用するような仮面を付けた小人が、まるで散歩でもするかのような歩調で接近してくる。それは悪夢のような光景であった。むしろ恐ろしげな姿の獣や蟲であるとか魔物でも現れれば、気の持ち様もあろう。道化師の姿は、その場に居合わすにはあまりにも異質すぎたのだ。それが探索者に取っては致命的にも成り得る恐怖心をことさらに煽ってくる。
先に動いたのはアネルであった。アネル自身はやはり理解しがたい恐怖に囚われていて硬直状態だったのだが、ぬいぐるみに施してあった自動防衛機能が働いたのである。巨大なぬいぐるみはその図体に似合わない敏捷さで、奇怪な道化師に飛び掛った。
鋼鉄の高度を誇る布製のずんぐりした拳を、道化師はその巨大な鎌でいとも簡単に弾き返した。恐るべき速さと正確さである。女戦士グエンですら防ぐのに苦労するゴレムの一撃を、まるで蝿でも追い散らすかのように簡単に払いのけたのだ。
しかもそれだけではなかった。鎌で打ち払われたぬいぐるみの布製の腕はずたずたに引き裂かれ、内部を構成していた歯車や螺子がばらばらと周囲にばら撒かれた。
「ああっ!メンテナンス終わったばかりなのに!なんてことすんのよ!このチビ!」
大切な従僕を破壊された怒りで、アネルは恐怖による呪縛から逃れることができた。ぬいぐるみに再生の術式を施すが、道化師はそれが完了するのを待つつもりはないようだ。大鎌を振りかぶり、小人は自分よりも小柄なドレスの少女に襲い掛かる。
ルビィはアネルの名を叫んだ自らの声を遠くに聴いた。叫んだのと、硬直した両脚でむりやり飛んだのと、そのどちらが先だったのかルビィにはわからなかった。だが四肢の肉が引き裂かれ、血が噴出していることは感じている。体温が急速に失われてゆくことも。
アネルに襲い掛かる道化師に向ってルビィは猛然と短刀を抜き打ち、振り下ろされる大鎌を刃で受け止めた。確かに受け止めたのだが、刃と刃がぶつかり合ったと同時にその全身を切り裂かれたのだ。飛び散った鮮血が周囲の床を真っ赤に染めている。アネルが何か叫んでたが、急速に意識が遠のいてゆくルビィには、彼女が何と言っているのかわからなかった。
道化師は仮面の奥に光る感情の欠片も感じられない両眼で、崩れ落ちてゆくルビィを見つめていた。その口が何かを口ずさんでいる。それは謡のようであった。少年を屠った地獄の道化は、まるで楽しげな歌でも謡うかのように、彼を確実に死に至らしめる呪文を詠唱していた。
――こいつ、魔法まで使うのか・・・反則じゃないか、そんなの。
身体が床石に沈んでゆくような感覚の中で、ルビィは自らの死をぼんやりと意識した。
その時である。ルビィの左手にはめてあったバングルが強烈な光を発し始めた。バングルは昨日の旅人が案内のお礼と言って、ルビィにくれたものだ。
「こいつは御守りだ。東方の言葉でなんて言ったかな・・・そうそう、レイケンあらたか、って奴だ。君が本当に危ない目にあった時、一度だけ危機から救ってくれる。身に着けて離すんじゃないぞ」
ルビィの脳裏にスローンの笑顔が浮かんだ。しかしその光景は、血泥にまみれた地下迷宮の風景と共にぐにゃりとねじれ、光の中に消滅した。
「おやまぁ、昨日の今日で早速かね。君は相当に気が早いと見える」
血まみれのルビィと、顔色を真っ赤にして泣き叫んでいるアネルが帰還したのはスローンが宿泊している宿屋の一室だった。床には破損したぬいぐるみも倒れている。自分の顔を覗き込むスローンにろくに返事も出来ず、ルビィはそのまま意識を失った。
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