第7話 それぞれの休日





 キルギスホーンの町の片隅――


 立ち並ぶ建物の間を縫うように歩んでいる一人の女がいた。彼女の道行きを先導するのは一匹の猫。細い街路を抜け、塀の上に登ってゆく猫と同じ身軽さで彼女はその後を追い、路地裏へと姿を消した。



 その日、弓使いのアビゲイルは日頃から贔屓にしている弓職人の店を訪ねた。愛用の長弓を調整するためである。


 アビゲイルの長弓は、北方の大森林地帯に位置する生まれ故郷の村を旅立つ際に、父より譲り受けたものだ。曽祖父の代に、神木として崇められていた櫟の大樹にある時、雷が落ち、その際に切り出された木材を素材としている。樹齢500年を超える櫟を使用したこの弓は神性を宿した武器として使用者を護ると代々語り継がれてきた。


 弓の特性としてはその剛性によって高い貫通力を持つ反面、命中精度を確保するためには洗練された技量が必要となるのだが、100m先の散り行く落ち葉を射抜くアビゲイルの腕前であれば、その性能を遺憾なく発揮できるだろう。古くから森の民とも呼ばれる彼女の種族は、生まれながらにして狩人の血統であり、アビゲイル自身も村でも指折りの手練者であった。


 惜しむらくは、種族の外観的な特徴である容姿の美しさを完全に台無しにしてしまっている、その人柄であろう。本人曰く、極端に禁欲的な村での生活の反動とのことだが、それだけが理由とは言えなそうだ。


「とっつぁん、いるかね?」


 端麗な面立ちと、流麗な立ち居振る舞いからの第一声からしてこれである。その呼びかけに応じて店の奥から顔を出したのは、弓を扱う者であればその名を知らぬ者はないとまで云われた、弓職人のガランパイルその人であった。


「お前さんは相変わらずのようじゃの」


 老いたりとはいえ、職人としての長年の修練によりいまだ壮健なガランパイルは、元は王都に立派な工房を開いていたという。しかし長年続く太平の世の中、派手に飾り付けられた観賞用の弓ばかりが求められることに嫌気が差し、ついにはこうして門前都市へと移り住んだのであった。実戦的な武具が求められる門前都市には、同様の理由で腕のいい職人が集まっている。


「弓を見てもらいたくてね。どうやら先行き一筋縄ではいかない様だし、万全を期したい」


「ほう。ついに下層へ到達するというわけかい」


 ガランパイルはアビゲイルから受け取った弓を吟味し始めた。


「いつみても惚れ惚れするのう。200年も前に造られたものとは思えん美しさじゃ。これも精霊の加護というやつかのう」


 職人の優れた指先と目により、弓は補強材に緩みが生じている他、弦も交換が必要との見立てで、一週間ほどガランパイルの手元に預けられることとなった。


 用を済ませたアビゲイルは店を立ち去ろうとしたのだが、彼女が背負っているものを見て目を丸くした弓職人が呼び止める。


「なんじゃ?お前さん、剣士にでも転職するつもりかね?」


「ああ、これか。グエンに頼まれてこれから鍛冶屋へ修理に出すのさ。あいつは馬鹿力だからな。ああも乱暴に扱われたら剣の方が持たないよ」


 そう言いながら剣を振って見せたアビゲイルの力も相当なものである。グエンの大剣は両手持ちで、長身のグエンの背丈ほどの刀身を持つのだ。しかも、両手持ち剣は刃を薄く軽量化し重心を束元に設けるのが通常なのだが、グエンのそれは刃が幅広で分厚く重い。並みの剣士であれば剣を振るうどころか、振り回されるのが落ちだろう。


 それをむしろ軽々と扱うアビゲイルの膂力は、類稀な頑健さを持つ弓で鍛え上げられたものであり、その弓勢が計り知れないものであることを示していた。


「あの女戦士殿はどうしたのじゃ?聞いた話では、人形使いのお嬢ちゃんと一悶着あったそうじゃの?」


「それがさ。聞いてくれよ、とっつぁん。グエンの奴ときたら・・・」


 にやけ笑いを浮かべたアビゲイルが話し始めようとするのを、老弓職人が制した。


「まぁ、待て。今、茶でも淹れる。たまには年寄りに付き合っていけ」




 弓職人の店で自分の噂話が花を咲かせているとは知りもせず、グエンは迷宮の入り口である『門』の前で仁王立ちしていた。その眼前には硬直しているルビィと、ふてくされたアネルもいる。


 グエンとアネルの遭遇戦が勃発したあの日。ルビィの必死の弁解の甲斐あって誤解は解け、巨大ぬいぐるみVS女大剣使いという、周辺に多大な損害をもたらすであろう決闘は避けられた。しかしルビィがアネルの手助けをするという話がなくなったわけではなかった。なぜなら他のパーティメンバーが、むしろその方がいいと理解を示したからだ。


 ルビィの技量では、まだまだ最下層行きのパーティに同行させるわけには行かず、後方待機するより他はない。それ故にルビィは技量の向上と経験を積むという目的で、単独による迷宮探索を行っているのが現状である。


 ただ今後のことを考えれば、パーティでの探索経験は有用であるし、特に中層域以降へ降りるにはそれは必要不可欠である。これから最下層へ向う準備に忙しいパーティメンバーが、ルビィの手助けをするゆとりがない以上は、アネルと共に探索させる方がルビィ自身のためになるというわけだ。グエンは終始、難色を示したのだが、ルビィのためという言葉の前には渋々了承するしかなかった。


「・・・で、グエンさんは何でここにいるんです?」


「わたしも同行するからだ」


「え?最下層行きの準備とかあるんですよね?」


 ふふん、と自慢げに笑うグエン。なぜならこういった準備期間は、彼女だけがいつもヒマを持て余していたからである。


 グエンの迷宮探索時における統率力、判断力の高さや直感の鋭さは特筆に価し、他のパーティメンバーから、リーダーとして全幅の信頼が寄せられていることは紛れも無い事実だ。しかしながら彼女は、商取引や日程管理などといった実務面での能力は壊滅的であり、こういった準備期間はむしろ役立たずと言ってもよく、何もさせてもらえないのが常であった。


「だから、わたしは手が空いている。わたしが同行する以上、もう何の心配も無い」


 空気が震える音が聴こえてきそうな程、にらみ合っている女戦士と人形使いを前にしたルビィの心中には、もはや心配しか存在しなかった。




 キルギスホーンの西、街より少し離れたところに森が広がっている。ドルイドのカナンはその森にある、今は使われなくなった樵小屋を借り受け、迷宮都市滞在の間、そこを仮住まいとしていた。


 他のメンバーは『暁のカモメ亭』を常宿としているのだが、自然崇拝の教理に従うドルイドにとっては、街中よりもこうした自然に囲まれた環境の方が暮らし易いからである。


 ドルイドは正確には職業を表す名称ではない。大陸よりはるか西方の島国にある祭祀国家において知恵と知識を伝統的に受け継ぎ、指導的役割を担うのがドルイドと呼ばれる者達である。狭義において、大陸で広く信仰されている一神教の神官と同等の存在なのだが、これと区別するために便宜上の職業名としてドルイドと呼称されていた。


 彼らは自然に宿る神秘的な力を崇拝し、その力を行使する者でもあり、その能力において魔術師とも共通するものがある。知識面では薬草学や動植物学に精通しており、カナンはその能力と知識、知見によってパーティを側面から支えている。


 その日、カナンはいつものように森で採取した薬草を調合していた。魔物避けの香や毒消し、応急処置用の軟膏等々カナンが調合する薬は多種多様で、その効能などは巷の薬師が舌を巻くほどである。軒先で陰干した植物の葉や花を薬研で細かくし、乳鉢で磨り潰す。調合レシピは暗記済みなのだが、念のために自身で記した帳面で確認しながら、慎重に調合する。


 カナンが時を忘れて調合作業に没頭し数刻が経過した頃、窓辺に来訪者があった。森に住む小鳥たちである。その囀りにカナンは草の汁に染まった細い指先を止めた。


「あら、もうそんな時間なの?」


 石釜からいい香りがしてくる。甘い香りのハーブを練りこんだゴーフレットが焼き上がったようだ。カナンは菓子やパンを焼くのが趣味で、こうして午後になるとおやつのおこぼれに預かろうと、小さなお客さんが集まってくるのだった。


 焼き上がったゴーフレットの一片を細かく砕いて窓辺に撒く。小鳥達は我先にとそれをついばみ、お礼とばかりに歌声を披露する。小鳥達のアンサンブルを聴きながら、カナンは数種のハーブが入った瓶詰めと、焼き上がったばかりのゴーフレットを共にバスケットに詰めた。


「レーベにもお裾分けをしましょう。そろそろハーブティーが切れてる筈だし」


 生まれ故郷を追われ、放浪中だったカナンをパーティに招き入れてくれたのはレーベであった。それも危うく奴隷商に売られてしまいそうになった時、既の所で救われたのである。身も心も弱り果てていた自分へ向けられた、レーベや他のパーティメンバーの優しさや共に過ごした日々は、何もかも失ってしまったカナンにとって、今や宝物に等しいものとなっていた。


「さ、あの自虐姫がまた仕事に熱中しすぎる前に、ゆっくり休んでもらわないと」


 そうしてカナンは、お使いを頼まれた赤ずきんそのものといった風体でレーベの元へと出かけていった。



 キルギスホーン唯一の教会は大通りの突き当たりに位置していた。いわば町の中枢部にあって人々へ祈りの場を提供し、また、多くの神官達への互助的役割を果たしている。


 神官シルヴィスはその教会で神への祈りを捧げていた。そうして聖霊と対話し、パーティへの加護と恩恵を得るのだ。日々の祈りと神への献身の積み重ねがなければ、実際の危機に際して、効果的な加護を得ることはできない。


 こうした聖霊に対する即物的な行為は教会では軽んじられる。実際、探索者として行動する神官は、教会組織において最下層の職位として扱われていた。


 シルヴィスはその由緒正しき血統と、神聖な存在との対話能力によって教会中枢でも将来を嘱望されていたのだが、グエンとレーベに出会い、探索者の道を選んだ。


 それはいわゆる出世街道から外れ、野に下るに等しいことであったが、シルヴィスには微塵の後悔もなかった。彼女達と出会ったのは天啓であるとさえ思っている。二人が背負った過酷な運命を共に背負うことこそ、神に仕える自分の役目だとシルヴィスは信じて疑わなかったのだ。


 また、教会中央はむしろ政治的な権力闘争の場と化していて、それがシルヴィスの道を決めるひとつの理由ともなっていた。


 聖霊との対話が終わり、シルヴィスの意識が現界へと帰還した。今後、最下層を目指し探索を行うことになるのだが、その際にレーベがどのような影響を受けるか、いまだ状況が不透明であり、シルヴィスもまた暗澹たる思いである。


 その時、聖堂の裏手がなにやら賑やかであることにシルヴィスが気付いた。そっと裏口から外の様子を伺ってみると、よく見知った顔がある。


「クロマ、そこで何をしてるの?」


 クロマはたくさんの猫に囲まれ、至福の表情をしていた。


「猫さんの後を追って、集会所を発見した。これで5箇所目」


「そっか・・・楽しそうだね」


 猫で遊んでいるのか、猫に遊ばれているのか、そもそも自身が猫みたいなクロマを見ているうち、シルヴィスの顔が自然と綻んだ。くすくすと笑い出すのを留められなかった。


「楽しい。今日は充実した一日だった」


 こうした自然体のクロマには、いつも救われる。そんな彼女も過去を紐解けば、過酷な日々を生き抜いてきて今があるのだ。そのことをシルヴィスもよく知っている。


 道行が厳しいからといって、暗い気持ちで生きてゆくことになんの意味があろう。必要なのは希望だ。心を閉ざして下を向くことよりも、明日を目指して笑っていた方がいいに決まっている。太陽の化身のようなクロマが率いるパーティに、暗い蔭りは似合わないではないか。


「よかったわね。そうそう、猫さん達にはミルクを用意しましょう。お礼にね」




 町に夕闇が落ちてきた。通りに人の喧騒が溢れ、町はいつものように、その装いを夜の歓楽街へと変えてゆく。弓職人の店に腰を落ち着けたアビゲイルはいまだ、老いた職人を相手に、噂話に興じていた。


「・・・それでよ。グエンの奴、あの小僧っこがフライパン片手に迷宮入るのを、ずっと付け回してたんだぜ」


 アビゲイルの舌は絶好調なのだが、なぜかガランパイルの表情が曇り始めた。下世話な弓使いはそのことにまったく気付きもせず、その駄弁はさらに調子が上がっている。


「お若いの、そろそろ、な。いい所で切り上げたほうが・・・」


「ルビィの泊まってる宿に張り付いて、陰からずっと覗いてたりさぁ、ありゃ完全に病気だよ。病気」


「アビゲイル」


 よくよく聞き覚えのある、地の底から響いてくるような声で、背後から呼びかけられたアビゲイルは完全に凍りついた。薄情な弓職人はこそこそと店の奥に姿を消してしまった。


「鍛冶屋へ寄ったら、まだ来ていないというのでな・・・」


 顔色が真っ白になったアビゲイルの背後に、笑顔のグエンがいた。見るもの全てがその場を逃げ出したくなるような、そんな笑顔を浮かべている。一緒にいるルビィとアネルはさすがに言葉も無く、完全に引いていた。


「アビー、じっくり話し合おうじゃないか。二人きりでじっくりと、な」


 襟首を掴まれて連行されて行ったアビゲイルは翌日、馬小屋にいた。朝一番でルビィに発見されるまでの間、天井の梁から全裸で吊るされ、さめざめと泣いていたのだった。

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