第2話 初めての対人戦


――最低だ!最悪だ!ゴミ!カス!僕のばか!


 ここ数日の間、ルビィは完全に自己嫌悪に陥っていた。原因は言うまでもなく先日の市場での一件である。騙される寸前に助けてもらったというのに礼のひとつもしておらず、それどころか震え上がって声も出せずにただただ、恩人を見送るだけであった。しかも問題はそれだけではないのだ。


「む、む、胸を触るだなんて・・・」


 思い出しただけでも顔から火を噴いてしまいそうになる。公衆の面前で、それも中原一の有名人を相手にとんでもなく破廉恥な行為をやらしたのだ。しかも噂はヴェールに火を着けたかのごとく、あっという間に広がり、今やルビィ自身が知る人ぞ知る有名人になってしまっていた。


 市場辺りではすでに『猛牛の乳搾り』だの『大女の乳バンド』だの、不名誉な仇名が付けられ、フードでも被らなければまともに買い物もできない有様である。


 せめて謝罪とお礼ができれば、とも思うのだが果たして再びあの勇猛果敢と男嫌いで名を馳せる女戦士と会見えて、自分が生きていられるかどうか。あいつは断頭台に首を乗せた、とまで言われている立場としては今、生きていることこそが信じられないといった具合いだ。


 ルビィ自身が貶められるだけであればまだしも、自分に付けられた仇名がグエンの名声までをも傷付け泥を塗っているのではないか。そう思う度、どう謝罪をすればいいのか答えを出せずに悶々と日々を過ごすのみであった。


 皮肉なことに、そんな鬱屈とした悩みを抱えているにも関わらず、ルビィのダンジョン探索は順調に進んだ。グエンの見立てた異国風の小刀は遺憾なくその切れ味を発揮し、おかげで彼の収入は倍近くまで跳ね上がっていた。


 元々彼の収入はお世辞にも多いとは言えず、未だに一般の探索者のそれと比べればささやかなものに過ぎなかったが、ルビィの生活環境が大きく改善されたことに相違はない。そうして昨日、やっとフライパンを卒業して皮製の篭手に鋼板を貼り付けた簡易盾など、ある程度の装備を整えることができたのである。


 装備面の向上により、ルビィの探索範囲も大きく広がっている。第二層はほぼ制覇しており、ついに今日この時、初めて第三階層に足を踏み入れようとしていた。


――集中しよう。余計なことを考えてはダメだ。ここから先は今までとは違うんだ。


 地下迷宮第三階層は初心者向けといわれる表層部の『最下層』という位置付けである。つまりルビィのような駆け出しの探索者にとって、この第三階層こそが最大の難関といえるだろう。


 群れや集落を形成するような亜人種の生息地は中層部以降に分布しており、集団戦術を用いるような者達に遭遇する心配は無かった。だが、この三層あたりから不幸な犠牲となった探索者の骸から剥ぎ取ったであろう武器、防具で武装している個体が見かけられるようになる。


 また、蜘蛛やムカデ、肉食性のミミズといった湿気と暗闇を好む蟲の類や土トカゲなど、表層上部と同じ生態系の生物が生息しているのだが、そのどれもが大型化しており、より危険な探索者の脅威となっていた。


 第三層の入り口は第二層中央部にある大階段で、その幅は10mほどと広く、大人数でも無理なく通過できる造りである。


 もっともルビィは単独行動であったから、広すぎる廊下はむしろ周囲を警戒するには不利だと思えた。そうして緊張感を高め、耳と目に神経を集中させていたからこそ、背後から襲い掛かる脅威にほぼ及第点といえる程度に対処することができたのだろう。


 背中に冷やりとする寒気を感じて、ルビィは振り向き様に後ろへ――つまりは進行方向へ飛びし去った。反射的に構えた左手の簡易篭手に、自分を目掛けて投げつけられた投擲用のダガーが命中する。鈍い金属音と火花を散らして、飛来した殺意はルビィの足元に落ちた。


――投げナイフだって!?ゴブリンじゃない!一体、何が・・・


 これまでの経験から、ゴブリンが石礫や簡素な弓を使う程度の知能を持ち合わせていることは知っていたし、実際にそんな攻撃を受けたこともあった。


 だが今、彼の背中を狙ったダガーによる攻撃には、確実にルビィに致命傷を与えられるだけの殺傷力が込められていた。そこに用いられた技術や膂力は、ゴブリンのものとは大きくかけ離れたものに感じられる。


 敵は小型の亜人種などとは比べ物にならないほど危険な存在であって、ルビィは自分が今まさに死地に立たされていることを悟った。


 先手を打たれた格好になったルビィはまず、最優先事項として逃走経路を探った。地下迷宮の探索で培ってきた経験がそうさせたのである。恥も外聞もない。生き残ること。それが何よりも重要なのだ。


「やっぱり、あの小僧だ。こんな湿っぽい場所で会えるなんてな」


「よっぽど縁があるんだな。俺達、ついてるぜ」


 階段の上の方から、複数の人影が接近してくる。ルビィは素早く相手の人数を確認したのだが、彼らの声に聞き覚えのあることにも気付いていた。


「久しぶりだな、お客さん。あの鍵、お前が持ってるんだろう?」


 先頭に立っている男の顔。それは忘れようにも忘れられない、ルビィから全てを奪った男の顔だった。


 半年ほど前のことになる。ルビィはここ、キルギスホーンで一旗揚げようと生まれ故郷を離れた。独立に際しては師匠からの援助もあり、旅立ちは希望に溢れていた。しかし意気揚々と旅立ったのも束の間、ルビィの全財産を運んでいた隊商が、野盗に襲われたのである。


 ルビィ自身は途中から門前都市へと先行し、自らの城――といってもごく小さな屋台程度のものだが、出店の手配などを行っていて難を逃れた。もしも隊商に同行していたのであれば、今頃どうなっていたことか。命が残ったのは不幸中の幸いだったのかもしれない。


 後にわずかに生き残った者達の証言で、護衛に付いていた傭兵が当の盗賊の一味であったことが判明した。しかし野盗の集団はすでに行方をくらましており、ルビィはほとんど無一文の状態で門前町に取り残されたのであった。


 その傭兵達のリーダーだった男が今、ルビィの目の前にいるのだ。周囲に控える男達にも顔を見知った者が含まれており、この連中があの事件で傭兵に成りすましていた野盗の一味に間違いあるまい。


「お前さんの荷物にあった、あの箱な。錠前が魔法仕掛けでどうやっても開かねえ。よほどのお宝とみえる。おとなしく鍵を渡せば、命くらいは助けてやるぜ」


 ルビィは頭に血が上り、いささか冷静さを失っていた。荷物にあった箱というのは師匠からの餞別を保管したもので、中にある希少品類を護るため特殊な魔法錠で封印されている。開ける為の鍵は肌身離さず、いつも紐で首からぶらさげていた。どうやら盗賊達はその鍵が目当てのようだ。


 奪われたものを取り返したいという気持ちもさることながら、なにより初めての旅立ちに、とても親切にしてくれた商人達の命を奪った盗賊どもが許せなかった。そこには自分が生き残ってしまったことへの罪悪感も含まれていただろう。


 無論、ルビィが責められる謂れはないのだが、それは長くルビィの心の奥底にこびりつき、彼を駆り立てていた。その痛みが、彼が迷宮探索という危険にしがみついていた理由のひとつにもなっていたのかもしれない。


 しかし今、ここで何ができるのだろう。絶体絶命の窮地に立たされているのは間違いなくルビィの方だ。盗賊たちは数で勝り、技能と経験で勝り、対峙する位置関係でも有利な状況である。そんな圧倒的に優勢な状況だからこそ、そこに慢心と油断が生まれるのではないか。この局面では、それを逆手にとって利用するしか道はない。ルビィはそう思った。


 チャンスは一度きりだ。間を与えてはいけない。敵が攻撃態勢に入ればルビィには万に一つの勝機すらなくなってしまう。


 それは、まるで突風だった。階段下から一足飛びに、ルビィの身体が跳ね上がる。真っ直ぐに、先頭に立つ盗賊の目の前まで駆け上がったルビィは男の首筋めがけて短刀を振り抜いた。


 勝負を分けたのは技量の差か。経験の違いか。


 盗賊は一瞬の出来事に虚を突かれながらも左手で反射的に首を庇う。短刀の抜き打ちは急所にこそ届かなかったものの、その庇った左手首を篭手ごと、いとも簡単に切り飛ばした。類稀なその切れ味は、触れ込み通りであった。


 痛みに吼えた盗賊は、深手を負いつつも右手のダガーでルビィの左足に切りつけた。血しぶきを散らした二人は、再び間を取るために互いに後退する。


「くそ!なんだ、あの剣は!おい、殺せ!こいつは、あの大女に目を付けられてるんだ!死んじまってもどうせ、牝牛に踏み潰されたって笑い話にしかならねぇ!」


 盗賊たちがルビィを押し包んできた。逃げ道は階段を下るしかないのだが、後退すれば敵が殺到してくることは目に見えている。もはや為す術はなく、あとは最後の時まで短刀を振り回すしかないように思われた。


 転瞬――そこに、凄まじい風が巻き起こった。


 ルビィの踏み込みを一陣の突風と喩えるなら、階段の下から吹き上げて来たのは荒れ狂う暴風とでも言うべきか。突如に沸き出でた嵐がルビィの傍らを走りぬけ、彼を囲む男達を薙ぎ払う。骨が砕ける音が響きわたり、数人の男が吹き飛ばされるがまま、周囲の壁に激突し力なく崩れ落ちた。


「わたしの名を騙ろうとでもいうのか?牝牛呼ばわりとは、いい度胸だな」


「え・・・あ、グエンさん!?」


 長身の女戦士が己が身の丈ほどもある大剣を盗賊に突き付け、ルビィを見て笑顔をみせる。


「さっきの踏み込みは中々よかった。だが、背伸びをすると、命を縮める」


 残った盗賊たちが震え上がった。わずか一合で半数もの手勢が倒されたのだから、当然のことであったろう。タイフーン、死の旋風等々、口々に彼女の仇名をつぶやいている。


「・・・引くぞ。相手が悪い」


 仲間の手助けで腕を止血した盗賊が撤退を命じた。男達はゆるゆると後退しはじめ、闇に溶け込んでゆく。殿がその姿を消すのを確かめて、ようやく剣を納めたグエンがルビィへと歩み寄った。


「怪我はないか?む、出血しているではないか!」


「あ、ああ、避け損なっちゃって。かすり傷ですよ・・・」


 歴戦の女戦士は、手際よくルビィの止血を行った。太ももの左前の部分だ。足の付け根を包帯で固く縛る。礼を言おうとしたルビィを遮り、女戦士は無言で軽々とルビィを抱き上げた。


「え?あのっ!ちょっと!?」


「毒を使われているかもしれん。一刻を争うからな。おとなしく抱かれていろ」


 グエンはその後もルビィの抗議を黙殺し、囚われの美姫を助け出した騎士よろしく、堂々と地上へ帰還した。


 そのままグエンはダンジョン帰りの探索者でごった返す中央広場を抜け、自身の所属するパーティの拠点へと向ったのだが、ただでさえ注目を集める彼女である。その腕に男を抱きかかえて通りをゆく姿は、新たな噂を生み出すには充分すぎるほどのインパクトがあった。


「あの・・・そろそろ降ろしてくれませんか?」


「却下だ。黙らんと不本意ながら、その口を塞ぐことになるぞ」


 とりつく島もない。そうしてルビィはタイフーン・グエンが率いるパーティの本拠地『暁のカモメ亭』へと連行されたのだった。この一件で、いたいけな少年と勇猛果敢な女戦士に新たな仇名が増えたことは言うまでもないだろう。



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