丑三つ時、身罷りし娘の文箱の中に

入河梨茶

葵の書斎で読まれた一通の手紙

お義兄様へ



 この手紙をお義兄様がお読みになっている時、きっとわたくしは息を引き取っていることでしょう。


 お義兄様はいつ、どこで、どんな風に、この手紙をお読みになっているのかしら? 想像するに、時刻は真夜中。わたくしの葬儀の手配を済ませたばかり。お姉様やお医者様や使用人が慌ただしく動き回る中、ほんの僅かな時間を縫って、ご自分のよく整頓された書斎に入ったところ。手に馴染んだ銀のペーパーナイフで少し薄汚れた封筒を切り開き、きっちりと折り畳まれているこの便箋を広げたのではありませんこと?

 ……千里眼かと驚かれたかもしれませんわね。でもわたくし、予知能力を持ち合わせているわけではありませんけれど、お義兄様のなさること、お考えになることなら、大抵推測出来ますの。

 この手紙はきっと数日以内に書き終わり、厳重に封をされ、わたくしの宝物を収めた小さな文箱に蔵われることでしょう。そしてこのことはお医者様にだけお伝えしておくつもり。数週間後か数ヶ月後には、今は穢れ一つないこの封筒も、きっと自然と汚れていることでしょう。

 そしてその存在を知ったお義兄様は、何が記されているか判らないこの剣呑な手紙をすぐにでも焼き捨てたい気持ちを堪えながら諸事万端を整えて、お姉様にも、坊や達にも、誰にも決して見咎められない安全なお部屋で手紙を読んでいることでしょう。

 真夜中と書いたのだけは、ただの予感。でもわたくし、自分が陽の光の下で末期を迎えるとはとても想像出来ませんものですから。

 詰らない長広舌をペラペラと御免なさい。わたくしったら本当に無駄話が好きね。同級の皆さんにも、「茜さんはまだ十四なのに、時々年増のお喋り小母さんみたいになるわね」なんて揶揄われていたくらいなの。


 お義兄様、有難う。そして、御免なさい。

 あれから一時間も経っているのに、まだ身体の奥はお義兄様の名残を惜しむように熱く燃え盛っています。

 秋も去り春には遥か遠いこの時節、夜気が病み衰えた身体を芯から冷やす筈なのに、わたくしは着衣を脱ぎ捨てたまま快楽の残滓を味わって飽きることがありません。いつまでもいつまでも消えない炎がわたくしの身体を焼き尽くすみたい。

 尤も、それも当然かも知れませんわね。わたくし、お義兄様と結ばれるのをずっとずっと乞い願っていたのですもの。何年も、十何年も前から……生まれる前から。

 それでも、やっぱり、御免なさい。

 この部屋を出て行く時のお義兄様のお顔、まるで赦されない禁忌を犯したような、辛そうなお顔をなさっていましたわね。

 今夜誘ったのも、求めたのも、貪ったのも、全てわたくしのしたこと。むしろお義兄様は病で正気を失った義妹に迷惑をかけられた被害者と申しても良いくらいですのに、心優しく敬虔なお義兄様はそうお考えになることが出来ないのでしょうね。

 本当に、御免なさい。


 だけどやっぱり、お義兄様は何も悪くないのです。恐らくはお義兄様がお考えになっている以上に、お義兄様に罪はないのです。

 悪いのは、全てわたくし。

 今夜に限らず、これまでお義兄様の味わってきた苦しみの源は、悉くわたくしの仕業に由来するものなのです。その行為自体を悔やむ気にはなれませんが、御免なさい。

 と並べられても、十四の小娘にあらゆる責任がある訳もないと、二十九歳のお義兄様はお考えになるでしょうね。

 これから、その説明を致します。



 まずは、一人の男の子の話から始めましょう。

 その子は京都の華族の家に生まれました。と申しましても、元々御一新の際に何をしたでもない貧乏公家の家柄。華族とは名ばかりの貧しい家でした。

 それでも伝手くらいはあるものですね。それなりに賢かった男の子は、父親と親交のあった公爵様のお屋敷に厄介になり、執事の真似事のようなことをしながらも東京の中学に通えるようになりました。公爵様は温厚篤実にしてなおかつ敏腕の実業家。奥様は英仏独蘭更にはラテン語にまで通じ、文芸作品の翻訳に活躍する、聡明でしかも慈母の如きお方。怖いぐらいに恵まれた環境でありました。

 そしてそのお屋敷には、男の子と同い歳のお嬢様がいらっしゃいました。見目麗しくお淑やかで賢く心優しいお嬢様です。

 お嬢様の名前は翠と云います。

 男の子の名は葵と云いました。



 ……お義兄様、わたくしが何を云い出すものやら不安に感じておいでかも知れませんが、どうぞ落ち着いてこの先もお読み下さいませ。



 至極当然の成り行きとして、葵は翠お嬢様に恋しました。

 お嬢様がどうお考えになっていらっしゃったかは判りません。しかし自分に対する振る舞いや言葉の端々から、葵は自分が嫌われていないと感じておりました。

 翠お嬢様は犬を飼っていました。ウコンと云う、まだ若い牡のシェパードです。葵はウコンを朝晩散歩させる翠お嬢様によく誘われて、付き従いました。

 もし何事も起こらなければ、或いはそれから数年後、葵が寝床でたびたび夢想したような、通俗小説の如きハッピーエンドが待っていたのかも知れません。

 しかし葵が十四の春、まず葵の両親が相次いで病没しました。

 葵は一粒種で親類縁者も居合わせません。あっという間に葵は天涯孤独の身の上と成り果てました。

 そんな中、公爵様も奥様も、そして翠お嬢様も、とてもよくして下さいました。葵にとってはどれほど感謝してもしきれなかったことでしょう。

 しかしその年の夏、今度は公爵様が不慮の鉄道事故でお亡くなりになりました。

 鴛鴦夫婦と囃されていた奥様にとって、そのお嘆きはどれほど深かったものなのでしょう。

 奥様は公爵様が関わってらした様々な事業から撤退なさると、お屋敷の使用人にも次々と暇を出しました。ひと月も経たないうちに、広いお屋敷に暮らすのは奥様と翠お嬢様と葵だけとなりました。

 そして奥様は、古今数多の書物を渉猟するようになりました。それも死者の復活だの黒魔術だのについての本ばかりです。奥様が公爵様との再会に心焦がれる余り精神の平衡を欠き始めていることは、同じ家に住む翠お嬢様と葵にだけは明白でした。

 葵は次第に身分の不安を覚え始めました。

 大学を出るまでは葵の援助をしてやろうと公爵様はおっしゃいました。奥様もそのお言葉を違えはしないとおっしゃって下さいます。

 しかし奥様は、日毎に正気を失って参ります。脳髄に蓄積された語学力を以って魔術書の中から目的に適いそうな呪文を見つけ出しては端から手当たり次第に唱える。そんなことを寝食を忘れたように続けているのです。

 稀に書斎を出て葵や翠お嬢様と顔を合わせると、記憶に混濁が生じるのか公爵様がどこにいらっしゃるかと尋ねます。葵たちが事実を述べると嘘を吐くなと激しくお怒りになられます。

 お屋敷の現在の当主は奥様です。奥様のご機嫌を損ねて追い出されたらどうしようと、葵はそればかりを気に揉むようになりました。

 経済的な困窮は何ほどのものでもありません。しかしお屋敷を出されれば、翠お嬢様に近づくことは二度と出来なくなると、葵はそれだけをひたすらに恐れていたのです。



 未熟な十四歳の男の子だった葵は、それだけを恐れていたのです。


 お義兄様。

 そのことだけは、どうかお解り下さいませ。



 その晩秋の夕暮れ。

 奥様に出くわしはしないかとおどおどしながら廊下を歩いていた葵の目は、屑入れから溢れ出しそうになっていた紙片にふと吸い寄せられました。

 それは奥様がかつて戯れに魔術書から翻訳していた呪文の覚え書きです。

 そこには『意中の者と固い絆で結ばれる呪文』と書いてありました。

 捨てられているということは、奥様が試しても無駄だったということなのでしょう。すでに旦那様と結ばれている奥様には無意味だったということかもしれません。

 しかしその文面は、翠お嬢様との結びつきを何より求めていた葵には、鼠にとってのチーズの如く魅力的に映りました。

 葵はその紙切れを自室に持ち帰り、その夜、早速呪文を唱えたのでした。

 十六夜の月が中天に架かり、室内を冷たく照らしていました。葵は悪魔に無礼があっては妙な呪いをかけられるかもと考え、学生服に身を包んでことに臨みました。

 奥様が何十回何百回どんな呪文を唱えても一向に何も起こりませんでした。自分がたった一回試みても何も起こるわけはない。藁にも縋る思いでいながらも、葵は心の片隅でそう考えておりました。

 それなのに、その時呪文は確かに効果を齎したのです。

 葵が呪文を唱え終わると、紙片は不意に炎に包まれ、その炎の中から妖精のような小さい悪魔が飛び出しました。

 ――お前は翠と云う女と身体で結ばれたいのか? 心で結ばれたいのか? それとももっと強固な絆で結ばれたいのか?

 御伽噺や小説で見聞きするような前口上も何もなく、悪魔は甲高い声で単刀直入に葵に訊いてきました。

 ――その全てで結ばれたい。

 驚くよりも何よりも先に、葵はそう応じていました。

 ――よかろう。多少時間を要するが、待て。願いが全て叶った後には代償にお前の魂を頂こう。

 その言葉が終わるや否や、悪魔の姿は掻き消えていました。きっと葵は悪魔と最も速く交渉を済ませた者として歴史に残るのではないかしら?

 ただその時は、葵にそんなことを考えるゆとりなどありはしませんでした。

 葵はその場に倒れ伏し、そのまま意識を失ってしまったからです。


 次に目を覚ました時、葵は身体をぴくりとも動かすことが出来なくなっておりました。

 意識は覚醒しているのに手足はおろか瞼をこじ開けることすら出来ません。床に転がった四肢の感覚は存在するのにその指一本動かすことは出来ません。

 これが話に聞く金縛りかなどと最初は呑気に構えていましたが、しばらくしてから起こった出来事に拠り、葵は深い恐怖に襲われました。

 身体が葵の意志とは無関係に勝手に動き出したのです。

 葵の身体――葵のものだった筈の『葵』の身体は、まず床から立ち上がると部屋を見回しました。そして首を傾げながら学生服を着た自分の身体を見下ろし、数秒後には部屋の壁に掛かっていた鏡に歩み寄って、自らの顔を映し出しました。

 そろそろ散髪に行こうかと考えていたやや長めの髪。場合によっては女子と間違えられかねない、西洋人形のような顔立ち。男子としてはやや華奢な体つき。

 葵にとっては見慣れた自分の顔ですが、『葵』にとっては違ったようです。そのまま数十秒間、彼の動きは固まりました。

「……葵、さん?」

 葵ではない『葵』の口は勝手に動き、怯えたような声を発します。

 そして自分の身体を確かめるように、あちこちを撫で回しました。

「嫌っ!」

 ズボンの布地越しに己の股間の逸物に触ると、彼はまるでそんなものに触ったことのない少女のように可憐な悲鳴を上げました。また自らの平らな胸板に触れた時も、しばし呆然と立ち尽くしておりました。

 その後もしばらく鏡を凝視したり全身を触ったりしていた彼は、ふらふらと部屋を出ると、翠お嬢様のお部屋へと向かいました。

 そこで葵と『葵』が見たものは、ベッドに横たわってすやすやとお休みになっている翠お嬢様でした。

 葵の意識は美しいお嬢様の寝姿にぼんやりとしていますが、『葵』にはそんな感慨はない模様。すたすたと歩み寄ると、お嬢様の肩に手をかけて揺すります。

「起きてください。貴方は何方ですか?」

 何を言っているのかと訝しい思いだった、葵の体内に閉じ込められた葵も、次の『葵』の言葉でようやく合点が行きました。

「私の身体で眠っている貴方は何方ですか? 葵さんですか?」

 今現在、葵の身体に宿り、彼の精神を無視して動き回っているのは、翠お嬢様のお心なのです。鏡を見てそれを知ったお嬢様は、本来の『自分』の身体に誰が宿っているのかを確かめようとしているのです。

 そうと悟った瞬間、葵の心はこのような異常な事態の最中にも拘わらず沸き立つような感覚に襲われました。

 愛しい翠お嬢様と自分が一つの身体を共有している。これはまさにあの悪魔が語ったような、身体よりも心よりも強固な結びつきではないでしょうか。

 しかしそんな悦びもほんのしばしのこと、葵はすぐ現状に不満を覚えるようになりました。我が儘なものですね。

 尤も、色気づく盛りの少年としては無理もございません。彼は今、翠お嬢様とある意味で一つになっています。けれども今の彼は、お嬢様と気持ちを交感することはおろか、言葉一つ交わすことも出来ません。付け加えれば接吻をすることも叶わないのです。言うなれば腕も通らぬ鉄格子のすぐ向こうに美味珍味を並べられた我利我利亡者のようなもの。これは甘美な拷問に他なりません。

 それにまた、これは葵一人の問題ではありません。翠お嬢様のお心を、『葵』の、男子の、不恰好な肉体に閉じ込めている。それはお嬢様の魂に対する侮辱に他ならない。葵はそう考えて切歯扼腕するのですが、自在に動かせる肉体を持たない哀しさ。成す術もなく、『葵』となった翠お嬢様と同じ身体の中、静かに眠り続ける翠お嬢様のお体を眺めるよりありませんでした。

 と、何度も揺さぶられていた――眠っていた方の『翠お嬢様』が、ようやくパッチリと目を開けました。

 常に似ぬ茫洋とした眼差しを、本物の翠お嬢様たる『葵』に向けていたかと思うと、彼女は葵が腰を抜かすような行動に出ました。

 転げ落ちるようにベッドから床に降り立つと、まるで獣のごとく四つんばいとなって『葵』の手をペチャペチャと舐め始めたのです。

 深窓の令嬢という言葉がよくお似合いな翠お嬢様のその有り様に驚いたのは、勿論葵だけではありません。『葵』となっている翠お嬢様にしてみれば、自らの痴態を眼前で見せられているようなものです。

「これっ、何をなさるのですか? 他人の身体ではしたない真似を……」

 しかしいくら叱責されても『翠お嬢様』は聞く耳を持ちません。舶来のネグリジェをだらしなく引きずるようにして、『葵』の周囲をぐるぐる四つ足で回り続けます。

 その仕草に、葵も翠お嬢様も見覚えがありました。

「………………ウコン?」

「わんっ!」

 おずおずと口を開いた『葵』である翠お嬢様に、『翠お嬢様』となったシェパードは元気良く答えました。


 翠お嬢様の心が『葵』の身体に宿り、『翠お嬢様』の身体にウコンの心が宿っています。順当に考えれば『ウコン』の身体に葵の心が宿ったことになるでしょう。

 しかしそうなっていないことを、『葵』の身体の片隅に未だ居座っている葵自身は知っています。

 人間の令嬢となったウコンをどうにか寝かしつけて庭に出た翠お嬢様は、犬小屋の中で眠るように息絶えている『ウコン』を前にして息を呑み……しばらくの間、涙を流しておりました。

 犬として命を失った(と思われる)葵を、単に憐れんでのことかもしれません。途轍もない椿事に見舞われながら、その驚愕や惑乱を分かち合う相手がいないことで、途方に暮れてしまったのかもしれません。無言で泣き続けるお嬢様の心の内は、同じ身体に宿っている葵にも解りませんでした。


 しかしそれ以後のお嬢様は、実にご立派でした。或いはお見事、と言うべきかもしれません。

 まずは支度を整えるとお抱えの医師を呼び寄せ、『翠お嬢様』の「錯乱」を告げると会話を巧みに運んで診察もさせることなく診断書を書かせました。次いでお嬢様の通う女学校に向かうと、診断書によって難なく休学を承諾させました。

 こうしてお嬢様は狐憑きならぬ犬憑きとなったご自身の身体を一度も外部の人目に晒すことなく、人前から隠すことに成功したのです。

 そこには幾許か、『葵』の功績もあったのではないかしらとわたくしは思います。口さがない世間の人々が、従僕によるお家の乗っ取りという疑いを一度も噂に上らせなかったのは、それまでの『葵』の愚直な働きぶりが知られていたからだと思いますの(或いは、そんな大それたことをする度胸などない腰抜けと見られていたということかもしれませんが)。

 それはさておき、外部の目を遮断したお屋敷の中でも、お嬢様が取った処置は鮮やかなものでした。奥様に『お嬢様』を宛がったのです。

 もしかしたらそれは、慣れない身体と立場で屋敷を維持するためにたった一人働き続ける状況ゆえに余儀なく為された、窮余の一策だったのかもしれません。しかしそれは、後から振り返れば実に当を得た判断でした。

 心の均衡を欠いていらした奥様は、ウコンが宿り傍目にはまるで四つ足で這い始めたばかりの赤ん坊のようになってしまわれた『お嬢様』の姿を見るや、久しく失われていた理性の光をその瞳に取り戻したのです。すっかり以前のように、とは参りませんが、それでも犬のウコンを人間の『翠お嬢様』として改めて育て直すことが可能なくらいには。

 一方のウコンも、人として育てられることで、驚くほど早く人間らしくなっていきました。あの玉突きのような入れ替わりが起きてから二ヶ月後には、片言とは言えもう言葉を喋れるようになったのですから。

 ウコンのそんな姿を見ていると、葵には、魂とは身体という器によって如何様にも変わり得るものなのかもしれないと思えてならないのでした。キリスト教が説く、天国行きと地獄行きに画然と分けられる死生観よりは、仏教が説く輪廻転生の世界の方が、まだしも実際に近いのではないでしょうか。葵たちを変えてしまったのはキリストに敵対していそうな悪魔なのですから、こんな風に考えるのも的外れなのかもしれませんが。

 そう、葵は依然として『葵』の中に、何も出来ず誰にも何も伝えられずに閉じ込められていました。『葵』として苦労する翠お嬢様の日々の困惑を、ただ一緒に感じるだけの立場で。

 例えばそれは、翠お嬢様が『葵』になって十日目の朝。ついに肉体的な限界を迎えて下着を白い欲望の滴りで汚してしまった時の、押し殺したお嬢様の嗚咽と、なのにその雄の肉体が確実に学んでいた快感。

 例えばそれは、お嬢様が近所へ買い物に向かう時。ふとすれ違った、数週間前までの同級生だった女学生から香り立つ嗅ぎ慣れた筈の少女の匂いに、お嬢様が我知らず蠢かせてしまった鼻の動き。

 例えばそれは、お嬢様が奥様の下着を洗う時。ご自身も数ヶ月前まで身に付けていた布地からどうにも目が離せなくなっているうちに、頭に上って鼻から垂れ出す血液の熱さ。

 不思議なことにそれらの出来事は、入れ替わりの起こる数ヶ月前に葵自身が体験していたことと表面的には寸分違わぬ事件ばかりでした。まるで翠お嬢様に葵の人生の一部を追体験させるかのように。翠お嬢様に男の性というものを教え込むかのように。

 そのことに気づくと、声も出せない肉体の牢獄の中で葵は独り煩悶しました。穢れを知らなかった可憐で清楚な翠お嬢様が、『葵』の身体で生きることによってどんどん男の性欲に塗れていく。それはお嬢様の魂に対する冒涜に思えてならなかったからです。

 けれども、一方で葵は、邪まな悦びに心を震わせもするのでした。

 だって翠お嬢様が『葵』の身体で暮らせば暮らすほどに、『葵』の立場や欲望を理解すればするほどに、翠と葵は一つになっていくのですもの。

 だから変異の一ヶ月後、翠お嬢様が『葵』の身体でついに初めて自らをお慰めになった時、葵は誰一人聞くことのない歪み捻じれた歓声を、翠お嬢様のすぐお傍で上げ続けるのでありました。

 そこからさらに三ヶ月後の出来事までは、誰か高みから見下ろす立場にいた者があれば、一直線の道筋として見えていたことでしょう。



 わたくしがこれから何を話そうとしているか、お義兄様はすでに理解なさっていられるでしょうね。きっとこのおぞましく忌まわしい手紙を今すぐにも捨て去りたいと思ってらっしゃることも、わたくしには想像できますわ。

 けれど、出来れば最後まで読んでいただきたいのです。わたくしの、これまで決して貴方に言えなかった、言うわけにいかなかった、あまりに複雑過ぎる気持ちを、確かな言葉で伝えておきたいから。



 二人と一匹の間に魂の転移が生じてから四ヶ月後。

 ウコンはすっかり『翠お嬢様』として生きるようになりました。かつて牡犬であった時のことを忘れ去り、自らを人間の『翠』であると考え、言葉を喋り二本の足で歩くようになりました。尤も、ほんの少し前まで人ならぬ身であった悲しさ、まだ仕草は二歳か三歳の子供のようにあどけなく、十四歳の次第に華やぎ始めた『翠』の容姿には誠に不釣合いな幼さを宿しておりました。

 葵は相も変わらず『葵』の身体の中にいて、何も出来ない状態にありました。

 ゆえに翠お嬢様は三人の中で唯一人、事態を認識し、また対処のために行動出来るという立場にありました。ご自身も慣れない男の子の身体と慣れない執事兼中学生という立場に困惑し、心身両面に及ぶ疲労を蓄積させながらも、屋敷の中に囲い込んだウコンの世話に励んでいたのです。

 そうした疲労が翠お嬢様から正常な判断力を奪ったのだろうと、葵は後になって思いました。


 暦の上では早春でしたがその日は暖かく、まだ服を着て暮らすことに慣れていなかったウコンは、器用にも服を脱ぎ捨ててあられもない姿で邸内を徘徊していました。奥様はその頃から体調を崩しがちで、床に臥せっておりました。

 中学校から帰宅した翠お嬢様は、限りなく裸に近い『翠』なウコンと玄関先で鉢合わせしました。

「翠さま、お部屋へ戻りましょう」

 翠お嬢様は、ウコンに対して常に『翠』と呼びかけました。犬から人間になってしまったウコンをこれ以上混乱させたくないという配慮だったのでしょうが、元々はご自分の身体であり立場である『翠』の名を他人に対して毎日のように呼びかけることは、お嬢様の心にどのような影響を与えていたことか。お嬢様と会話も出来なかった葵には知る由もないことです。

「はあい」

 恥じらう気持ちなどまだ持ち合わせていないウコンは、翠お嬢様の腕にひしとしがみつきました。薄絹を一枚羽織っただけの乳房が、翠お嬢様の身体に密着します。そのことで『葵』の鼓動が高鳴ったのを、『葵』の中の葵は気づきました。

「さあ、翠さま、お洋服をお召しになってください」

 ウコンを『翠』の、かつてのご自分の部屋へ戻したお嬢様は、そう言うとクローゼットから可愛らしいブラウスを取り出しました。以前は自ら袖を通していたお気に入りの服であることを、葵は知っていました。

「いや! あついからやなの!!」

「聞き分けのないことをおっしゃらないでください。翠さまは公爵家の淑女なのですよ」

 言うや否や、いつもは時間をかけて淑女になりたての牡犬を懇々と諭していた翠お嬢様は、服を抱えてウコンに迫りました。

「やだあっ!! あおい、あっちいって!」

 ウコンとて、犬であった時から世話をしてもらっていた相手である『葵』には、普段は友好的な態度を取っていました。しかしこの時は、虫の居所が悪かったのか邪険な態度で追い払おうとします。

 二人はもつれ合って、ベッドの上に倒れ込みました。

「し、失礼しました」

 慌てて立ち上がろうとした翠お嬢様の腕を、ウコンが握りました。

「あおいもいっしょにいて」

 立った状態から急にベッドへ倒れ込む感覚が面白かったのか、うろたえた『葵』がいつもの雰囲気を取り戻したことに安心したのか、もっと単純に『葵』と抱き合う体勢になったのが嬉しかったのか、ウコンの当時の気持ちは葵としても推測するばかりです。しかしともあれ、機嫌を直したウコンは翠お嬢様にしがみついて、ベッドの上から離そうとしませんでした。

「……しょうがないですね」

 ベッドの中にいる分には、裸であっても特に咎める必要はありません。それにまた、翠お嬢様自身疲れてもいたのでしょう。

 かくて『葵』である翠お嬢様と『翠』であるウコンは、毛布を被ってベッドの上で身を寄せ合いました。

「あおい、だいすき」

 無邪気に笑いながら『翠』は『葵』に抱き付いてきて、『葵』の胸に頬ずりします。その度に『翠』の身体からは甘く爽やかな少女の香気が立ち昇り、『葵』の鼻腔を刺激します。

 乙女が向ける邪気のない笑顔。乙女があどけなく囁く好意に満ちた言葉。乙女の放つ芳しい匂い。服を殆ど着ていない乙女の、柔らかで弾力を帯びた肢体の手触りと肌触り。

 翠お嬢様は、途中まで実に良く耐えたものだと葵は思います。

 勿論『翠』は翠お嬢様本来の身体であり、禁忌にも似た感情はあったでしょう。このような形で『自分』を傷物にしてしまうことを恐れる気持ちもあった筈です。

 しかし股間を初めとする『葵』の全身の性的な興奮を直に感じ取っていた葵としては、またそれまでの四ヶ月で徐々に徐々に男の性欲に逆らえなくなっていっていた翠お嬢様の姿を間近で見てきた身としては、やはり良く耐えたという他ないのです。

「あおい、かおがあかいよ。ねつがあるの?」

 その忍耐を決壊に導いたのは、ウコンの無造作な振る舞いでした。

 ウコンが『翠』の身体で微熱でも出した時に奥様がなさった仕草なのでしょうか、『翠』の額を『葵』の額にぴたりと付けました。

 そして更に、犬であった時の仕草そのままに、『翠』は『葵』の顔を舐め上げたのです。頬と言わず、唇と言わず。

 『翠』の唾液に濡れた自分の唇を舌で舐めた直後、『葵』は『翠』の唇を奪いました。


 客観的に事態を示せば、『葵』が『翠』を抱きました。

 当事者の意識としては、翠お嬢様がウコンを抱きました。

 固有名詞を取り除いて説明すれば「少年の身体に魂が入り込んだ少女が、牡犬の魂が入り込んだ元は自分のものである少女の身体を抱いた」ということになります。

 悪魔に趣味の良し悪しを説いても始まらないでしょうけれど、これは如何にも悪趣味です。

 しかしその裏でもう一つ悪趣味な事態が発生していたことは、葵ただ一人が知ることでした。


 悪魔と契約を交わして以来この方、徹頭徹尾傍観者の立場に追いやられていた葵ですが、この時も、動かす身体こそないものの、身悶えし、歯軋りせんばかりの気持ちでありました。

 自分が自分の恋していた相手を貫いている。『葵』が『翠お嬢様』と結ばれている。その感触と高まる快感も我が物として感じ取っている。それなのに自分の身体を自分の意志で動かすことの出来ない歯痒さもどかしさ。

 そのうちにも『葵』の身体の内奥で、快感は高まっていきます。技巧も『翠』への気遣いも何もない、荒ぶる本能の衝動に身を任せた行為は、終局を迎えようとしていました。

 この三ヶ月、翠お嬢様が最初は拙く、やがて葵以上に巧みに動かす右手に弄られながら、葵がずっと感じてきた快楽。それが今、『翠お嬢様』の中へと解き放たれようとしています。

 翠お嬢様に翻弄される間、ウコンは拒んだり悲鳴を上げたりはしませんでした。四ヶ月前まで大人の犬であったものとして、そこは動物の感覚で事態を理解し受け入れたのでしょう。

 ただ挿入の瞬間だけは、小さく苦痛の呻きが唇から零れ出ました。

 翠お嬢様は一瞬動きを止めます。四ヶ月前まで自分のものであった肉体を、涙を少し滲ませた瞳で見上げる乙女を、黙って見下ろします。

 しかし一旦目を瞑り見開くと、再び荒々しく身体を動かし始めました。

 ウコンもまた、それ以上は声を上げようとしませんでした。

 或いはこの瞬間に真の意味で、翠お嬢様は『葵』という男になり、ウコンは『翠』という人間の女になったのやもしれません。

 岡目八目の気分でそんなことを考えながら、葵はせめてとばかりに『葵』の快感を味わい尽くそうと意識を集中しておりました。

 と、肉棒の先から性欲が迸り出そうになった瞬間です。

 葵は、自身の存在がどこかへ引っ張られていくような心持ちになりました。自分がこの『葵』の身体から引き剥がされようとしているような感覚を覚えました。この四ヶ月で初めて起きた異変です。

 不安に駆られつつも、しかし、葵は事態が動き出したことを喜びにも思いました。

 たとえ『葵』の身体から己が魂が弾き出され、よしんばそのまま悪魔の手中に堕ちたとしても、何も出来ない今の境遇と如何程の違いがありましょう。

 そんな捨て鉢な意気込みと好奇心とを半々に、『葵』が絶頂に達すると同時、葵は何処とも知れぬ深みへと、渦に呑まれる子供の如く吸い込まれていったのでありました。



 次に気がついた時、葵は新たな混乱に襲われました。

 自分を『自分』が見下ろしていたからです。横たわる葵のことを、鏡でしか見たことのない『葵』の顔が見つめていたからです。

 しかし直後に起こった現象から、葵は状況を察することが出来ました。

 葵の今宿る身体は、またも葵の意思を無視して勝手に動き出し、『葵』にひしと抱きついたからです。

「だいすき……あおい、だいすき……」

 新たな『自分』がしゃべる、そのたどたどしい言葉。聞き慣れているけれども、今はこれまでと些か違って聞こえる『自分』の声。長く艶やかに伸びた『自分』の髪。白く滑らかな『自分』の肌。柔らかい『自分』の体躯。ほっそりとした『自分』の全身。また、痛みと快感を等分に感じる『自分』の股間。赤い血と白い精を内側から溢れさせる『自分』の股間。

 葵は、今度は『翠お嬢様』の身体に入り込み、しかしまたしても自ら身体を動かすことは叶わない状態にあるのでした。


 そのことを悟り、葵は再び深い失望の淵に身を沈めました。

 これもまた、翠お嬢様と強く結びついていると言えば言えるでしょう。これまでは翠お嬢様の心と一つになって過ごし、これからは翠お嬢様の身体と一つになって過ごす。言葉にすれば何とも夢のような生活です。けれどもそこに葵の意思が介在する余地はありません。

 そればかりか以前よりも状況は悪化したとさえ言えるでしょう。『葵』の身体の翠お嬢様と『翠お嬢様』の身体のウコン、二人が日毎夜毎に人目を忍んで(と言っても、気をつけるのは臥せりがちな奥様一人だけでしたが)繰り広げる、本来はありえない歪んだ戯れを、葵はかぶりつきで観賞させられ体験させられるのですから。

 元々の『自分』たる、そしてここ数ヶ月ですくすくと背を伸ばし、美男子へと成長しつつある『葵』。鏡の向こうに眺める際は僅かなりと誇らしかったその整った顔立ちも、性欲に駆り立てられて『自分』に迫って来るとなると不快感が先に立ちます。『女』として扱われることも、葵の男としての自尊心を打ち砕きました(翠お嬢様は、流石に本来は女性であり、相手の身体が元の自分の身体であっただけあって、優しく丁重に『翠』の身体を扱ってはいたのですが)。

 なのに……数日を経、数週間を重ねるうち、いつしか葵はその境遇に快楽と悦びを見出すようになっていたのでした。

 あの秋の晩、『葵』の身体に閉じ込められて以後、葵は何も出来ず、また翠お嬢様も雄の性欲を学びつつも何もしてはいませんでした。しかし今、季節が春を迎え始めたのに合わせるが如く、若い男と女は情欲の発露を留めようともせず、存分にお互いの肉体を貪り合っています。たとえ閉じ込められた身であっても、その快楽のお零れに与ることで、葵はそれなりに満たされた心地になるのでありました。

 そして今一つの理由は、『女』として男に快楽を与え与えられる新鮮な感覚に、葵が次第に溺れ始めたことによります。

 男として女を抱くことなく、ただ一度、翠お嬢様のウコンへの最初の行為の余禄を味わっただけで、男の身体から追放された葵です。『翠』として『葵』に抱かれる回数の方が遥かに多く、葵が抱かれる悦びを覚え愛するようになったのは必然だったと言えるでしょう。

 しかし、その境地に至った頃、『翠お嬢様』の身体に入り込んで一ヶ月目頃から、葵は新たな変調に見舞われておりました。


 次第次第に葵は、『翠』として五感を受け取る力が薄れていくようになりました。目を紗が一枚ずつ覆うが如く、耳を綿が少しずつ塞ぐが如く、全身を薄絹がゆっくりと包み込むが如く。

 まず不思議に思い、やがて今度こそはこの肉体からも放逐されて虚空に漂う儚き魂魄と成り果てるかと怯えた葵でしたけれど、そのうち奇妙な安堵を覚えるようになりました。

 直接感じるものが薄れる代わり、自らが『翠』と結びついているという感覚は、なぜか時を追うに連れて却って高まっていったのです。

 芋虫が蛹になる時も、同じような心の動きを辿るのかもしれません。今にして葵はそう思うのです。

 葵は心静かに暗がりの中に身を潜め、心もやがて緩やかな眠りに陥りました。

 そして、蛹は蝶となりました。

 青い男の子は、赤い女の子として生まれ変わったのです。



 最初は普通のみどりごや幼な子と変わりません。何も判らず、ただ母を求めて泣き叫ぶばかり。滋養に満ちた乳を飲み、排泄し、眠る、その繰り返し。やがて知恵が付き、四つん這いで床を歩き、二本の足で地面を踏みしめ、言葉を覚え、周りの人と関わりを持つようになります。

 けれど立ち込める濃い霧が少しずつ少しずつ晴れていくように、その心にはかつての意識と記憶が甦っていきました。

 全てを明瞭に思い出したのは、十歳の頃だったでしょうか。今から四年前の話です。

 それ以前から、記憶との矛盾には悩まされていました。わたくしは『翠』の妹なのになぜ、あたかも『翠』の娘であるような記憶を持ち合わせているのか。自分が生まれたのは卯月の頃なのになぜ、その年の弥生に『葵』と『翠』が初めて結ばれた姿を覚えているのか。

 十五歳の葵の知恵で冷静に考えれば、すぐに理解できます。十五歳で子を生した『翠お嬢様』の外聞を憚って、茜は奥様の次女ということにされたのでしょう。そして奥様が身篭るとすれば、相手は前年の夏に亡くなった旦那様以外ありえませんから、恐らくは師走の頃であった筈の茜の誕生日は、必然的に春まで遡らされたのでしょう。医師を従わせるのはそれほど難しくもなかったでしょう。

 十五年前、『葵お義兄様』の手並みは間近で拝見させていただきましたものね。



 ここまで書いてしまうと、もう『お義兄様』と呼ぶ気にはなれません。昔のように翠お嬢様と呼ばせてくださいませね。



 翠お嬢様は『葵』として、中学校から一高、帝大へとお進みになりましたわね。そして高校時代に亡くなられた奥様が遺した公爵家の資産を元手に事業を興し、成功をお収めになられました。

 わたくしが『葵』のままだったなら、きっとどれ一つ成し遂げられなかったことでしょうね。

 事業が軌道に乗り始めた頃に『翠』と結婚、三人の坊や達に恵まれて、とても幸せに暮らしてらっしゃいます。わたくしが生まれてしまったことに懲りて、以降の学生時代は避妊をきちんとお考えになったのでしょうね(この書き方はちょっと厭らしいかしら? 悪意や皮肉に受け取ってしまったら御免なさい)。

 今のウコンはとても立派な婦人であり母親ね。彼女が十五年前まで牡のシェパードだったなんて、きっと誰が聞いても信じないことでしょう。

 でも、彼女にとって十四年前の出来事は、普通の人にとっての二歳か三歳頃の出来事と同じ、成長していくに従って忘れ去ってしまう出来事だったのでしょうね。彼女がわたくしを見る目は本物の妹を見る目で、それもわたくしの記憶と現実が齟齬をきたす一因でしたわ。

 何はともあれ、翠お嬢様もウコンも、とても幸せそう。

 わたくしも、そんな二人の妹或いは義妹として、何も思い出さず無邪気に幸せに生きていければ、きっとそれが一番良かったのですけれど。



 十歳のわたくしは思ったものです、あの悪魔はほとんど嘘を言わなかったと。

 わたくしは、翠お嬢様の心と一つ身体を共有して暮らしました。わたくしは、翠お嬢様の身体で素晴らしい快楽を味わうことが出来ました。

 さらに言えば『葵』は『翠』と結ばれました。身体で契りを交わし、婚姻を果たし、子供にも恵まれました。

 何より、今のわたくし自身が、翠お嬢様とわたくしと葵の結びつきの証です。

 わたくしは、『翠お嬢様』から生まれました。翠お嬢様はわたくしの母親です。

 と同時にわたくしは、翠お嬢様の心が宿る『葵』が放った子種から生じました。翠お嬢様はわたくしの父親でもあります。

 愛する人が母であり父でもある! 世間一般の通念からかけ離れた狂った関係ではありますが、そのことに気づいた四年前のわたくしがどれほど言語を絶する喜びを覚え、満ち足りた気持ちに包まれたことか、想像していただければ幸いです。

 けれども、あの悪魔は随分な律義者でした。

 最後の最後にもう一つ、更なる代償と引き換えに、これまでわたくしが得られなかった翠お嬢様との結びつきを与えてくれたのですもの。



 今年に入ってから、身体が不調を感じるようになりました。お医者様に診ていただいても悪いところは見当たりません。実際に微熱は続き時に喀血さえ伴うわけですから、仮病と疑われるわけもなく、わたくしは床に臥せるようになりました。

 けれど診断の結果と関わりなく、身体は確かに感じていました。わたくしの内側のどこかに穴が開いていることを。砂時計の砂が零れるように、わたくしの命が着実に失われていることを。

 でもわたくしは、『翠お嬢様』のお腹の中にいた時とどこか似たような、奇妙な安らぎも感じているのでした。

 砂時計の砂は、消えるわけではありません。穴から漏れ落ちた砂粒は、容器の下側では逆に積もって別の山を作り上げているのです。

 人間としての茜は、もうすぐ儚くなるでしょう。けれどその時、別の存在としての茜が生まれ出す。今、わたくしはそれを確信しています。

 ここ数日、窓の外の風景などを眺めていると、時折奇妙な生き物や不可思議な存在を見かけるようになりました。他の人には誰にも見えない、この世から外れかけているわたくしにだけ見えるもの。その中には、十五年前にほんの数秒会話を交わしただけの、あの者の姿もあったように思うのです。

 自分がそれらに嫌悪を抱いていないばかりかある種の親近感すら抱いていることを不審に思い、少し思考し、結論めいたものが見えました。

 たぶん、あの者に契約の代償として魂を捧げたわたくしは、あの者らの同類になるのでしょう。では、我欲に奔る魔の眷族の中、わたくしに最も似つかわしい存在は何か?

 わたくしが魂の奥深くに抱え続ける欲望。それは、十五年前から、茜が葵であった時から、微塵も変わっていない欲。

 翠お嬢様と、結ばれたい。

 そこまで考えて、わたくしは今の自分がすべきことを悟りました。



 わたくしは先程書きました。翠お嬢様はわたくしの母であり父であると。そしてそのことは、翠お嬢様も勿論承知なさっておいでです。

 だからわたくしのこの欲求は、叶えるのが極めて困難です。翠お嬢様に拒まれれば、どうしようもありません。

 ……普通の状況なら。

 二つだけ、わたくしに有利な点がありました。一つは、わたくしが自分の生い立ちについて無知であると翠お嬢様に思われていること。そしてもう一つは、わたくしが誰の目にも明らかなくらい病み衰えていて、遠からず命を失うこと。

 わたくしはその二点を最大限に利用して翠お嬢様に迫り、甘え、哀願し、いくらかは脅しもして、遂に望みを叶えたのです。



 父であり母でありかつての自分でもある翠お嬢様に愛された、その歓喜!! これはもう、わたくしの稚拙な言葉では書き記すことすら出来ません!



 あの行為によって、わたくしの命の天秤は大きく傾いた気がします。

 無論後悔などしているわけではありません。それによってわたくしは新たな存在に相応しい振る舞いを一層深く学べているのですから。

 そしてわたくしは知りました。魔とは、時に西洋も東洋も関係のない存在であると。

 本邦では死人が出た時にお通夜を営みますが、死者の横たわる布団の上には刃物を置いておきます。それを怠ると、死体はさらわれて消え失せてしまうとか。

 翠お嬢様、わたくしの布団に刃物は置きましたか?

 たとえそこで手を打たれても、わたくしはあの者の手引きによっていずれ別の形で動き出せるとわかっています。けれどその対処がなければ、たぶんその夜から活動することが……。

 坊や達にもウコンにも手出しする気はありません。あの子達にはただひたすらに人として幸せな生涯を歩んで欲しいと願うばかりです。



 でも、わたくし、翠お嬢様のことだけは……こうして望みを残らず叶えた筈の今この時ですら、浅ましく求め、執拗く貪りたいと、願ってしまいますの。妄執ここに極まれりというところですわ。

 翠お嬢様。

 貴方と結ばれたい。


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丑三つ時、身罷りし娘の文箱の中に 入河梨茶 @ts-tf-exchange

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