第155話 全先正生の妻たちへ

 前触れもなく至福の一時は奪われた。


 自動運転のバスが緊急停止するまでの一瞬、屋根だけを果物の皮でも剥くみたいに斬って現れた勇者は、迷うことなく無抵抗の間々崎咲子を捕まえて飛び去った。


(わたしのせいで)


 あさまは激しく落ち込みつづけている。


「そんで、兄さんが動けへんかったんは、このマッサージオイルのせいやと? なんなん? 普通の薬物やったらそう効果ないはずやろ?」


 クッキーが言う。


「能力だ。体液に触れさせることで感情を同調させる。惚れ薬という触れ込みで、若い連中に出回っているみたいだ。違法な成分を含んでいる訳ではないから、違法とまでは言えない。効果も通常はそこまでないはずだとのことだが」


 伊佐美が説明した。


「肉体的疲労がピークだったのが良くなかったようです。オイルを提供していたカームダンの店主によると惚れるというより、素直になる効果を重視した配合だったようですので、単純に気持ちを許していたから油断しきったということです」


 ルビアが補足する。


「疲労ってー、よってたかってセックスしすぎってことでしょー? 我慢しなよ。クマちゃん。大人なんだからー、十六歳に甘えすぎー」


 すみが伊佐美に文句を言った。


「甘えてない。むしろ甘えてるのは正生で」


「あーっ! なんかすっかり正妻気取りだーっ! 回数重ねたから? 自分が一番だって? 自分が一番おっぱいだからー?!」


「おっぱいだからってなんだ!」


「おっぱいだから! おっぱいはおっぱいだから! もー、ズルい! わたしだっておっぱいしたいのに! 下宿の管理人なのに! まだ寝てる部屋に夜這いもしてないんだぞーっ!」


「するな!」


「ウチも夜這いしたいわ!」


「クッキーは本当にするな!」


「私は夜這いしているところを背後から横取り」


「なんなんだそのややこしいのは!?」


「あ、あの、その位で」


 騒々しい場にマリナという女性が割ってはいる。間々崎咲子が奪われたバスに偶然同乗していて、その事後処理などに奔走してくれた機関の職員を名乗る人物だ。


「事情はわかりました。間々崎咲子という指名手配犯と皆さんの夫である全先正生氏が同一人物であることは上の方に確認を取りますが、ともかく今は彼の救出を最優先に考えないと」


「ま、あの三人と人質交換でええんちゃう?」


 クッキーはあっさりしたものだった。


「そうなるな」


 伊佐美も同意する。


「三人って?」


「勇者のパーティとされる三人が、正生さんに戦いを挑んであっさりと捕まっているんです。機関に預けて事情聴取してもらっているはずですが、どのくらい喋ったのか」


 すみにルビアが説明する。


「そーなんだ。なら、心配はないねー」


「皆さん、軽すぎませんか?」


 マリナが驚いていた。


「あ、相手は機関に宣戦布告してくるような組織の後ろ盾もあるようですし、なにより間々崎咲子という個人に執着する男ですよ? 命の危険はなくとも、夫のことが心配では?」


「間々崎咲子の処女はマタが奪いまシタ」


 待機していた家政婦ロボが言う。


「ええっ!?」


「兄さん、あの状態でも男性経験あるしな。むしろ勇者がそないなことをしようとしたら、自力で戻ってくるやろ。そんくらいできんようでヒーローとは言われへん」


「ええ……?」


 クッキーの言葉に、マリナはどん引き。


「薄情かもしれないが、正生が油断しすぎなのは事実だからな。デートもセックスも夫婦でなら好きにすればいいが、緊張感を失っては意味がない。気持ちの張りを維持するためにこそ、豊かな人間関係が必要なんだ。だから」


 伊佐美が、あさまを見る。


「そろそろ落ち着こー? あさまちゃん?」


 すみが口に噛ませたタオルを外す。


「殺して、わたしを殺して……」


 あさまはつぶやいた。


「姉さん、話聞いてたん? ウチらはそない怒ってないやろ? だれが命と引き替えに勇者を呪殺せえ言うてる? さっさと名簿しまって、術を中止し言うてんの。姉さん?」


「……」


 あさまは床に額を擦り付ける。


 謝罪の意味と、自分のふがいなさ。


 バスで勇者に咲子を奪われた直後、もう術をかけようとしていた。姿を見た相手を、自らが死ぬことで呪い殺すという凶悪な術である。だが、それはその場にいたマリナに制止され、振り切ろうとしたところを取り押さえられた。


「みひろさんも怒ってなかったぞ?」


 伊佐美が母の名前を出す。


「兄の復讐のことしか考えずに生きてきたから、急に幸せを感じて浮かれるのも無理はないから、娘を許してやってくれと丁寧な挨拶を」


「殺して!」


 そんな配慮が心に一番刺さる。


「兄さん帰ってきたら、一番に姉さんのとこに送るから、な? 浦島千鶴呼んできて、白い獣にもしてもらお? 一日たっぷり独占したらええやん。そんくらいみんな許すわ」


(最年少に気を遣われている)


 呪殺と関係なく死にたくしかならない。


「こっちの意見はこんなところでまとまってる。それで、機関としてはどうなんだマリナ。人質交換はしたくなくて、こちらで奪還してほしいから集めたのか?」


 伊佐美はマリナに尋ねる。


「私は、勇者の件については担当ではないのですが、集めろという指示は巫女田カクリ様から出ています。こちらにも顔を出すということでしたので、ホテルにお呼びしたのですが」


「お待たせしたわね」


 タイミングを見計らったかのように、機関の理事が颯爽と室内に入ってきた。その場の全員に緊張が走る。縛られて身動きのとれないあさまにはどうしようもなかったが。


「みんな、楽にしてくれていいわ。これはわたくしの公式な仕事ではありませんから」


 全員の視線の中央、部屋のど真ん中へ躍り出ると、それぞれの顔を見て、カクリはにこやかに笑った。誘拐された正生を心配している様子がないのは、あさま以外の妻たちと一緒だ。


「伊佐美、現時刻をもって、あなたをヒーローに任命します。コードネームは前回同様、0090=ベアレディ。これからはあなたの判断で行動しなさい」


「つ、謹んでお受け致します」


 伊佐美が恐縮する。


「だから楽にしなさい。ええと、そういう訳で、わたくしから、全先正生の妻たちへひとつお願いをさせてもらいに来ました」


 カクリは腕を組んで、とても人にものを頼む態度ではないほどに偉そう喋り出した。だが、腹が立つよりも、全員がその迫力に沈黙させられる。頭を力一杯握られたような圧力が、ただこの部屋の中にいるだけであった。


「日本政府が勇者という能力者の力を利用して、機関を揺さぶろうとしています。これへの対処は正直なところ、大変に面倒です。時間がかかる上に、一国の問題では収まらない政治家の動きも見られます」


「ウチらで勝手に勇者を潰せ、言うんやな?」


 クッキーが話に割り込んだ。


 圧力は感じているようで、天才少女の表情に余裕はなかったが、それでも屈しないという気の強さが見える。この中で最もカクリに近い場所にいるのかもしれない。


「察しがいい。流石ね。クッキー・コーンフィールド。あなたもついでにヒーローに任命したいところだけど、全先正生のチームメイトだから、後回しにさせてもらうわ」


「兄さんを自由にさせる気はない、と?」


「誘拐されるような体たらくでは?」


「しゃーないやろね。自由になるときは、任命されるまでもないことになってる思うけど」


 二人は軽く火花を散らせていた。


「あっちの思惑は別として、勇者は全先正生に仕掛けてきた。だから、あなたたちには報復の権利もある。日本政府の自信の根拠を完膚なきまでに叩き潰して世界中に晒してくれないかしら?」


 物騒な依頼だった。


 あくまで夫を攻撃された妻たちの報復という大義名分とストーリーで勇者を終わらせてしまおうというのだ。通常なら、そこまでしないということも、既に実績のある伊佐美をヒーローとすることで、正義の行動であるという宣伝ができる。


「報酬は?」


 クッキーが言った。


 この状況でそれを言い出す胆力。


「わたくしの私費からの支出ですが新婚のあなたたちが一緒に暮らせる新居でいかが? 要望は自由、予算は100億まで」


「ええやん。受けるわ」


 最年長と最年少、500年以上は歳の離れた二人のやりとりで、あっさりと決まった。だれも異論も反論も挟めなかった。


「マリナ・トゥット。あなたは、彼女たちのサポートにまわりなさい。配置換えです。機関としては大っぴらに力を貸せませんが、設備等は伊佐美の権限で利用できるように計らって」


 職員に指示をだして、颯爽とカクリは去る。


 嵐のような一時だった。

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