第116話 帰したくない

 テスト一日目が終わる。


 学園中等科と高等科で行われる中間と期末の定期試験には特典があり、総合で学年トップを取ればランキング一位に決闘を受諾させる権利が与えられる。学力に自信があったり、襲撃の乱戦を苦手とする参加者には重要な行事である。


 その意味で試験監督は集中力のいる仕事だ。


 球磨伊佐美は回収した答案用紙を抱えて、教室を後にする。なんとか一日をやり過ごしたという感覚があった。生徒、同僚、だれからも指摘されていないが、顔が緩んでいないか心配だった。


 今朝からずっと身体が熱い。


(正生の感触がずっと残ってる)


 白い獣との事後はむしろスッキリしていた。


 若返った感覚というほど歳を取ってはいないつもりだったが、全盛期の力、なにを考えなくても強くいられた自分に戻った感覚は軽快そのもので、あらゆる物事がクリアだった。


(氷の張った湖を一撃で割ったみたいな)


 逆に、普通の性交渉は後に残る。


(厳しい冬が終わって春が来たみたいな)


 時間をかけて刻み込まれた快感は頂点を越えてもゆるやかに氷を溶かしつづけていた。心と体が弛緩してしまうような、不安なくらいのあたたかさがずっと残って、ぼんやりしてしまう。


 正生に会いたい。


(教師がこんなことでどうする)


 答案を担当教師に渡して、中等科を後にする。


 ヒーローの選抜に関わる意味で不正を見逃さないようにするため、中等科と高等科は教師を入れ替えて試験監督を行うことになっていた。


(恋愛感情じゃなかったはずだ)


 教え育てたい。


 それが伊佐美が正生に対して最初に抱いた感情だった。強くなる可能性のある教え子を見ると、それが抑えられなくなるのはいつものことだ。現役でいられた期間が短かった自分だからこそ、教えられることがあるのではないかという使命感がある。


 岩倉宗虎との決闘で見た、正生の可能性。


 だが、それは胸を揉まれたことで少し変質した。強くなる可能性以上に、この男は自分が教えなければダメな方へ突き進むかもしれない。それは個人的な感情だとわかっていたから、男の自由を縛るために結婚と言った。実際、既に複数の女と婚約していたと聞いて、さらにその感情は深まった。


(あの時、もう惚れていたのだろうか)


 自分より強い男に出会ったことはない。


 だから恋愛には興味がなかった。


 能力に目覚めた段階で、島に敵らしい敵はおらず、恵まれた体格に加えて圧倒的な発育の良さ故に、男の視線は鬱陶しく、告白してくるような男は問答無用で叩きのめしていた。ヒーローも目指していなかった。なにも目指していなかった。


 ただ、力を持て余していた。


 しかし、自分より強い女、巫女田カクリに出会い、心服した。地球上に並び立つものなどいないであろう力を持ちながら、まだその上を目指している。その姿に憧れて、ヒーローになると決めて、すんなりとヒーローになった。


 けれども、その期間はあまりに短かった。


 能力が弱まったきっかけはわからない。


 弱まったと言ってもそれは主観的なものでヒーローには十分だと言われたが、カクリの背中を追えないのなら意味がないと引退を決めた。教師になりたくなっていた。ヒーローを育てたいというよりは、もっと普通の意味での教育をしたい気持ちのつもりだった。


(でも割り切れてはいなかった)


 強くなる可能性を見過ごせなかったのはヒーローへの未練だろうと今は思う。何人かの教え子を潰した。弱まった自分相手で潰れる程度ならヒーローにはなれない。そう思っていたが悪いことをしたと妙に感じる。


(心に余裕ができたせい?)


 伊佐美は嫌な自分を感じる。


(強くなれなかった心残りを押し付けたから?)


 正生に出会って、こうも満たされた気持ちになっているのは、自分より強くなってくれる男という確信があるからだった。白い獣に押し倒されたときにそれをハッキリと認識できた。そして普通に抱き合ってその気持ちはさらに強くなっている。


 力を与えられるほどに有り余る力。


(それを直に感じて、だから)


 カクリに出会ったときと同じだ。


 生まれつき強かったのに、それが余りにも自然すぎて自分の強さに満足できていない。全盛期の力を取り戻して感じたのは、自分の力が限界に達しているということだ。


 伸びない。可能性がない。


 カクリや正生とは違う。


 圧倒的な力ではあると自分でもわかるが、たぶん自分が数年前の自分に出会ったとしても教え育てたいとは思わない。自分より強く、今よりも伸びる、そんな力を求めていたのだ。


(正生は、今日、甘根館に戻るだろうな)


 帰したくない。


(なんとかもう一泊させられないか)


 帰したくない。


(それこそテスト勉強をさせるとか教師の立場を利用することができないか。自分よりはクッキーやすみの方が勉強を教えるのには向いている事実はあるにしても、学園に近いアドバンテージを生かせるチャンスはテスト期間の今こそ)


 帰したくない。


(こっちばかり気持ちよくさせられて)


 帰したくない。


(独占したい、なんて)


 帰したくない。


(正生の一番になりたい、なんて)


 帰したくない。


(すみなら、言うだろうな)


 帰したくない。


(すみは、素直なんだ。性欲が強いとか、そんなの十六の、八つも下の男に言えるか? 発情したオバサンとか思われるんじゃないか? オバサンって思ってたらボコボコにしてやるが)


 帰したくない。


(そういえば二十四、って言ったっけ?)


 帰したくない。


(結構、年上かもしれないよな)


 帰したくない。


(どうなんだろうな。今はともかく、六年後、三十になったら。正生やあさまは二十二、クッキーは十五、ルビアが二十五? 出番ないか?)


 帰したくない。


(今、自信を失ってる場合じゃない)


 帰したくない。


(今、虜にしなきゃ)


 帰したくない。


(ずっと、朝から同じことを考えてる)


「ふぅ」


 高等科の職員室に戻って、伊佐美は溜息を吐く。生徒はテストが終われば帰れるが、教師には仕事が残っている。帰したくなくとも、帰すしかない。まさか仕事を放り出せない。


(職員室に、来ないかな)


 顔だけでも見たい。


 顔くらい見せてもいいはずだ。


 それこそ、今朝まで抱いていた女に男ならなにか言うことぐらいあるだろう。そういう優しさとマメさを発揮してこそ維持されるのが一夫多妻のはずだ。


(いや、だからこそ、少なくとも大学部にいるクッキーには顔を見せに行くのが先か。仕事が終わるのを待っているかもしれない。それで、ルビアやすみに顔を見せるために帰る、と)


 帰したくない。


(独占欲の強い女は嫌われるかな)


「球磨先生」


「はい」


 不意に声をかけられて、振り返る。


「あ、吉備津先生」


 背後に立っていたのは中等科の教師で、教育実習を共にした吉備津早水きびつはやみだった。音楽と体育であまり接点はなかったが、気が弱い性格で男子生徒にからかわれていたのを助けて、互いに仕事の悩みなどを語り合うようになった。


「少し、いいですか?」


 早水はなにか言いにくそうにしている。


 職員室でははばかられる内容なのか。


「ええ、もちろん」


 伊佐美はそう答えて、近くの会議室へ向かう。


(出ている間に来るなよ、正生)


「どうしたの?」


 少しくだけた調子で言う。


「うん、それがね……」


 早水は扉に内側から鍵をかけて答えた。


「全先正生くん、旦那さんになるのよね?」


「そう、だよ。メールした通り」


 正生の名前が出たことで伊佐美は動揺する。


「あの、今日、試験監督してたんだけど」


「うちのクラスに来たんだ、早水」


「彼、いじめられてない?」


「いじめ?」


 早水の口から出たのは、割と突拍子もない内容だった。だれが異星の王子を殺して不起訴になった男をいじめると言うのか。どんな恨みや人間関係でそうなると言うのか。そもそも正生はこの島に来てからほとんど学園に通っていない。クラスに馴染む間もなく色んなことがありすぎた。


「それは、アレだ?」


 伊佐美にもおよそ察しはつく。


「ランキング一位だと、どうしても敵意を向けられたり、嫉妬されたり、雰囲気が悪くなると言うか、前の五十鈴のときは、周囲を呪ってたからさらに酷かったけど、そういう」


「違うと思う」


 だが、早水は首を振った。


「あれはいじめよ」


「……」


 断言されると、心配になった。

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