第9話お前を、食べたい。

『午後三時ごろ、暴走したトラックが下校中の小学3年生の少年をはねる事件が発生しました』

俺はぼぉっとテレビで夜のニュースを眺めていた。

何をしても腹の虫は収まらない。

いや、加賀美といれば余計に腹が減る。

だから俺はあいつが帰ってきてからずっと部屋にこもっている。

幸い食事はインスタントでたらふく食ったので問題はない。

『少年はトラックにはねられ5メートルも飛ばされたのことですが、奇跡的に無傷で済みました』

何もやることがないのでこうしてテレビを眺めるだけだったのだが、ふとこのニュースが俺の気を留めた。

「トラックにはねられて無傷って…不死身かよ」

『この少年が背負っていたランドセルには無造作に体操着や、給食当番用の割烹着がつめられており、それがクッションになったと思われ…』

「はぁ…それだけで無傷で済むか?」

それはよっぽど幸運なのだろう。

ランドセルから車に突っ込まれて、着地もランドセルから。

「はは…俺なんかより、よっぽど幸運じゃねぇかよ」

俺はこうしてよくわかんねぇ空腹でうなされてるってのによ。

なぁ神様よ、いるんだったらこいつみたいに俺も救ってくれよ。

「…って、神様なんているわけねぇか…」

ハハハ、と自嘲的な笑みをこぼした瞬間だった。

俺の部屋の扉が開いたのだ。

まさか神様がやってきたのか、と思ったが違った。

やってきたのは加賀美だった。

けれど、その姿は今の俺にとっては完全に毒だ。

「お兄ちゃん、お風呂、入らないの?」

風呂上がりのせいで健康的なピンクに染まったからだ、それを覆うのはバスタオル一枚。

濡れた髪が艶やかに輝き、身体から上る湯気が卑猥に映り、そして鼻孔をくすぐる石鹸の良い香り。

バスタオルから少しだけ成長した谷間がまるで誘うように覗いているではないか…

「ちょ…!?な、なんて格好してんだよ!?」

「え?暑かったから」

確かに風呂上りは暑いからな…それに今は夏だ、風呂上りはさぞ地獄のような暑さだろうよ…ってちげぇよ俺。

あぁ、やばい、いろんなことが重なって変になってる。

けどこれだけは言える、俺の腹は、いや、本能は、獲物が来たとさっきから思い切り叫んでいる。

「お、お前なぁ…たとえ俺しかいないとしてもその恰好ははしたないだろ…」

死にかけの理性をフル動員して、俺は平静を装う。

けれど口内から次から次へとよだれがあふれ出る。

「お兄ちゃんしか見てないしいいの!」

「あのな、俺も男なんだぜ?」

思わず口が滑ってそんな言葉が出てしまった。

理性、頑張ってくれよ…

「でも、お兄ちゃんだよ?」

加賀美の純粋な瞳が俺に突き刺さった。

こいつの前では俺は男の前に兄なのだ。

決して自分を女性として見ない、ましてや食べてしまいたいと思っているわけがないと信じている。

けど、実際はどうだ。

俺の鼓動は早まり、飢えた獣は叫んでいる。

早く、食えと。

「…」

気が付けば俺は立ち上がり、加賀美に歩み寄っていた。

何か感じたのだろうか、後ずさる加賀美。

だが俺の腕は自然と彼女を逃がすまいと壁際に追い込んでいた。

「お、お兄ちゃん…?どうしたの…?怖いよ…」

「ごめんな、加賀美…俺、お前が望んでるいい兄ちゃんじゃないんだ…」

恐怖で震える加賀美。

その時、彼女を覆っていた一枚の布が、はらりと落ちた。

湯冷めしてしまったのか、少し透き通った白い柔肌が露呈される。

その刹那、俺の理性は完全に殺されてしまった、俺のうちに潜む獣に食い殺されたのだ。

「加賀美!」

俺は奥から湧き上がる衝動に逆らうことなく、彼女を押し倒した。

小さな彼女は俺に抵抗する力もなく、なすすべもなく俺の下で怯えるしかない。

「ね、ねぇお兄ちゃん…変だよ…いつもの、お兄ちゃんじゃない…」

「ごめん、加賀美…これも、いつもの俺なんだよ…」

「どういうこと…?冗談は、やめてよ…面白くないし、怖いよ…」

「本当に、ごめん…けどな、俺はずっと我慢してたんだ…ほんとの俺は、お前のこと食べたいって、ずっと思ってた」

自然と溢れる唾液は、ついに堰を切ったように彼女の柔肌へ零れ落ちた。

唾液がつつぅと彼女の真っ白な肌を汚す。

それと同時に、びくり、と彼女の身体がはねる。

「なぁ…加賀美…お前、言ってたよな?俺にだったら食べられていいって…」

俺は彼女の耳元でささやいた。

石鹸の匂いに混じって、本能をくすぐる女の子の匂いが俺の鼻をついた。

甘くて、優しくて、男を惑わす最高の匂いだ。

「だから、兄ちゃんに、食べさせてくれ…」

「あがぁぁぁぁぁぁぁ!」

我慢できずに加賀美の左肩にかじりついた瞬間だった、今まで聞いたことのない彼女の叫びが、俺の鼓膜を震わせた。

映画やドラマで聞く痛みの叫びじゃない、本物の痛みの叫びだ。

「ごめん…加賀美…」

歯を立てて加賀美の肩の肉を抉り取った。

そしてくちゃり、くちゃりと咀嚼していく。

「!?」

なんだ、これは。

口の中で、加賀美の肉がまるでスパークを起こしたように感じる。

うまみが弾けるといえばいいのか。

極上の肉の蕩けるような味わいとともに、弾力のある筋線維から噛めば噛むほどうまさがあふれだしてくる。

ドロッとした脂が、俺の空腹を刺激する。

噛むたびにあふれる血液が、俺ののどを潤す。

今まで食ったどれとも違うおいしさだ。

「うまい…」

「ひどいよ…お兄ちゃん…何…するの…」

けど、このうまさも加賀美の泣き顔で背徳に変わる。

俺は今、何をしたのか、常識がふっと我に返る。

「ご、ごめん加賀美!痛かったよな?す、すぐに手当てしてやるから…」

そういって加賀美の引き裂かれた肩を見た。

どくどくと脂混じりの血が滴り、てらてらと輝く肉がはみ出している。

それに、赤い肉に混じりべったりと汚れた骨が、顔をのぞかせていた。

「ごくり…」

俺は思わず喉を鳴らした。

一口、もう一口なら大丈夫だろう。

獣が耳元で囁く。

「ダメだ…俺はもう加賀美を食べない…」

「ぐぎぃぃぃぃ!んんんんっ!!!お…お兄…ぢゃ…ん…!」

「…え?」

俺は、さっき何を言った、何をした?

俺はさっき、加賀美を食べないといった。

けど俺は、さっき加賀美を食べた。

言葉と行動の矛盾、意識と無意識の争い。

結局勝ったのは、本能だった。

「お…お兄…ちゃ…ん…やめ…て…」

痛みのせいで意識がもうろうとしている加賀美に、俺はまた噛みついていた。

「はぁはぁ…ごめん、加賀美…ごめんな…」

今度は、腹に噛みついていた。

柔らかな腹の肉は簡単に割け、中に収めていた臓物がもにゅりと吹きだした。

ぬらりと怪しい光沢を放つそれは、まさに極上の輝きとなり俺の目に映った。

「お兄ちゃん…私…死んじゃ…う…ごほっ!」

加賀美の口から血があふれ出た。

もったいない。

「加賀美…」

口から漏れた血を舐める。

唾液と混じったそれは普通になめるモノよりもまろやかで、品のある味わいと化していた。

「はぁはぁ…お兄…ちゃ…ん…!」

どがっ!

腹に走る痛みとともに俺は地に転がった。

火事場のバカ力、最後の抵抗というべきか。

俺は加賀美に蹴り飛ばされていた。

その刹那蘇る理性。

けれど、もう遅い。

彼女は腹から臓物が飛び出ている、それに血も大量に噴き出している。

たとえ今から救急車を呼んでも失血死してしまうだろう。

「ごめん…!ごめん加賀美…!俺…ダメな兄ちゃんだ…!」

ここにきて、俺の瞳からは涙がこぼれた。

もう遅いというのに。

今さら泣いたって変わらない、もう、運命は変えられない。

「…お兄ちゃん…」

けれど、あふれ出る涙を加賀美はぬぐった。

熱を失い始めたその指で、優しく。

「いいよ、お兄ちゃん…」

「え…?」

「私を…食べて…」

加賀美のその言葉に、俺は目を見開いた。

今まで食われることを拒んでいた加賀美が、どうして…

「さっきは…いきなりで…びっくりしちゃった…だけ…だから…」

「…は?なんだよ、それ…」

「お兄ちゃんになら…食べられていいって…それ、ほんと…だから…だから…食べて…いいよ…」

とぎれとぎれの言葉、けど、そこに偽りがないということは長年付き添ってきた俺だからわかることだ。

「でも…」

(でもなんだっていうんだ。食べたって食べなくたって加賀美は死ぬんだぜ?)

頭の中の化け物がささやく。

彼女の最大にして最後の献身ですら、俺は踏みにじってしまったのだ。

「いいの…お兄ちゃんが…つらそうなの…知ってたから…私、わかるんだよ…?だって…兄妹だもん…お兄ちゃんが…何に苦しんでるかくらい…わかるもん…」

「うわぁぁぁぁぁぁ!!!!」

そのあとのことは覚えていなかった。

あふれ出る涙、飛び散る血液、満たされる空腹。

もう何が何だか分からなくなって、俺はただの獣と化してしまった。


気が付けば、俺の目の前には赤黒い水たまりと、そこに横たわる骨と、わずかな肉片のみ。

「はは…」

血だまりに真っ赤に汚れた俺の自嘲的な笑みが反射する。

やってしまった。

後悔と、満足感が入り混じる。

「俺、どうしたらいいんだろう…」

このまま警察に出頭でもしようか。

頭のおかしい変人として、俺は世間から叩かれるんだろうな。

そうなったら家族にも迷惑かけるんだろうな…

けど、ま、いっか…もう、どうでも…

「加賀美…ごめんな…」

失ってから気づく加賀美の大切さ。

俺は加賀美が好きで、生きる糧だった。

けどその彼女はもう俺の腹の中、この世にはいないのだ。

なら俺は何を頼りに生きていけばいいのか。

あぁ、あんなに優しい加賀美を、なんで食ってしまったのだろうか。

「ああなる前に、首でもくくればよかったんだ…」

後悔してももう遅い。

俺は、もう何もできないのだから。

「…お兄ちゃん。そんなこと言っちゃ、ダメだよ」

「…はは、幻聴まで聞こえてら…こりゃもう、末期だな」

「お兄ちゃん、ちゃんと私のこと、見てよ」

その刹那、ぎゅっと、何か温かいものに抱きしめられた。

その温もりは、すぐにわかった。

誰よりも大切な、妹のモノだったのだから。

「…加賀美?」

「ただいま、お兄ちゃん」

そこにいたのは、何事もなかったかのようにあっけらかんといつもの優し気な笑みを浮かべる、加賀美だった。


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