幼い海鳥はやがて翼を広げる。
建国から長い歴史を持つこの国は、現在第十二代国王であるカイゼル・コーネリウス・アーテイルによって統治されている。軍国主義的な人物であった先代国王の死と共に終結した戦争の後、平和を愛する王として迎えられた人物だ。
齢七十とは思えない背格好の良さ。威厳ある白い髭と、未だ輝きを失わないその翡翠の瞳は、まるで心を射抜くようだ。今、その眼光は、フレイとウィルの元へ向けられていた。
「……どういったご用件でしょうか」
やっと一つ、かすれ声で言葉を搾り出したウィル。カイゼルは視線をピクリとも動かさない。穏やかな表情の中で、その瞳だけが妖しかった。
沈黙が続く。問いかけに返答は無い。アーテイル城の国王の間は、いまや静寂に支配されていた。質素ながらも美しさを感じさせる調度品と、吊り下げられたシャンデリア。絵画の中からこちらを見る先代国王たちの眼は、魔法によって生気を伴い動いている。大きく開けた窓は開放感を与えているはずなのに、二人の心に迫るのはただ圧迫感のみだった。
永遠とも思われる時のなかで、カイゼルはようやく口を開く。
「ほほ、そう構えずとも良い。なにも、首にするとかいうわけではないんじゃし?」
「えっと……?」
瞬間、威圧感が解ける。フレイは思わず疑問符を浮かべ、その隣で、ウィルは大きく嘆息をついていた。
「国王、あまり私たちをからかわないで頂きたい」
「はっは、すまないな。ついつい、悪戯心での」
試されていた、と気付くのに随分と時間が掛かった。見れば、先ほどまでの眼光は失せ、今あるのは温かみを湛えた瞳だけだった。思わず、溜息が漏れ出す。
「若いの、驚かせてすまなかったな。今日は君にお願いがあるのだよ」
「俺……あ、いや、私に、ですか」
普段使いの言葉が漏れて、慌てて訂正する。顔に熱が集中していき、カイゼルはその様子にまた笑みをこぼしていた。そっと、フレイの肩に手を置く。
「なに、楽にして良い。……少し、話をしたいんだが、いいかね?」
そういうと彼は、返答を待たずに語りだした。
「――もう二十年近く前になるのか。長きに渡る戦いだった。我らも総力戦であったし、敵国……アレステリアも、我々との戦いに注力していた。しかし、それも終わりを告げた」
「疲れたのだ。もう、疲弊しきっていた。父はそれでも、軍を動かそうとしていたが……。亡くなってから、戦争が終わるまではとても早かった。あちらから終戦が持掛けられ、我らもそれに応じて、そして、我がアーテイルは軍を解体した。反乱が起きたのはその頃だ」
「ガリア反乱、ですか」
そうだ。カイゼルはフレイの言葉に頷く。
「フレイ、君の両親の事を私は良く覚えている。……惜しい人を亡くした。ガリアはついに敗走し、軍は解体された。新設された近衛兵として、才ある両親の息子が、君が入るとはな」
「――もう、あんな思いはごめんです。父も母も、大切な人達が傷つくなんて、もう、もう、見たくない。戦いなんて……」
「そうだろう。――私も同じ気持ちだ。戦争は、繰り返してはならない」
フレイは表情を翳らせる。俯き、その拳には力がこもる。カイゼルはそっとフレイの肩を抱き、強く戒めるように呟いた。そして、だが、と顔を明るくした。
「良いこともあった。私が穏健派であることを知った諸国は、このフェアリア大陸を、そしてそこに住まう民を、国を守り、平和を保つべきだと一致したのだ」
「方々が争いに満ちたあの頃から二十年が経過して、跳梁跋扈していた魔物や悪人は勢いを削がれてその脅威を潜めた。平和への一歩を踏み出した――……小さな、火種を残して」
カイゼルの言葉に、フレイはいぶかしむ。火種とはなんです? ……そう言葉にしようとしたとき、ウィルの手が鼻先を覆い押しとどめられ、しぶしぶ姿勢を正す。カイゼルはそれを見てもそれ以上語ろうとせず、窓際に近づきながら、再び口を開いた。
「本題に入ろう。我がアーテイルの姫、その
「だがな、影、デコイとはいえ外見上は姫だ。まかり間違って何かあっては問題になる。ほれ、ここまで言えば、大方察しはつくだろう。フレイ・マキナ、君を、忠実なる護衛として旅に同行するよう依頼したい。期間は……」
「っと、国王、ご冗談を。フレイはまだひよっこで……!」
そこで声をあげたのはウィルだった。だが、カイゼルはそれを笑顔で受け流す。
「そのひよっこを、自分の次に腕が立つと言って褒めていたのは、誰かな?」
「……いえ、ですが。それほどの大役なら、私が……」
「ならん。君は、後進の育成に回ってもらわねば困るからな」
そこまで言われて、ウィルは黙りこくってしまった。カイゼルもまた、同じように沈黙を貫いている。フレイはどうもその様子にいたたまれなくなって、そして、ウィルが自分に対して抱いている期待にくすぐったさを感じて、思わず口を開いていた。
「俺で、その、よければ。精一杯頑張ります」
「フレイ……!」
「良い返事を頂けたようで何より。なら、早速会いに行こうじゃないか」
「会うって……まさか」
こくり、カイゼルは小さく頷く。その隣でウィルは「どうしてまたこんな早くに……」と呟いている。フレイにはそれが一体何を指し示しているのか分からないまま、カイゼルによって追い出される様に別室の前へと案内された。
そこは、王の間より少し奥。簡素ではあるが細かな装飾の施された扉であり、中央には百合の紋章が――三方向に頭を垂れる百合と、それを囲うオリーブ――刻まれている。
「こういうのは、早いほうがよいからの」
ウィルはその後ろで頭を抱えており、フレイもまた、同じような気分であった。
――躊躇うことなく、カイゼルが扉に触れる。特定のマナの流れでのみ鍵が開錠する仕組みだろう、ノブや蝶番は見当たらない。やがて、ぎぃ、と重苦しく音がして、ゆっくりと扉が奥へと開いていく。フレイからは、中の様子が良く見て取れた。部屋は白を基調とした落ち着いた雰囲気であり、中には一人の女中と、二人の、鏡写しのような、瓜二つの女性がいる。一方は王女で一方は身代わりだ、分かっているのに、どちらが本物か見分けがつかない。だが、その美しさは見とれるほどで、それすらどうでも良いとさえ考えさせた。つい、視線を落とす。
「お父様」
「おやリリィ、百合の間にいたのか。例の客人だよ。……フレイ、入りたまえ」
「――は、はっ」
ウィルは中に入ろうとしなかった。フレイは一人、カイゼルの後を付いて部屋に入っていく。皆の目が集中しているようで、なかなか視線を上げられなかった。
部屋の中ほどまで進むと、百合の芳しい香りが鼻孔を衝く。繻子の重なり擦れる音が耳朶を叩き、俯くフレイの脳に膨大な情報を叩きこんでいた。
「あなたが、お噂の優秀な近衛兵士ですね。私が、この国の王女、リリィ・コーネリウス・アーテイルです。……もうひとりの私を、どうぞ、よろしくお願いします」
頭上、王女から優しく声がかかる。緊張はややほぐれるが、しかし視線を上げることが出来ない。近衛兵であれど、王女にこれほどまでに近づける人間などそうそういないのだ。だがカイゼルはそれを見て良しとしたのか、閉じていた口を開く。
「リリィ、もう良いだろう。間もなくエルフとエルダーフラワーの使者が来るから、そろそろ支度をなさい。ナスターシャ、君も下がりたまえ」
はい、お父様。その言葉を最後にして、王女とナスターシャと呼ばれた女中は百合の間から姿を消した。カイゼルはそれを見届けると、もう一人の王女を手招きし、フレイの側へ寄せた。
「こちらが、君の護衛対象だ。……面をあげろ、フレイ。さぁ」
「はっ。……失礼、します」
顔を上げる。視線がぶつかる。翡翠色の瞳だった。瞬間、心臓がひときわ強く跳ねあがる。どこからか風がやさしく吹いて、飾られていた一輪の百合の花を揺らす。視界の端で花弁がふわり舞い落ちて、フレイはようやく我を取り戻し、乾いた喉で声を絞った。
「――フレイ、と申します。フレイ・ケイレス・マキナ。この命に代えても、剣として、盾として、貴女を、必ず、お守りします」
流れるように、膝を立て、剣を抜き放つ。顔の前でそれを構えると、ひんやりとした冷気が頬を撫でる。今フレイの中に、何か大きな感情の波が打ち寄せてきていた。それがはたして何なのか。ただ果てしなく大きな心臓の鼓動と、高揚感だけが彼を支配していた。
「さぁ、リリィ。……いや、ユーリ。挨拶をしなさい」
「はい、国王様。――フレイ」
美しい声が上から降り注いでくる。視界の端に映る長い髪は、瞳と同じような翡翠色をしている。やわらかな声色が、ほんの少し、フレイの緊張を解いた。
「あまり緊張なさらないで下さい。私は、ユーリ・シャーロット・ワトソン。私の我が儘であなたを付き合わせることになって、申し訳ありません。」
「多くのことを学んで、再び戻ってくる為に。独りだった私を育ててくれたこの国に、恩返しをする為に。フレイ・マキナ、あなたの力をお借りしたく思います」
「――……仰せの、通りに」
そこまで言うと、ガタン、閉じられていた扉が開き、ウィルが所在無げに顔を覗かせた。
「挨拶は終わったか? 堅苦しいのは苦手なんだ、行くなら早く旅支度をしてくれ」
そう言って、頭を掻く。ユーリが小さく微笑んで、なら、私も支度をします。と奥へ下がる。フレイもまた、ひとつ礼をして、ウィルの側を通り抜けるように姫君の部屋から出る。ほんの少しだけ、名残惜しいという感情が、フレイの後ろ髪を引いていた。
「すぐ会えるから、そのお預けされた犬みたいな顔をやめろ」
「そんな顔、してないよ」
途端、ウィルがニヤニヤと話しかけてくる。あくまで平然と返すが、未だ心臓は強く胸を打っている。一つ深呼吸をして、支度をしてくる、と告げた。
「人目を避けて城の裏から出る。今から一時間後に、東の裏門で待ち合わせだ。いいな」
「あぁ、分かった」
フレイは手早く一つ返事をして駆けていく。
ウィルはじっと、フレイの背中を目で追っていた。少しずつ小さくなる背中と裏腹に、自分がフレイに抱いている期待感が、どれだけ大きいのかを知る。
なによりも、長い間手塩に掛けて、愛を込めて接してきた息子を手放すことになるのが、どこまでも深く、ウィルの心に影を落としていく。
「まぁ、親離れ、子離れ、ってとこだろう」
そう言うウィルの表情は、どこか、寂しげだった
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