第2章 崩れなければ、歪ではない④
十一月六日。
午前六時、私はいつもとは違う朝を迎えていた。
朝の冷え込みに体を震わせながら起床し、紺色のガウンを羽織って寝室を出る。すると廊下にはコーヒーの匂いが漂っていた。
「…………」
どれほど自己嫌悪を重ねたところで何かが変わるわけではない。多少、寝起きの血圧が改善されるくらいだろうが、もっとやりようはいくらでもある。
欠伸の代わりにため息をつき、私は階段を降りた。
リビングへ通じる扉を開くと、そこに現れた世界はとても奇妙なものだった。
キャメルのブレザーを着た少女が男物のエプロンをつけてキッチンに立っている。
まるで異世界に迷い込んだみたいだなと思い、小さく笑った。しかしその場合、迷い込んだのはどちらだろう。自分か、それとも目の前の少女か。
「あ、おはよう……」
「おはよう」私は不思議な感覚を抱きながら挨拶を返し、ダイニングテーブルに着く。するとそこにはご丁寧に朝刊が三紙並べられていた。コーヒーも淹れ立てで、おいしそうな湯気とともに香りを運んでいる。
「簡単なものでよかったら、作ったけど……。あ、勝手にいろいろと使っちゃったけど……」
「ん、ああ……」
私は適当に相槌を打ちながら、東風杏の全身を眺めた。彼女が身を包んでいる制服は、有名な中高一貫の女子校のものだった。
「家に帰る決心でもついたか?」
私が訪ねると、東風は焼けたばかりのハムエッグを皿に移してから、小さく首を振った。
「家には……。でも学校には行かないと……」
東風が着ている制服の学校までは、ここから九十分以上は優に掛かる。通学手段も電車ならば、それほど問題にもならないだろう。気になるのは近所の目だが……。
「まあ、学生の本分は勉学だからな」
「うん……」
私は新聞の一面を眺めながら、淹れ立てのコーヒーを頂くことにした。
「とりあえず、何の気紛れか君をここに泊めたが、単なる気の迷いだ。そう長く続けるつもりはない。ほとぼりが冷めたら家に帰るんだ、いいな?」
「…………」東風は返事もせずに食卓に着く。
思春期の子供を持つ親の大変さが理解できた気がする。
ため息一つを犠牲にして、私は朝食を取ることにした。朝からあれこれと考えたくはない。中高生の行動の大半はその場の思い付きによるものだ。どうせすぐに飽きるか、考えが変わるだろう。
「あ」
「ん?」
東風が声を上げたのでそちらを見ると、彼女は私の皿を見つめていた。私が視線を戻すと、そこには黄身の潰れたハムエッグが横たわっている。
「何だ……?」
「黄身……」
「黄身? ああ、それが……、どうかしたのか?」
「潰した……」
「ああ……。潰さないと食べられないだろう?」
「…………」
東風は再び口を閉ざしてしまった。どうやら彼女の流儀には反する食べ方だったらしい。最初に黄身を潰したのがまずかったのだろうか……。
「学校は何時に終わるんだ?」
どうして自分が気を使わないといけないのかと自問しながら、私は東風に話題を振った。
「十八時……」東風は白身とハムの部分をナイフで切りながら短く答える。
「意外に遅いな。部活か何かか?」
「今日は委員会の仕事があるから」
「そうか……」私はコーヒーを口許に運ぶ。濃い目に淹れられているからか、苦みが強かった。
「そっちは?」
「え?」
「仕事、するの?」
口許こそ言葉通りに動いたが、私を見つめる少女の目は、「人を騙すの?」と、そう尋ねているようだった。
「いや……」私は何と答えたらいいかわからずに、少し口籠った。しばらくは仕事の予定はなかったが、だがそれを素直に言うのも憚られた。
嫌な目だ。
真っ直ぐで、何でも見透かしているかのような、深い瞳。吸い込まれそうで、溺れそうで、息が止まるほどの美しさを兼ね備えていて……。
まったく。
ただの少女に……、勝手に幻影を重ねては狼狽える。
つくづく、女々しい自分を嫌になる。
私はバターも塗らずに、トーストを齧った。
長いような短いような、とにかく気疲れする朝食を済ませ、手早く洗い物を片付けた。まさか年端もいかない少女と並んでキッチンに立つなど、夢にも思うまい。まるで想像していなかった絵ではある。客観的に、滑稽に映っているのだろうなと考えると、力ない笑みがどこからともかく漏れてきた。
シンクの三角コーナーの生ごみを取り、水気を絞ってから、自治体指定の可燃用ごみ袋へ入れる。今日は週に二回ある燃えるごみの日だった。
各部屋のごみを二袋にまとめ、私が玄関で靴に履き替えているときだった。
「…………」
鞄を持った制服姿の東風がごみ袋の一つを手に取った。
「何だ……?」
「私も出しに行く」
「いや……、いい。出しておくから。学校に遅れるだろう?」
私は慌てて東風の持っている袋を取り返そうと手を伸ばした。しかし、東風は手を引っ込め、袋を自身の後ろにやる。
「私も出しに行く」
そしてもう一度同じ台詞を繰り返した。
「何でそう、頑固なんだ……」
「泊めてもらうからには、できることは手伝う」
「いや、いい。いいから、そういうのは」
「だめ」
私は思わず舌を鳴らした。
律儀な彼女に腹を立てても仕方がないが……。
「いいか? 君と一緒にいるところを見られたら面倒になることぐらい、わからないわけじゃないだろう? いや、一緒にというか、見かけない顔の君だけでも、充分厄介なものだけどな。それに……、意固地になるほどのことじゃないだろう、ごみ出しなんて」
「私も出す」
「あれか、一宿一飯の恩を仇で返す気か? 家主の意向には従わないつもりか? 君は何だ? どういうつもりだ?」
返事どころか、私が言い終えるのを待たずに、東風は玄関の扉を開けて外に出て行ってしまった。
私は彼女の背中を見つめながら、ため息をつくので精一杯だった。
「振り回されているな……」
もう一つ重ねる。今度は自分自身に向けたものだった。
私も燃えるごみを持って外に出た。秋特有の高く青い空に、遮るもののない光度の強い太陽が横から照り付ける。あまりの眩しさに私は目を細めながら、息を吐いた。寒さで吐息も白くなる。
軒先のところで燃えるごみの片割れを持った少女がこちらを見つめながら立っていた。ごみの集積場所がわからないのだろう。先に出て行っておきながら、勝手なものである。
私は東風に追いつき、目線で示してやった。
「こっちだ」
「…………」
幸い、可燃物に限り担当者が存在しないため、町内の人間と出くわさずに済むことも考えられる。とは言えこのご時世、どこの人間も病的なほど目敏くなっている。どこで何を見て、どう思っているのか、わかったものではない。
まずは誰にも会わないことを祈りながら、もしものときの言い訳を考えつつ、町内の可燃物集積所にごみを出した。集積所にはまだ二袋しかごみは出されていなかった。回収は午前九時過ぎなので、時間的にはまだ二時間以上も余裕がある。寝坊が多い地区でもないが、特別早起きというわけでもなかった。
防護ネットをきちんと被せ、誰かに見られる前にその場からすぐに離れようとした。が、どうも間に合わなかったみたいだった。
朝から陽気な声が、背後から掛けられる。
「おはようございます、朝霧さん」
振り返ると、絵に描いたような五十代の主婦がさわやかな笑顔を振り撒きながらこちらへ歩いてきていた。
「おはようございます」
私が挨拶を返したころには、主婦の興味は見慣れない顔の少女に移っていた。
「あらあら、こんにちは」
知らない相手には時間帯が変わるらしい。恰幅のいい主婦は制服姿の少女をまじまじと見つめると、私の時よりも深く頭を下げて挨拶をした。
「こんにちは」東風もそれに倣って頭を下げる。
「あら? あ、ひょっとして、朝霧さんのお知り合いか、何かですか? あまり見掛けないですけど……」
「ええ。親戚の子なんです。ちょっとね、伯母が入院することになったんで、うちで預かることになったんですよ」
「あらぁ、それは大変ねぇ」神妙な顔つきで何度か頷くと、主婦は東風に向き直った。「それじゃあ、心配ねぇ。早く良くなるといいわね」
「ありがとうございます」
「何か困ったことがあったら遠慮なく言ってくださいね、朝霧さん」
「お気遣いありがとうございます。それでは失礼します」
「それじゃあね、お大事に」
私と東風は主婦に頭を下げて、その場から離れた。
主婦と充分に距離が取れたことを確認してから、東風が口を開いた。
「よくすぐに思い付いたね、理由」
私は肩を竦めた。
「詐欺師だからな」
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