第2章 崩れなければ、歪ではない⑤
その日何度か目のため息をついていると、隣から嘲笑とも取れる心配の声が飛んだ。
「おいおい先生、幸せが飛んじっちまうぜ?」
飯島はにやにやといつもの表情を私に向ける。
私は撒き餌をしたついでに缶コーヒーに手を伸ばす。海風に晒され、すっかり冷めてしまっていた。竿を握り直し、リールを軽く巻いた。
「いや、この場合は魚が逃げちまう、か」何がおもしろいのか、飯島はけらけらと笑い、新しい煙草に火をつける。「珍しくお疲れモードじゃん? そんなに疲れたの、この間の
「まあ、お前よりは働いたからな」
「へ。いつもの軽口が出てくるなら、心配はいらないな」煙草を咥えたまま、口の端を上げる飯島。
「心配してくれるのか。いつになく殊勝じゃないか」動きのない浮きから視線を外さずに私は言った。
ときどき、仕事が一段落つくとこうして飯島と二人で釣りに出掛けている。慣習と呼べるほどの頻度ではないしろ、弛緩した時間を体感することは心身にいい影響をもたらしてくれるので、気が向いたときは竿を持って座ることがあった。
今日は空港が見える近くの海浜公園まで来ていた。平日ということもあってか人は疎らである。一番奥の堤防から消波ブロックに下り、適当な場所に並んで座って竿を構えた。
波がブロックに当たって飛沫を上げる。白波に変わり、そして奥からくる新たな波に飲まれていく。そんな足元の様子を眺めていると、贅沢な時間を過ごしていると実感できた。たとえ握っている竿が微動だにしなくとも、充分楽しかった。
しかし、隣の男は違ったらしい。
「んだよ、全然釣れねーじゃんか。先生、場所変える?」
「忙しい奴だな。いいよ、別にここで」
「えー、釣れねーととおもしろくねーじゃん」
「性格的に釣りに向いてないんだよ、お前は」
「こんなの、爺と引きこもりの連中がやるような趣味だろ?」
「非売品の色眼鏡をお持ちのようで」
飯島は不満そうに口を尖らせ、つまらなそうに煙を吐いた。潮風によって白煙も瞬く間に掻き消えていった。
しかし、この場所で釣り始めてから一時間近く経過するが一向に釣れる気配がない。魚を釣り上げられないどころか、まともな当たりさえ来ない現状では、飯島のような特に短気な者でなくとも退屈するのは仕方がないだろう。暇を持て余すぐらいでちょうどいいのだが、それを醍醐味にできるのにはまだ年齢が足りないのだろう。朽ちて老いるようになって、初めてわかることもある。もっとも、そんなことを説教染みた言葉で説明するつもりもなかったが……。
「あーあ、退屈だなー。先生は、よく耐えられるよな、こういうの」
「退屈を楽しめばいいんだよ。忙しい日々を抜け出してきたんだ、のんびりすればいい」
「その割にはため息ばっかついてたじゃん」
「まあな……」思い出して、また一つ重ねた。
「何だよ? 何かあったわけ? 女に振られたとか?」
「いや……。ちょっとな……」
「何、何?」
飯島はどこか楽しそうに、目を輝かせる。人の不幸を肴にいつまでも酒を楽しめるような男だった。
無邪気な顔を向ける飯島に、私は肩を竦めた。
「猫を拾ったんだよ……」
「猫ぉー?」
飯島は大げさに語尾を伸ばすと、今にも吹き出しそうな口の形を見せる。
「買ったんじゃなくて? 拾ったの? 猫を? 何で何で、どうしてまたそんなもんを拾ったんだよ?」
「別に」私は浮きを見つめながら呟くように言う。「ただの気紛れだよ」
「気紛れで猫なんか拾うようなタイプだっけ、先生」
「たぶん、違うだろうな……」
「ははっ、何だよどうしたよ、先生。らしくねーんじゃねーの」
「かもな……」
「で? 猫がどうしたのよ? そんなため息つくほどのことでもないんでないの? 悪さとかしちゃう系?」
「まあ、言うことはあまり聞いてはくれないかな。手を焼いてる」
「ふうん。野良を拾えばそうなるだろうけど。ほんと、何の考えなしに拾ったのかよ」
「気の迷いだからな……」
「先生にしちゃ、珍しく感情的な行動じゃん?」
そうかもしれないな、とどこか恥じるように私は聞いていた。
浮きは未だに沈む気配を見せてはいない。このままだと太陽の方が先に沈んでしまうことだって考えられる。それならそれでも構わないが、きっと隣の男は不満や文句に騒がしくなるだろう。それはそれで面倒だった。
「そういや、次はどうすんのさ?」飯島がリールを巻き上げながら尋ねてきた。食いついていない餌のごかいを見て小さく舌打ちをすると、顔をこちらに向ける。「また振り込めの素人どもを狩るの?」
「まだ具体的には何も決めてはいないが……」
「ま、この間の臨時収入でしばらくはのんびりするのもいいんだけどさー。ガキとは言えヤー公と繋がってる相手は神経使うからなー、たまには違うのやんない?」
「違うの?」
「いわゆる勝ち組って呼ばれる、踏ん反り返ってる連中よ」
「具体的な案でもあるのか?」
「いんや。そこは先生にお任せするとして」
「お前なぁ」
「いやいや、今回は俺っちが前線に立つからさ」
「それはそれで心配なんだがな……。まあいい。それなら一つ、狙ってるところがある」
「お」
「お前の言うところの、勝ち組だ」
「誰、誰?」
「TCグループ」
「TC? え、あのTCグループっ?」
「そう、悪名高いTCグループだ。そいつを狙う」
TCグループは、国内有数の巨大企業TC通商株式会社を中心とした企業集団である。TC通商は日本国内の総合商社第四位を誇り、関連企業では、自動車製造、住宅、金融、航空機、鉄鋼、最近では情報サービスにまで手を伸ばし始めている。この国に住む以上は多かれ少なかれ、何らかの形でこのグループと関わらざるを得ないほどの、巨大な企業集団だ。
「いやいや、先生。ちょっと待って。いくらなんでもでかいって。やばいって」
飯島は慌てたように、釣り竿を置いて立ち上がる。周りに人がいないかどうかを確認して、もう一度私に言った。
「やばいって!」
「だが勝ち組だ」
「そりゃそうだけど。勝ちまくりだよ。奴らは負け知らずだよ。でもやばいって。だからやばいって。TCはまずいよ。マジでやばいって!」
飯島は身振り手振りで事の重大さを伝えようとしているが、なかなかどうしてコミカルな動きになるものだ。あまりの慌てぶりに、見ているこちらは吹き出しそうになる。
「落ち着け。グループ全体を相手取るわけじゃない」
「どういう……、こと?」
「いろいろ下準備がいるからな。また少し老兵の力を借りて……、そこからだな、詳細に練るのは」
「てか大丈夫かよ。そりゃあさ、俺が言い出したことだけどさ、勝ち組過ぎるって」
「挫折の味を知らない連中の方がやりやすいこともある」
エリートほど、失敗に臆病になるものだ。勝ち続けるということは思いの外厄介なもので、経験したことのない屈辱的な敗北を想像しては、それに怯え震えることになる。そんな幻想染みた恐怖は時間と共に膨れ上がり、やがて自分でもどうしようもないほどの化け物に育ってしまう。そうして、飼い慣らせない化け物に、その小さな心を食われるのだ。
「よくわかんねーけど……」一往復だけ首を横に振り、飯島は重い息を吐くと大きく項垂れた。
「人が死を恐れるのと似てるんだよ。未経験ってのは、それぐらい誰にとっても怖いものなんだよ」
「なんかそれはそれで癪に障るよな。エリートにとっての勝ち負けは、俺らで言うところの生死と同じレベルってことだろ? それはなんかなぁ、いくらなんでも惨め過ぎない?」
「偏屈な奴だな。ただの例えだよ」
「んー、まあいいや。じゃあ……、作戦は先生に任せるから。てか、本当に上手くいくんだろうな。失敗したら笑えねーぞ」
「問題ない。今回はお前が前線だからな」私は笑った。
「あー……、そういうことか……」
飯島はつまらなそうに舌を打った。
「そう心配するな。そんな難しくもないし、大きな仕事でもない」
「でも相手はあのTCなんだろ?」
「畏縮は今のうちに済ませておけよ。本番でぽかをやらかされたら、さすがにフォローは難しいからな」
「まあいいよ。先生の天才に任せますよ」
飯島は諦めたように掌を広げると、おどけて顔を歪め、舌を出した。彼はそのまま穏やかな海へと視線を移す。そして怒鳴った。
「つーか、全然釣れねえ!」
「根本的に向いてないよ、お前は」
「ぬぅ……」
「魚も満足に騙せないようじゃ、先が思いやられるな」
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