第2章 崩れなければ、歪ではない③
篠崎に言われるままに、伊佐治と女性は降りた駅の改札を潜り、ロータリーへと出る。そこではタクシーが三台停車しており客を待っていたが、誰も列には並んでいなかった。篠崎はそのうちの先頭車両へ乗るよう、二人に促した。
タクシーに乗り込む際、会社への電話のことが頭を過ぎったが、すべてが片付いてからでもいいだろうと伊佐治は判断した。最悪のシナリオは回避できただけで、自分が助かったのかどうかはまだ判然としない。それでも不思議と伊佐治の心は落ち着きを見せていた。
対して、女性の顔は蒼ざめている。怒りで顔全体が紅潮していた先ほどとは正反対の様子を見せていた。
篠崎と女性は後部座席に、伊佐治は助手席へと乗り込む。篠崎が禿げ上がった五十代半ばと見られる運転手に目的地を伝えた。車はゆっくりと発進し、ロータリーから大通りを抜け、細い県道へと入った。
車内では誰も口を聞かなかった。ただ鈍重な空気が漂うだけ。規則正しいウィンカーの音が、やけにうるさく感じられた。運転手がルームミラーを通して後部の女性を気にしていたが、それも最初だけで、しばらくすると運転に集中するようになった。
伊佐治は今すぐにでも話を聞きたかった。それに、女性が怒りで取り乱していない状態ならば、こちらの弁明にも耳を傾けてくれるかもしれないという期待もあった。
伊佐治はとにかく誤解を解きたかった。たまたま篠崎が助けてくれたから良かったものの、一時は本気で死を決意するほどに追い詰められたのである。早く自身の潔白を証明し、いつもの日常へ戻りたかった。
車は街の郊外へ出る。田畑が広がる直線を進みながら、綺麗に舗装整備されたばかりであろう丘を登っていった。色付き始めた銀杏並木を眺めていると、車はさらに細い道へと入る。周りは人の手が加えられていない木々達が伸びており、原生的な印象を与えていた。古びた電柱とぼろぼろに折れ曲がって意味を成していないフェンスぐらいしか人工物は見当たらない。路面も、アスファルトではなく、轍の深い砂利道に変わっていた。
どこへ連れて行かれるのだろうか。
多少の不安が伊佐治の中に広がったものの、痴漢容疑で逮捕、起訴されることを考えればそれより酷くなることはないだろう。どこへ何をしに行くのかはわからないが、伊佐治は篠崎に任せることに決めていた。出会ってまだ一時間も経っていないが、すでに大きな信頼を彼に寄せている。それは、自分でも今までに感じたことのない、不思議な感覚だった。
あれほど感情を剥き出しに叫んでいた女性も、車に乗り込んでからは言葉を一言も発していない。暴れたりすることもなく、俯き加減に大人しく座っている。そこに、先ほどまで激昂していた姿はない。顔は蒼白く、生気が失われてしまったかのようだ。強い化粧気が、それに拍車を掛けているようにも見える。
途中までは篠崎に対しても噛みついていた。それが駅員が近づいてきて、一変した。
篠崎に何かを言われたから?
あの窮地から助けてくれた篠崎はまるで魔法使いの様だったが、だとするならば彼女に掛けたそれは、どんな魔法の呪文だったのだろう。
駅員が近づいてきた際、篠崎は彼女に、『困るのはあなただと思いますが。どうしますか?』と言っただけ。それ以外に特別なことは何もしていない。少なくとも伊佐治にはそう見えた。
女性は執拗に、伊佐治は痴漢だと主張していた。伊佐治にしてみれば身に覚えのない言い掛かりではあったが、あまりに突然の出来事と女性の剣幕に気圧されてしまい、ろくな反論が出来ずにいた。そこへ現れたのが篠崎だったが、彼は最初、中立的な立場を取っており、女性の敵でも、ましてや伊佐治の特別な味方だったわけではない。にもかかわらず、女性は彼の意見を何一つ認めようとはせず、痴漢は伊佐治であるとまるで譲らなかった。
それなのに……。
それをひっくり返すだけの力が、『困るのはあなただと思いますが。どうしますか?』という言葉の中にあるのだろうか。
困るのが女性ということは、それはどういうことなのだろう。仮に冤罪だということが、伊佐治の無実が証明されたとして、それで特に被害女性が困る様なことでもあるのだろうか。
篠崎は、何か知っているのだろうか?
伊佐治が気づいていない何かを知っていて、それを交渉の材料に使ったのだろうか。
だとしたら、それは何だ?
篠崎と女性は、面識はない様だったが……。
伊佐治があれこれと考え込んでいると、やがて車は丘を越えて、原生的な風景を抜ける。するとそこには先ほどまでとは打って変わり、開けた土地に複数の建物が点在していた。それぞれの建物には看板が出ている。
こんな場所にモールが?
買い物に興味のない伊佐治はその辺りのことについては疎い。妻ならば何か知っているだろうが、まさか電話を掛けるわけにも行かなかった。
車は正面奥の駐車場に停車する。五十台ほどの駐車スペースがあったが、時間帯のせいか、三台ほどしか駐まっていなかった。運転手はメーターを止め、表示されている数字を読み上げる。篠崎が料金を全額支払い、彼は女性に車を先に降りるよう促した。
三人が車から降りると、タクシーは来た道をゆっくりと戻っていった。ときどき蒼い顔をしている女性を気にするような視線を向けてはいたが、結局干渉してくることはなかった。
「あ、あの……。その、どちらへ?」
伊佐治が尋ねると、篠崎は中央の遊歩道を指差した。このモールには中央にあるメインの遊歩道の他にも、二つほど通りがあり、敷地面積は五万平方メートルを優に超える。二十近い店舗が軒を連ねているが、どれもみな賑わっている様子はなかった。
「この先に、喫茶店があります。あまり繁盛はしてませんが、静かで、出すコーヒーも美味しいんです。そこなら、誰にも話を聞かれないで済みます」
誰にも話を聞かれないで……。
誰彼構わず聞かれたい話でないことは確かだが……。
少し、篠崎の言い回しが気になった伊佐治だった。
三人は篠崎を先頭に、中央の遊歩道、その奥へと向かう。時刻はまだ朝の八時過ぎ。エプロン姿の女性店員が店先を掃き掃除しているが、客らしい客は見当たらない。いくつかの店はシャッターも開いてはいなかった。
看板を見る限り、服飾関係の店が多い。それに次いで食器や雑貨。モールとは言え、競合する店ばかりのように思えるが、上手くやっているのだろうか。
伊佐治が周りを観察しながら歩いているのに対し、女性は俯いたままで歩幅も小さい。篠崎は女性に注意を払いつつも、淡々と歩を進めている。
やがて見えてきたのは赤煉瓦の建物。一昔前の純喫茶を彷彿とさせる佇まい。コーヒーのいい匂いが店の前に漂っていた。
篠崎に続いて中に入ると、灰色の口髭を蓄えた小柄な店主が丁寧にお辞儀した。
「いらっしゃいませ」
カウンタの奥にいる店主は低く渋めの声でそう言った。
「ブレンド三つお願いします」
「かしこまりました」
注文を受けた店主は慣れた手つきで豆を挽いていく。その様子を横目で窺いながら伊佐治は篠崎について奥のテーブル席へと移動した。
店内は全体的にブラウン系統の色調でまとめられており、非常に落ち着いた雰囲気だった。入口から入ってすぐ右側にドアがあり、化粧室のプレートが貼られている。左手のスペースには木製のラック。スポーツ新聞や週刊誌などが置かれている。
カウンタ席は全部で五つ。木製のテーブルはどれも飴色の艶が出ており、かなりの年季が入っていることが窺える。テーブル席は左の窓際に三つ並び、L字に曲がったカウンタの奥の方に二席あった。篠崎は一番奥のテーブル席へと向かった。
カウンタ席にはエプロン姿の中年女性が二人。コーヒーにトースト、それにサラダをおしゃべりに添えている。一般客ではないだろう。エプロン姿ということから、ここのモールの人間ではないだろうか。
奥のテーブル席は壁に囲われ、正面やカウンタからはちょうど死角になる。その辺りのこともきちん考慮して、篠崎はこの店を選んだのだろうか。
用意のいいことだな、と伊佐治は思った。
テーブル席を前にして、どのように座ればいいのかと伊佐治は一瞬悩んだが、篠崎が奥の席に女性を座らせたので、その対面に彼と並んで座ることにした。
女性はしきりに指を動かしたり、テーブルの上に置かれている小物に視線を動かしたりと、落ち着かない様子。これから切り出される話題を懸念しての反応だろうか。
「……で? 話って何?」
女性は自身の胸の前で腕を組んだ。相変わらず、視線はこちらとは別のところにある。
「おわかりのはずでは?」
女性は見ていなかったが、篠崎は余裕たっぷりに微笑んだ。やさしい笑顔が、彼女に突き刺さる。
「…………」
女性は何も言わない。
どんどんと場の空気が重くなっていくのがわかる。本当に圧が掛けられているのかと思うほどに、重みを纏って停滞、そして沈殿していく。呼吸するのさえ憚られるような静寂。店内に掛かっていたはずのBGMのジャズが、徐々に遠のいていくような錯覚を覚えた。
「あなたは、こちらの男性に列車内で体を触られたとおっしゃられた。痴漢だと叫び、近くの人達に助けを求められた」
「…………」
「しかしこちらの男性はそれを否認。触っていないと主張されている」
そこで、女性は伊佐治を見つめ、次にその鋭い視線を篠崎へと向けた。それを受け、篠崎は両手を広げた。
「あなた方の主張は食い違う」
「私は被害者よ? 痴漢の、加害者の言うことなんて信じる必要はないでしょ」
「そ、そんな……」
「被害者の発言の方が尊重されるべきだと?」
「そうよ」女性はさも当然と言わんばかりに、素っ気なく言った。「自己保身のためにあることないこと出鱈目言うに決まってる。そんな加害者の言うことをいちいち真に受けていたら、捜査の効率も成果も下がる一方よ」
「なるほど」
「え……」
伊佐治は物を言い掛けたが、篠崎の瞳に制される。
「憂慮すべき論調ではありますが、それに乗っかるのであれば、被害者は彼の方です」
「…………」
「そして加害者はあなたの方だ」
「ちょっと、弁護士だからって何言っても許されると思ってんの? そっちがその気なら」
「出るとこ出ますか?」
篠崎は先回りして笑う。その笑みはとてもやさしく、そして得体の知れない深さを持っていた。
「わかっていると思いますが、そちらは私の領分です。私としましても、その場に出るのであれば、遠慮は致しません」
「…………」
「ともあれ、この場を設けたのは、そうしないためでもあります。短慮はもう少しだけご遠慮ください」
そこへ店主が淹れ立てのコーヒーを持ってやってきた。店主は紳士的な振る舞いを見せながらカップを丁寧にそれぞれ三人の前に置いていく。コーヒーのいい香りに、心が穏やかになっていくのがわかる。純白のカップに濃く艶のある黒が映える。こんな状況ではあるが、思わずおいしそうだと、一瞬だけ目の前に出されたコーヒーに複雑な心情一切が奪われた。
会話は自然と途切れ、店主が下がっていくのを三人は待った。カップを綺麗に並べ終えた店主は伝票を置き、丁寧なお辞儀のあと奥へ戻っていった。
「さて、と」コーヒーにミルクを落としながら、篠崎は仕切り直す。「あなたもわかっているのでしょうが、まあ、素直には認められない事情もあるのでしょう」
「…………」
女性は肯定も否定もせず、沈黙を守る。彼女はコーヒーに砂糖を二杯入れ、ゆっくりとかき混ぜる。心を落ち着かせるために、ゆっくりと、ゆっくりと。まるで自分自身に催眠術でも掛けるかのような、そんな手つきだった。だがそれも篠崎の前では、ガレージセールの売れ残りみたいな、そんな無駄な足掻きにしかならなかった。
篠崎は柔らかい表情を崩さず、彼女にそっと死を告げる。
「だめ押しです」
篠崎がテーブルの上に取り出したのは、片手の中に納まるほどの小型なカメラだった。
「これは……?」
伊佐治は篠崎を見る。
篠崎はやさしく微笑む。あくまでもやさしく、微笑むのだ。
「証拠です」
「……っ」
女性の息を呑む音がはっきりと聞こえた。
「証拠? え?」思わず伊佐治は聞き返す。「証拠……、ということは、それはえっと……」
「ええ。あなたの無実を証明するための物でもあります」
それを聞いた伊佐治は、一瞬で無重力に落ちた。
「では、再生します」
篠崎はその小型のビデオカメラと自身のスマートフォンを接続、ビデオ出力に切り替えた。画面が暗くなったかと思うとすぐに、よくわからない抽象画のような物が映し出された。画面が揺れる。画が引きになり、抽象画のような物がアップにされた趣味の悪い服ということがわかる。
「あ」
人の腕の隙間から、見慣れたスーツが飛び込んでくる。伊佐治が着ているスーツだった。そしてその前方に、ベージュのピーコート、女性が立っている。
人の数が多いものの、引きで撮られているため位置関係は把握しやすい。伊佐治の両腕、そして女性の臀部から上半身に掛けて画面には映っている。遮るものも多いが、重要な箇所は漏れなく撮影されていた。
満員電車の中ということもあり、常にブレはあったが、映像自体に大きな変化はほとんどなかった。誰もが大人しく乗っている。そんな映像がしばらく続いたあと、伊佐治の右手を女性が急に掴み、大声を出した。
そこで、篠崎は再生を止めた。
「おわかりの通り、こちらの男性はあなたに指一本触れていません」
篠崎の言葉に、伊佐治は全身の虚脱に見舞われる。
ずっと、ずっと抑えてきた感情が、五臓の奥底で爆発するのを感じた。糠喜びだけはしまいと必死に言い聞かせ、堪えてきた想いが、ようやく自由を迎えた。
全身に染み渡るように広がっていく熱い喜びの感情は、元来無垢な男である伊佐治を震えさせるには充分なものだった。
伊佐治は子供のように大粒の涙を落としながら、自身が本当に助かったことを喜び、そして同時に自分を救ってくれた篠崎に対し最大級の感謝をする。
本当は今すぐに謝辞を述べたかったが、止めどなく溢れてくる涙で、それどころではなかった。
だが、ふと、篠崎の言葉が気に掛かった。
『あなたの無実を証明するための物でもあります』
篠崎は先ほどそう言った。その言葉は、伊佐治の無実を証明するため、だけではないという含みを持たせている。
それに冷静になってみれば、どうしてカメラなんかを回していたのだろうか。通勤ラッシュ、満員電車の中で、どうしてわざわざそんなことを……。
下手をすればこれは、盗撮、なんてことにも成りかねないのではないか。
小さな、本当に小さな、取るに足らない、些細な物。しかしそれは喉に引っ掛かる小骨のように、小さいけれど、たしかに大きな違和感を伊佐治に与えるものだった。
無実を証明するための物でもある……。
それ以外に証明するものは……。
伊佐治は篠崎の顔を見て、次にその視線を女性へ移した。
溢れ出ていた熱い感情はいつの間にか蓋をされ、気づけば恐ろしいほど冷たい悪寒が背筋を走っていた。
まさか……。
伊佐治の思考が事実に追いついたとき、篠崎は女性を正面から見つめ、調子を崩さずに続けた。
「あなたの痴漢被害虚偽申告の動かぬ証拠です」
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