第1章 雨上がりの午後、猫を拾った⑧

「ほら」

 私は東風杏を名乗る少女に、マグカップを差し出す。中の黒い液体がわずかに揺れ、小さな波紋が広がった。

「ありがとう」

 東風は礼を言うとカップを受け取り、それにそっと口をつけた。綺麗な指には装飾品はおろか、爪にマニキュアなどもされていない。細く、そして長い指だった。

 私は東風とは斜の位置のソファに腰を下ろす。彼女はコーヒーを熱そうにしながら少しずつ飲んでいる。そんな彼女の様子を窺いながら、私もカップを傾けた。

 何の気まぐれか、あるいは彼女の面影に虫の知らせを聞いたのか、私は見知らぬ少女を家へと運び、招き入れた。

 自分でもどうかしていると思う。まだそう評価できるだけ余裕があるとも言えるが……。自分らしからぬ行為に、苦い笑みも出てきやしなかった。

 私の家の近くの高架下で行き倒れていた少女を、保護した、と言ってもいいのか……、よくわからない。

「落ち着いたか?」私は東風に尋ねる。

 東風はカップをテーブルに置き、小さく頷いた。

「うん……。少し、楽になった」

「どうしてあんなところで倒れていた? 何か持病でもあるのか?」

「あると言えばあるけど……」

「病院に行かなくて本当にいいのか? 私は、医学の知識はないぞ」

「うん、大丈夫。ただの貧血だから……。あと、おなかも減ってたし……」

 たしかに、東風の体は細く、薄い。病的なまでの異常性はないものの、それでも健康優良児にはとても見えなかった。学生時代、学年に一人はいた朝の集会で倒れる女生徒が思い浮かんだ。

「何か食べるか?」

「うん……」

 私はコーヒーを飲み干すとソファから立ち上がり、何か軽いものでもと、ダイニングへ向かう。

 アイランド型のキッチンの上には先ほど買ってきた食料品が仕舞われずにそのまま置かれている。行き倒れていた少女を看ていて、冷蔵庫などに仕舞う余裕もなかった。私は少女の様子を窺いながら、その紙袋の中からハムとレタス、食パンを取り出した。レタスを適当に食べやすい大きさに手で千切り、流水で洗う。

「ねえ」

「何だ?」

「あなたが本当に霧咲って人なの?」

 東風の表情からは、疑いの色は見られない。ただの興味、といったところだろうか。不安を感じている素振りも見せてはいなかった。

「便宜上、そう名乗っていることもある」

 私は隠さずに答え、八枚切りの食パンをトースターにセットした。

「それより、君の方こそ本当だろうな?」

「嘘じゃないって。東風栞しおりは私のお母さんだもん」

「東風栞……、ねえ……」

 私は呟くように言い、胸が焼き付くようなため息を吐いた。

 私の師とも呼ぶべき存在、たちばな六花りっかが使っていた通名の中に栞という名前がいくつか存在していた。ただ、東風という名字は聞いたことはなかった。

 あの人が結婚どころか、子供までいたなんて……。それも、こんな歳の大きな……。

 にわかに信じられないが……。しかし、たしかに東風杏の顔には彼女の面影が見られる、気がする。

「本当だってば」

「…………」

「あなたが本当に霧咲って人なら、知ってるはずでしょ。東風栞」

「いや……。東風という名に覚えはない」もっとも、私が彼女の本名を知らなかっただけかもしれないが……。

「あ、じゃあ葛城かつらぎは? 葛城栞。お母さんの旧姓、葛城なんだけど……」

「葛城……」その名には心当たりがあった。てっきり通名だと思っていたが……。「それなら聞いたことはある」

 わかっていたはずなのに。

 まだ知らないことがあるのか。

 本当に、何も知らなかったのか、自分は……。

 暗い、底の見えない穴に落とされたようだった。

 色も、音も、何もない世界に飲み込まれ、溺れるような感覚。呼吸するのが苦しかった。

 当たり前のことを思い出しただけ。小さな箱にこっそりと隠していたものが見つかり、壊されるように。もともと壊れていたはずなのに……。それでもやはり、それは心に堪える。

 小さな棘を抜くように、私はため息をついた。

「それで六花……、君のお母さんはどうしてここへ君を寄越したんだ? 彼女に何を言われた? 今、彼女はどこにいるんだ?」何かを誤魔化すように、私は矢継ぎ早に質問を重ねた。

「何も」

 東風は首を振った。

「何も?」

 私は眉を寄せ、聞き返した。

「何もだよ。何もわからない」東風は初めて表情を曇らせた。「わからないから、ここに来たの。霧咲って人に会えれば、何かわかると思って」

「どういうことだ」

 東風はソファの上で膝を抱える。

 真珠を飲み込んだように、息も出来なかった。ただじっと、彼女の言葉を待った。

「何年か前、お母さんはどっかに行っちゃった……」

 東風は目線だけ動かし、私を捉えると口の端を上げた。厭世の瞳に、諦観の微笑。大凡の少女が見せるような表情ではなかった。

「私は捨てられたの」

「…………」

 心が粟立つ。

 捨てられた、か。

 少女の境遇に、同情よりも親近感に近い感情を抱いてしまう。いや、素直に認めることが出来ている分、彼女の方が私よりも大人だった。いつまでも女々しい自分とは、比較にならない。

「なら、どうしてここに?」

「昔……、どうしても困ったことが起こったとき、そしてそのときお母さんと連絡が取れないときは、霧咲って人を探すように言われてたの……」

「…………」

「大体の場所も聞いてた。他の場所にも行ったけど、そこでは何もわからなかったから……」

 私の活動地域まで……。いくら相手があの橘六花とは言え、私の思考が筒抜けだったことには恥を隠せなかった。

「ここもだめだと思って、そしたら気持ち悪くなって……」

「運がよかったな」

 私はトーストの様子を窺いながら、心の中を悟られまいと胸の前で腕を組んだ。動揺を表には出さないように努めるも、今回ばかりは難しい。私にとって、クリティカルな問題だった。

「それで? 困ったこととは?」

「…………」

 東風はすぐには答えなかった。抱えた膝に顔を埋めるようにしながら、答えようとはしない。重苦しい沈黙が部屋を包む。次の言葉を待ったが、なかなか東風は口を開かなかった。代わりに、トースターが焼き上がりを伝えた。

 私は冷蔵庫からマヨネーズとマスタードを取り出し、その二つに黒胡椒を適量加える。ハムとレタスにソースを和え、それを焼き上がったトーストで挟んだ。

 私は出来上がったサンドウィッチを東風の前のテーブルに置いた。

「出来たぞ。腹減ってるんだろう?」

「うん……。いただきます……」

 東風はサンドウィッチに手を伸ばし、一口囓った。

「おいしい……」

「そうか」

 窓から外を見れば、雨は上がっているようだった。厚く張った暗い雲の間からは日が差している。青空はなく、代わりに夕焼けの赤が漏れていた。

「どうしてここに来た?」私は質問を続けた。答えたくないことだろうと、こちらとしては答えてもらわなければ困るのだ。「何があった? 父親はどうした?」

「家出……」

「はあ? 家出?」思わず声が上擦ってしまった。

 東風は口を尖らせ、膨れっ面を見せる。

「家出って……」私はソファにもたれるとため息をついた。「何だ、喧嘩でもしたのか?」

「そうじゃない」言葉少なに否定し、東風はまた一口頬張る。

「まあいいや。それ食べたら帰れよ」

「え、ちょっと」

 急に馬鹿馬鹿しく思えてきた。橘六花の行方を知っているのならともかく、そうでないのなら、ただの家出娘に用はない。

「それじゃ困る」

 東風はソファから立ち上がり、捨てられた猫のような目を向ける。

「困るのはこっちだ」

「お願い……、何でもするから泊めて」東風は真っ直ぐに私を見つめる。

「あのなぁ……」

「霧咲さん、お母さんの弟子だったんでしょ? だから、というわけでもないけど……。他に頼る人もいないし……」

「そういう問題じゃないだろう」

「お金ないし。他に行くとこもない……」

「家に帰れ」

「…………」

 無言で、静かに駄々を捏ねる子供に辟易しながら、それと同時に自分の浅ましさを呪った。

 不用意すぎた。いくらなんでも、どうかしている。行き倒れの少女に声を掛け、あまつさえ家まで運ぶだなんて。焼きが回った証拠だろうか。

 私はため息をつきながら、目許を押えた。

「全部説明してみろ。もしかしたら、聞いてやるかもしれない」

「お母さんは、ずっと前にどっか行っちゃって……。ずっと一人だった」

「父親は?」

「いるけど……、いないのと同じ。ううん、本当にいなければ、そっちの方がずっとよかった……」

 私は肩を竦めた。

「思春期はそんなものだ」

「違う。そうじゃない……」東風は怒った目を向ける。「ろくでもない奴なの。若い女と昼間からお酒を飲んでセックスばかりするような、そういう奴……」

「それで家出か」

「もともと邪険にされてたし、ちょうどよかったけど……」

「よくはないだろう。宿もないのに、どうするつもりだ?」

「わからない」東風はあっさりと首を振った。少女には似つかわしくない達観した雰囲気を見せている。

「…………」

「じゃあ、お母さんに会わせてくれれば、それでいい……」

「知らないよ」

「え?」

「君のお母さんがどこにいるか、知らないんだ」

「一緒に仕事してるんじゃないの?」

「昔の話だ」

 短く息を吐いて、私は笑った。何かを諦めるように、何かを誤魔化すように。

「捨てられたんだ。君と同じで」

 終わりは突然やってくる。

 子供のように理不尽だと叫ぶこともできず、ただただ静かに現実を受け止めようとすることで、溢れようとする何かを堰き止めていた。そうしていれば楽だった。泣き叫べば、あるいは痛みが和らいだかもしれない。それをしなかったのは、せめてもの抵抗だったのだろう。自衛の術が長けてくるのが大人だ。大したことはない、と自分に言い聞かせる。自己暗示を掛け、やり過ごそうとするのだ。

 少女は、私を見つめていた。

 その表情には、どんな感情も見られない。

 東風杏は静かに言う。

 彼女が何を考えているのか、まるでわからなかった。


「なら、私を拾わない?」


 彼女の表情からは何も読めなかった。

 嫌な予感がした。

 私に詐欺師としての才能があるとするならば、危険を前もって何らかの形で知覚できる点だろう。臆病な性格も相まって、大きな失敗を経験することなくここまで歩んで来られた。

 平凡に生きられるのなら、それに越したことはない。それは何よりの才能だ。

 だが、慎ましく生きるのに疲れ、飽いたのなら、一歩だけでもいい、踏み出すことだ。

 世界は変わる。変えられる。

 

 女々しい心を奮い立たせ、小心者の私が、一歩を踏み出した。

 雨上がりの午後、私は、猫を拾った。

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