第2章 崩れなければ、歪ではない①

 十一月十九日。

 その日、男は窮地に立たされていた。

 未だかつて経験したことがないほど追い詰められている、と自分で認識できたころには、すでに事態は最悪の方向へと転がり始めており、そしてその勢いを止めることはもはや適わないであろうことも、何の根拠もなく直感で理解できてしまっていた。

 自身ではもうどうすることもできない。ゆっくりと、しかし確実に忍び寄ってくる破滅を、眺め待つことしかできなかった。死神の鎌が、そっと自身の首に添えられている。当然、生きた心地はしなかった。

 男の名前は伊佐治いさじ久司ひさし。今年で三十八歳を迎える、働き盛りの営業マンだ。物心がついたころから教育熱心な両親の影響で勉学に励み、家と学習塾を行き来する毎日を過ごしてきた。学校は息抜き程度で、進学するための内申書が手に入れば、あとはそれこそ成績だってどうでもいい場所だった。同級生とは一緒に遊んだこともなく、それどころか受験のライバル――敵だと認識していた。そのため同年代の友人は一人も出来ず、社会人となった今でさえ心を許せる存在は一人としていない。

 一流の大学に進学し、一流の会社へ就職する。それが一番の幸せだと久司の両親は考え、そしてそれは一人息子の久司の価値観を形成する唯一のものでもあった。

 恐らく多くのものを犠牲にしてきたであろう伊佐治ではあったが、一流の国立大学に進学、その修士課程まで進み、そして誰もが認める一流企業へ就職をしたことから、まるで後悔はしていなかった。両親が喜び、自身も喜んだ。後悔する余地はどこにも存在しなかった。そう、そのときまでは……。

 社会人として忙しい日々を過ごしてきた。とにかくがむしゃらに働いた。だが、それで手に入れたものは、わずかな賃金とわずかな地位、それだけだった。

 伊佐治が手にした幸せは、あくまでも相対的なものに過ぎなかったのである。他人と比較して安い優越感に浸るときだけに見せる、そんな些細なものにしか過ぎなかった。

 明確だったものに靄が掛かる。堅牢に築き上げてきたものが、突如揺らぎ始めた。自分の人生を振り返り、そして今後を見据えたとき、伊佐治は自身の幸せについて自信がなくなっていた。

 それでも、周りの人間と比較すれば伊佐治は成功者だった。誰もが認め羨むエリート街道を突っ走って来たのである。誇りがあった。誰にも負けないという自負もあった。

 他人で自分を計りながら誤魔化し、遮二無二仕事をすることで余計なことを考えないように努めた。

 働いて働いて、稼いで稼いで。他人と比較して、自分を慰めた。取引先の上司の娘と結婚し、二児の父親となった。そしてまた働いて、自分を慰めた。

 すべてが吹っ切れた。

 そう、思っていた矢先のことだった。

 伊佐治は、かつてない窮地に立たされていた。

 午前七時十一分。

 いつもの満員電車。

 乗り込むのも、降りるのも大変な通勤ラッシュ。身動きなどまるで取れず、吊革が掴めればラッキーくらいなもの。四方八方から肉の壁の圧が掛かる。

 煙草の臭い。酒の臭い。柔らかい香水の臭い。皮脂の臭い。ありとあらゆる臭いも行き場をなくしている。毎度の事ながら嘔吐きたくなる。乗り物酔いはしない伊佐治ではあったが、満員電車だけは駄目だった。いつまで経っても、毎日乗っていても、慣れはしなかった。

 聞き取りづらい駅員のアナウンス。どこからか漏れてきている音楽プレーヤーの音。女子高生の下品な笑い声。新聞を開く音。中年の咳払い。鳴り響く携帯電話の着信。舌打ち。

 雑音に飲み込まれるような、目眩を覚えた。目が回っているわけではない、電車に揺られているだけだ、と自分で言い聞かせる。今日もあと三十分我慢するだけ。

 そのはずだった。

 伊佐治はいきなり右手を掴まれた。

「え?」

 伊佐治は酷く驚き、顔を上げた。

 するとそこにはコートを着た女が立っていた。こちらを強く睨んでいる。

「え?」

 よく見掛けるベージュのピーコートを着た化粧気の強い女が、伊佐治を睨み、そして右腕を掴んでいた。そして彼女は、大声で叫んだ。

「やめてください!」

 あれほど溢れていた雑音が、波を打ったように一瞬で消えた。代わりに、伊佐治の心臓が警鐘を鳴らすように激しく鼓動する。まるで耳の近くに心臓が移動してきたかのように、心音がうるさかった。

 若い女はもう一度叫んだ。

「やめてください!」

 周りがざわつき始める。

 今まで身動きが取れないほど混雑していた車両内が嘘のように、全員がこちらに注目していた。何が起こったのか把握するために全員がこちらに顔を向けている。中にはこちらへ近づこうとしている者もいた。

 だが、そんな周りの様子を気にしている余裕が伊佐治にあるわけもなかった。

 何が起きたのか、まるで理解できない。

 右手を掴まれて、睨まれる。

 何だ?

 え、これって……、もしかして……?

 這いずるように、魔女の呪いのように、それは伊佐治の脳裏に浮かんだ。

「え、ちょ……」

「この人痴漢です!」

 そう目の前で叫ばれ、私は頭の中が真っ白に、目の前が真っ暗になった。

 痴漢……。

 その言葉は、鈍重なもので頭を殴られたような衝撃をもたらした。あまりの衝撃に、否定することも出来なかった。何も出来ず、狼狽えるだけ……。

「あ、あ……」

 伊佐治は何とか口を動かすものの、声はそれに続かなかった。

 そうこうするうちに、体が重くなった。重心が崩れる。目眩かとも思ったが、そうではなかった。気がつけば、脇の下に臙脂色のセーターの腕が通されている。伊佐治は中年の男に羽交い締めにされていた。

 息が苦しい。声が出せなかった。

 伊佐治は力を振り絞って精一杯、首を振り、体を振り解こうと試みる。しかし大して体力のない伊佐治が、中年とはいえ男の羽交い締めを振り解くのは無理な話だった。抵抗すればするほど、強く締められる。

「大人しくしろ!」

 野太い声が飛ぶ。伊佐治を締め上げている中年のものだった。

「ち、ちがっ……」

 まともな声も出せない。

 抵抗も出来ない。

 否定も出来ない。

 何も、出来なかった。

 徐々に、死神の鎌が肌に食い込んでくる。

 全身に毒が回るように、自分の体が自分のものではないような感覚を覚えた。痺れているような、震えているような。熱いような、痛いような。

 どうなるんだ、これから……。

 痴漢として取り押さえられて、警察に逮捕されるのだろうか?

 そこでいろいろなイメージが頭の中で爆発した。ドラマや映画で見た取調室、拘置所、裁判所の風景がまず浮かぶ。次に辞表、上司の汚物を見るような目。両親の泣き顔。理解できずに宙を見つめる二人の娘。ヒステリーを起こした妻。そして、絞首縄。

 恐ろしいほど生々しい映像が脳内で再生される。

 終わる、のか……?

 あれほど苦労して、友人も作らず勉強してきたのに。見たいテレビも見ず、読みたい漫画も読まず、したいこともせずに、それらすべての時間を勉強に捧げてきたのに。大学、大学院を卒業し、一流企業に入社。怒鳴られ、なじられ、下げたくない頭を何度も下げ、それでも踏ん張ってきた。

 それが、終わる? こんなところで? こんなつまらないことで? 終わってしまうのか?

 今までの出来事が走馬燈のように頭を駆けめぐる。死神が、笑った気がした。

「…………」

 不意に訪れる感情。

 水面に広がる波紋のように、少しずつ、それは心を覆っていった。

 次の停車駅がアナウンスされる。それが催眠術を解く合図だったかのように、伊佐治は少しずつ自分を取り戻すことが出来た。

 冷静さを思い出しながら、伊佐治は必死に自身の置かれた状況を考えた。

 間違っても自分は痴漢などしていない。それは確かだ。誤解されるような接触もなかった。なら……。

 伊佐治は目の前の女を見つめる。彼女が勘違いをしているのかもしれない。この近くに本当の犯人がいる可能性が高い。それを、伊佐治に触られたのだと誤解しているでは……。

 誰だ?

 女性が叫んでから、周りを離れた人間はいないはず。気は動転していたが、この満員の車両内では満足に身動きも取ることはできないため、騒ぎの中離れようとする人間がいればまず見逃さないだろう。

 伊佐治は周りのそれらしい人間がいないかどうか確認した。女性の周りには、体格のいい男子高校生と、サラリーマン風の男が二人、それから派手な格好の女が一人。伊佐治は男子高校生とサラリーマンの三人の顔を見る。一様に蔑む目をこちらに向けていた。

 この三人の誰かが犯人なのだろうか?

 いや、そんなことはもうわからない。

 優先すべきは自身の潔白を証明することだが、そんなこと、果たして本当にできるのだろうか。

 このままではまずい。

「痴漢に間違われたら一も二もなく全力でその場から逃げないと駄目だ」

 法律の専門家達が皆口を揃えて言う。

 痴漢は冤罪を産みやすい。

 否認を続けていれば、逮捕拘留の手続きで身柄を拘束されやすいという特徴がある。仮に前科がなくとも、清廉潔白に生きてきたとしても、だ。また初犯であっても、公判請求される可能性もある。

 しかし痴漢が事件として起訴される前に被害者と示談を成立させれば、不起訴となる場合がある。起訴された場合でも、示談が成立していれば執行猶予付きの判決となる場合がほとんどだという。

 だからと言って、やってもいない痴漢を認めろと言うのか?

 痴漢の場合、刑法で定める強制わいせつ罪と各都道府県が定める迷惑行為防止条例違反の二つの嫌疑がある。六ヶ月以下の懲役又は五十万円以下の罰金となり、多くは三十万円ほどの罰金刑となるらしい。

 これを聞いて三十万円で済むなら……、と考えるのは甘い。痴漢の前科が付けば、社会的に殺されるのだ。

 痴漢の前科を隠して転職した場合、それは会社に対する詐欺となる。もちろん、正直にしたところで痴漢の前科がある者を採用する企業はほとんどないだろう。職を失い、家族も失うことになる。三十万円で、それらが守られるわけではない。むしろすべてを奪われるのだ。

 なら、裁判で争うべきか?

 それも実際はかなり厳しい。日本の司法では刑事事件はまず有罪となる。その確率は九十九パーセントという、子供が考えたようなとんでもない数字だ。痴漢事件で言えば、疑わしきは罰せずという推定無罪の原則を無視する者が、警察や検察、そして裁判官にさえも、存在する。端から有罪と決めつけられているということだ。そんな状況で、裁判を戦えると考えるのは盲目な夢想家だけだろう。

 ならどうすればいい?

 今、伊佐治は女性に右手を掴まれ、そして中年に羽交い締めにされた状態にある。つまりこれは、私人逮捕されたということだ。この状態で駅に着き、駅員室へ連行されれば、それは自ら罪を認めたと解釈されることになる。そうなれば、法律的に立場がかなり悪い。

 しかしこの状態から振り切って逃げることは現実的に難しい。

 冷静になればなるほど、現実が重くのし掛かってくる。研がれた死神の鎌が、首に食い込む。

「ま、待ってくれ! 僕は何もやってない。誤解なんだ!」

 伊佐治は必死で訴える。しかし、それは周りの人間には届かなかった。

 嫌な汗が背中を這う。心臓も、自分のものではないかのような、異常な鼓動を続ける。

 再び車内にアナウンスが流れ、列車はゆっくりとブレーキを掛け始めた。

 そこで伊佐治は、異様な吐き気に見舞われた。何も聞こえないくらいの耳鳴り。世界から色が奪われ、光さえも弱まりつつある。もうすでに、自分の足で立っているのかもわからなかった。羽交い締めにしている中年に、支えられているのかもしれない。

 どうすればいい……。

 必死に抵抗をすればいいのか。自分はやっていないと訴え続ければいいのか。

 もう、何をやっても、駄目だと思った。

 存在もしないものに縋ったところでどうにもならないことは目に見えている。

 諦めるにしては、あまりに多くのも犠牲にしてきた人生だ、そんなこと、当然出来はしない。

 今までの過去、これからの未来。それらが狂ったように脳内へ溢れ出る。

 すべてが、すべてが終わってしまう。終わったら、取り戻すことは適わない。不可逆的な世界が顔を覗かせる。もう、どうしようもない。

 伊佐治の世界が、音を立てて崩れようとしていた。

 気づかないうちに嗚咽を漏らしていた。獣の咆哮に近い、感情の爆発だった。熱いものが頬を伝い流れ落ちる。自分が泣いていることに、そこで初めて気がついた。

 伊佐治がどれほど自身の潔白を訴えても、それは聞き入れてもらえなかった。この場から逃げ出そうにも、密室の満員電車内。しかも羽交い締めされた状態にある。

 八方塞がりだった。

 抵抗する気力はもう奪われていた。

 窮地に抗い続けることが出来る人間は、ほんの一握りだけだろう。今まで並々ならぬ努力を続けてきた伊佐治でさえ、この状況には心が折れてしまった。

 子供のように、無様に泣きじゃくるだけ。すべてを憎み、呪いながら叫ぶしかなかった。

 やがて列車は駅に到着し、扉を開ける。

 伊佐治には、終焉へ誘う扉に思えた。覚束ない足取りでホームへ降り立つと、電車を待っていた乗客が異変に気づき、奇異なものを見る目で伊佐治を見つめた。拘束されている伊佐治を見る目は、性犯罪者を見る目と遠からず同じものだった。破廉恥な犯罪者に眉を顰める一様の光景が広がる。伊佐治はそれを虚ろな表情で眺めるだけだった。

 もういっそのこと……。

 伊佐治は列車が到着していない反対のホームへ視線を移す。

 どうしようもないのなら、ここで死んでも同じことかもしれない。

 そんな考えが頭を過ぎる。

 どのみち終わるのであれば、最後くらいは自分で……。

 世界から音が消えた。色もない。あるのは歪められた現実と、不思議と高ぶる鼓動だけ。自分が今呼吸をしているのかどうかも怪しい状況にあった。

 絶望。

 この状況を表現するにはこれ以上の言葉はなかった。

 普段降りることのない駅のホーム。スーツや学生服に身を包んだ者達が羽交い締めにされている伊佐治を不思議そうに見つめる。最初は一様に驚きながらも眉を顰めていた連中も、今では物珍しい光景を楽しんでいる風でもあった。中には携帯電話のカメラ機能を使い、伊佐治を撮影しようとしている者までいた。

 伊佐治は堪らず、その場で吐いた。

 あちこちで悲鳴が上がる。しかし、それは伊佐治の耳には届かなかった。

 そのとき一瞬だけ、拘束が緩んだ気がした。伊佐治が嘔吐したことにより、羽交い締めしていた中年が怯んだのだ。

 薄れゆく意識の中で、伊佐治はここが最後のチャンスだとばかりに、ホームの反対へと向かって駆け出した。

「あ、おい!」

 後方で、誰かが怒鳴った。

 しかし伊佐治にはもう関係なかった。

 逃げ切ることが出来ないのであれば、

 誤解を解くことが出来ないのであれば、

 もう、死ぬしかなかった。

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