第1章 雨上がりの午後、猫を拾った⑦

 雲の流れが速いためか、天気も移ろいやすい。私が事務所を出たときには細かな雨が降っていた。もともと曇り空ではあったものの、今週いっぱい雨の予報はなかったはずである。ため息一つを代価に、歩を進めることにした。

 鞄から折り畳みの傘を取り出し、それを差しながら国道沿いの歩道を進む。雨量はそれほどでもないが、やや風が強く、横降りになっている。左手に見える田んぼで作業をしている農家の人も、慌てて片付けをしているようだった。

 小さなショッピングモール前の交差点を渡り、裏の路地へと入る。道は細くなり、街路樹が増えてきた。規模は小さいものの、モールが建設されてからは住宅地として開発も進み、今も多くの新築物件が軒を連ねている。遊具は少ないが公園も確認できる。雨が降り出したためか、今は誰もいなかった。

「…………」

 やはりこの季節は太陽が少し隠れるだけで気温が一気に下がる。何となく出たため息が白くなるのを見て、私は体を震わせた。

 今日の夜は何を食べよう。

 綺麗に舗装された歩道を歩きながら、家の冷蔵庫の中を頭の中に描いた。あり合わせで済ませば買い物に寄る必要はないが、まともな料理を作るだけのものが残っていただろうか。

 飯島と違って、祝杯を上げるつもりなどなかった私ではあるが、久々の仕事に疲労感とともに充足感を覚えているのも事実だった。ささやかな贅沢をしても怒られない程度の成果は今回あったと思う。そう自己評価していた。

「うーん」

 私は足を止め、後ろに見えるショッピングモールを見つめながら唸った。買い物をしていくのならば、このモールで済ますのが楽ではあるが……。

 少し悩んだが、手早く買い物を済ませることに決めた。一階の食料品売り場を適当に周り、気になったものをカートに詰め込んでいく。多少の贅沢はしようかとも考えたが、やはり小心者の私としては自重することにした。どこで誰に何を見られているかもわからない。少なくとも自分の生活圏内での行動は普段通りの範囲に留めておく方が良いだろう。他人に関心を払わないようでいて目敏いのが現代の人間の特徴だ。

 私は買い物を済ませて外に出ると、雨脚が強まっていた。

「判断を誤ったか……」

 雨雲の厚さを見るに、喫茶店で雨宿りは逆効果だろう。買い物に寄らずに家路へ急いだ方が良かった。

 私は肩を竦めた。

 雨に降られるくらい、どうってことはない。仕事で判断を誤ることを考えれば、こうした何でもない場面で適度に間違えておく方が健全である。笑えるほど些細なものだ。

 自分に都合のいい言い訳をしながら、私は折り畳み傘を差し、駅へと向かって歩き出した。住宅地を抜けて県道を横切り、色付き始めた銀杏並木の下を歩きながら無人駅へと向かう。駅に近づくにつれて人の姿が目に見えて減っていく。天候の影響も多少あるだろうが、通りを走る車の量も少なくなっていた。駅の利用者数の低さが現れている。実際、中心市街地は駅周辺ではなく国道沿いになり、飲食店や百貨店などもそちらの方に多くあるくらいだ。

 駅前の商店街に差し掛かったところで、踏切の警報が聞こえてくる。警報が鳴り響いていた時間は短かったため、急行列車だったのだろう。私が乗るのは普通列車なので、この距離ならばタイミングとしてはちょうどよさそうだった。

 多くのシャッターが下りているのを眺めながら、寂れた商店街のアーケードを潜る。今でも営業を続けている数少ない店も、その店構えは一昔前のもので流行っている様子は見受けられない。超高齢社会を現す一端なのだろう。振り込め詐欺がなかなかなくならないわけだ。

 商店街を抜けた先の交差点を渡り、私は駅の改札を通ってホームへ上がった。私以外には疲れた表情をしている四十代と思しき女性が一人だけで、あとは反対ホームにも人は見当たらなかった。

 傘を折り畳み鞄に仕舞ったところで、電車がゆっくりと到着する。車内には乗客が何人かいたが、それでも席に困ることはなかった。私は扉から離れた席に座り、三十分ほど電車に揺られた。いつものように一駅手前で降車し、再び雨の中傘を差して歩く。

 雨脚は変わらないものの風が強く出てきたため、服もほとんど濡れてしまっている。この季節に雨に濡れるのは体温が奪われて辛い。歳を取ったということもあるのか、寒くて敵わない。

 早く家へ帰って風呂にでも入ろうと、一駅手前で降りたことを若干後悔しながら家路へ急いだ。わずかでも雨風を凌ごうと、高架下を通ることにする。左手には古い工場が高架線沿いに建ち並び、右手には自転車の不法投棄が目立つ。当初はコインパーキングや月極駐車場として機能していた高架下スペースではあるが、駅の利用者がそもそも少ないため駐車場を必要とする者も年々減り続け、今ではただの空き地となっていた。夜になると不良少年の溜まり場と成り果ててしまっている。

 柱などコンクリートの壁面にはスプレー缶による落書きが描かれており、いかにもな雰囲気を醸し出している。

「そもそもそういう枠からはみ出した連中の集まり、のはずなんだがな……。アウトローにもテンプレートは必要か……」

 私は鼻で笑いながら、高架下を抜けようとした。ここから家までは二分と掛からない距離にある。

 体も冷えているし、すぐにでも家に帰りたい。腹も減っているし、疲れだって溜まっている。

 なのに。

 私は思わず足を止めた。止めざるを得なかった。

「…………」

 高架下の隅、柱にもたれかかるようにして、女の子が倒れていた。

 よくわからない。

 状況がまるで飲み込めない。

 ただ、脳裏に浮かんだものは、薄い、という印象だった。

 色素も、その体躯も、一般のそれと比較してかなり薄い。

 この場に存在することが極めて不自然な、そんな印象。それを際立たせるかのように、とにかく薄かった。

 透き通るような白い肌、とでも表現すればいいのだろうか。それとも、この世のものとは思えない、血がまるで通ってなさそうな蒼白い肌、と表現するべきか。

「生きて……、いるのか……?」

 あるいはそう、これが死体である方が自然かもしれない。それぐらい、目の前の少女は世界と乖離していた。

 ベージュのコート、白のブラウス、赤のチェックのスカート、黒のブーツ。衣服に乱れはなく、どれも新しいものではないが、傷がついていたり過度の汚れは見られない。

 雨脚が強まり、地面を叩く音が高架下に響き渡る。周りに人の気配はない。

 微睡みの中を彷徨うかのような、そんな感覚に溺れる。まるでこの場所だけが世界から切り離されたような、そんな感覚。現実感がまるでない。

「お、おい……」

 私は思わず声を掛けてしまった。

 止せばいいのに、と頭の中で思ったのは口にしてからしばらく経ってからだった。

 雨音が強くなる。

 吐息が白くなる。

 立ち去るべきだ。

 頭の中で、心の中で、もう一人の私が忠告する。

 立ち去るべきだ。

 わかっている。

 私だって、そんなことはわかっている。

 これは、この状況は、まずい。

 どう転んだって面倒なことにしかなり得ない。

 誰かに見られる前に、ここから立ち去るべきだ。

 だが別の私がそれに異を唱えた。

 だけど声を掛けてしまった。もう引き返せない。

 ゆらゆらと、ふらふらと、揺らいでいる。何をどうしたらいいのかわからない。自分でも、わからなかった。

「くそっ」

 私は心の中で何度も落ち着くように、自分に言い聞かせながら、小さく舌打ちをした。

 どうかしている。

 自分で自分に呆れながら、私は少女に近づいた。

「おい、どうした? 大丈夫か?」

 極力声は抑えながら、私は少女の頬に触れる。恐ろしく冷たかったが、呼吸はある。死んではいない。

「おい、おい」

 何度か呼び掛け、肩を揺する。

 少女に外傷は特に見られない。慌てて救急車を呼ぶ必要はなさそうだが……。

「…………」

 少女の瞼がかすかに動き、私は思わず身を引いた。

「ん……」

 大きな瞳が開く。そして二回、瞬いた。

 私は大きく息を吸った。

「君は……」

 少女の端整な顔立ちに、心がざわつく。そんなはずはないと思いながら、しかし目の前の少女に、の面影を見てしまった。

 ずっと、ずっと気づかない振りを続けてきた小さな癌。それが晒され、疼きを覚える。息ができないほどの苦しさに、私は顔を歪めた。

 少女は大きく瞬き、瞳をぐるりと動かすと、私の姿を捉えたようだった。

 彼女の大きな瞳で見据えられると、呼吸ができなくなる。

「あなたは……?」

 少女の形のいい唇がわずかに動く。声は雨音に掻き消されそうなほど小さなものだった。

「通りすがりの者だ……」私は何とか平静を保ちながら答えた。「君は……、その……、大丈夫か?」

「あ、ええ……。でも、動けない……」

 受け答え自体は問題なくできている。呂律が回っていないなどということはない。

「どうした? 体調が優れないのか?」

「たぶん、そう、みたい……」少女は淡々と答える。「体に力が入らない」

「救急車を呼ぼうか?」

「それは困る」少女は初めて表情を曇らせた。

「困る?」私は聞き返した。「なぜ?」

 訳ありだろうか。いや、もちろん、それはそうなのだろうが……。

「…………」

「人を呼ばれると困るようなことでもあるのか?」

「たぶん、そう……」

「たぶん、ね」

 私は少女の言葉を繰り返しながら、鼻から息を漏らした。

 曖昧な言葉を重ねる彼女だが、しかし何かを隠しているようには見えなかった。彼女が何を考えているのか、まるで掴めない。そんなところも、雰囲気も、やはりよく似ている。

「ねえ」少女が私を見つめる。

「ん?」

「あなたはこの近くに住んでるの?」

「そうだ……」私は逡巡したが、素直に答えることにした。

「霧咲さんって人知らない? この辺りに住んでるらしいんだけど、わからなくて……」

 心臓が止まりそうになる。

 震えるように息を吐きながら、私は目を閉じた。

「霧咲?」

「そう……。知らない?」

 私は動揺を悟られないように注意しながら、少女の全身を改めて観察した。

 見た目だけなら中高生のように見える。化粧気はないが、肌はきめ細かく張りがあった。色素は薄い。体躯は細く、薄い。目は大きく、鼻筋も綺麗に通っている。美人と言える端整な顔立ち。

 だがそれでも、私は目の前の少女のことを知らなかった。初めて見る女の子だ。親戚にも、知り合いにもいない。過去に仕事関係で見たということもない。

 なら、なぜ私の名前を知っている?

 それもただの名前ではない。霧咲は、私が仕事の際に使用する通名だ。

 まず、普通の人間ならば知らないし、知り得ないはず……。

 いや百歩譲って、その名前をどこかから聞いたとしよう。万が一にもそんなはずはないのだが、そこには目を瞑ろう。だが、それでもだ。どうして私の家の前まで辿り着ける?

 私の家の表札には霧咲の名は使っていない。だからこそ、この少女は迷っているのだろうが……。

 朝霧として私を訪ねてきたのなら理解できる。しかし、霧咲としての私となると……。

 …………。

 朝霧としての私、霧咲としての私、その両方を知っている人物など存在しないはず。可能性があるとすれば飯島か古野、かつて私の師だったあの人ぐらいなものだが……。

 私は目の前の少女を見つめる。

 やはり、面影はある……。

 私は意を決して少女に尋ねた。

「君……、名前は?」

 少女は形の良い薄い唇を動かした。

「私は、東風こちあんず

「東風、杏……」

「そう、東風杏」

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