第1章 雨上がりの午後、猫を拾った③
私は服田が会計を済ませている間に店の外に出て、携帯を触った。時間を確認し、来たときと同じエレベータの前へ移動する。パネルを操作し、服田を待った。
しばらくして服田は店を出てきた。その表情には緊張の色が出ており、慎重に周りを観察している。私は彼を確認すると、エレベータへ先に乗り込んだ。
「服田ぁ!」
服田がエレベータに乗り込もうと足を踏み入れた瞬間だった。
フロア左手の奥から現れた二人組のスーツ姿の男が、服田を見るや否や声を張り上げた。
「――っ」
スーツの男達は、凄い形相でこちらに向かって走ってくる。
服田は慌ててエレベータに乗り込んだ。私が予め操作していたため、服田が乗り込むと同時に扉は閉まり、二人組の男達を遮った。
エレベータが動き出したことを確認してから、私は服田の胸倉を掴み、壁へと押しやった。
「どういうことだ」
「え、な、何が……。俺だってわから」
「あの店、普段から利用していないだろうな?」
「え……」
服田は怯えた目を向ける。
「どうなんだ!」
私が掴んでいる手に力を入れると、服田は力なく項垂れるように頷いた。
「素人が」私は舌を打ち、短く息を吐いた。「そんなもの、奴らに張られるに決まってるだろうが!」
「ど、どうすれば……」焦っている服田は声が震えていた。顔も引きつっている。
「この短時間に警察が事務所の捜査からお前の捜索に切り替えたということは、事務所からは何も出てないんだろう。証拠は全部さっきのときに預けてあるんだろう?」
「ああ……。あ、いや」
「何だ?」
「まだこれが」
服田は持っている鞄を開いて見せた。中にはクリアファイルと黒い革製の巾着袋、そして一千万円の束が三つ。さらに彼は胸ポケットから皺だらけの封筒を取り出した。
「まずいまずい」服田が呟くように何か言ったかと思うと、次の瞬間には癇癪を起こしたように拳を壁に叩きつけた。「くそ! くそくそ、くそぉ!」
どれほど暴れたところでここはエレベータの機内。密室である。逃げ場はない。あと数秒もすれば一階に着き、その昇降口で待っているのは先ほどの二人組である。
「落ち着け」
「くそくそ、どうする、どうする」
「落ち着け、服田」
「これが落ち着いていられるかよ!」服田は感情的に叫ぶ。
「騒いだところでどうにもならん。落ち着け」
私は宥めるように言って、手を差し出した。
「?」
服田は不思議そうに差し出された私の手を見つめる。
「全部渡せ。私は最初から乗っていたから、仲間だとは思われていないだろう。掻い潜れるかもしれない」
私は早口で捲し立て、服田を急かした。
「早くしろ! 捕まりたいのか!」
服田は慌てて証拠となる物件を取り出し、私に差し出した。私は服田から受け取ったものを、スーツの内ポケットなどに仕舞う。多少窮屈だが、文句は言っていられない。
一階に着き、エレベータが止まる。
「逃げるな。証拠がなければすぐに逮捕ということはないだろう。やり過ごしたあと、事務所で落ち着いたら連絡しろ」私は扉が開くまでに早口で言う。「振り向くなよ。私とお前は、無関係だからな」
「わかってる……」
服田は顔を引き締めると、扉の前に立った。
ゆっくりと扉が開く。するとそこには先ほどのスーツ姿の男達が息を切らしながら待ち構えていた。
私は思わず息を止めた。心臓が忙しなく胸を叩き、不安を煽る。ここが正念場。
ここを乗り切らなければ、ここで下手を打てばすべては水泡に帰すことになる。一刻も早くこの場を立ち去りたいという、弱い心を押さえつけるのに必死だった。
スーツ姿の男達は私を一瞥した。
鼓動が早くなる。
冷静を努めようとすればするほど、動揺が表に出ていないかと不安に駆られる。顔が引きつりそうになるのを誤魔化しながら、何とか息を吐いた。
スーツの男達はそれぞれ腰の辺りから警察手帳を取り出し、それを服田に開いて見せた。
「服田だな。少し話を聞かせてもらいたいんだが……」
「警察にお話しすることなんて何もありませんけどね」余裕を持った話し方に戻した服田だったが、声は少し上擦っていた。
「そうか? ちょっと確認するだけだ。時間は取らせない。いいだろう?」
「…………」
私はなるべく自然を装いながら、エレベータを降りようとした。すれ違う際には緊張はピークに達し、自分の心臓の音が相手に聞かれているのではないかと思うほどだった。
いつまで立っても成長しない。
プロの詐欺師だと宣っていても、本質は変わらないのだ。変わることのない小心者。
いつだって騙す瞬間は、感覚器官がおかしくなるくらいに刺激的なものだ。体中が沸騰しそうなほどに、滅茶苦茶になる。
怯えているし、楽しんでもいる。
心の震えが表に出ないように、私はエレベータを降りた。服田達から距離を取り、駅ビルから外へ出ようとしたときだった。
「ちょっと」
後ろから呼び止められた。
振り返ると、スーツ姿の男の一人が私を見つめていた。
服田が眉を寄せ、不安そうな顔を見せている。
再び鼓動が早くなる。
背中が熱い。
「はい?」
私は動揺を見せないように努めながら、首を傾げた。
「それ」
「え?」
スーツ姿の男が指を差す。
男が指した方へ視線を向けると、地面に白い封筒が落ちていた。私が落としたものだろう。
「あ、ああ、どうも……」
私は男に軽く頭を下げ、それを拾った。
服田を見ると、少し安堵したように息を吐いていた。
私も思わず胸を撫で下ろす。
下手に勘繰られる前に、私は外へと急いだ。服田達が出てくる前に、その場を離れることにした。
「さて」
何とか切り抜けることができたみたいだが、喜ぶのはまだ早い。ひとまず私は帰宅することに決めた。駅前なのでタクシーを拾うことも、駅を利用することもできたが、逡巡して、やはり一つ向こうの無人駅まで徒歩で向かうことにする。
慎重すぎる、臆病だと罵られるだろうが、しかしこれでいい。震えているくらいで、ちょうどいいのだ。それが、私がこの稼業で食べていくために身につけた、小さな心構えだった。
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