第1章 雨上がりの午後、猫を拾った④

 私は来たときと同じ道順で、自宅へと戻った。昼時のためか、近所の車は出払っていた。

 二階の書斎に入り、まずカーテンを閉めた。書斎は六畳ほどのスペースで、左右の壁は天井まで本棚で詰めている。正面に窓とシックな色合いの机があるだけ。

 私は机の上に服田から受け取ったものを一つずつ並べ、それらを確認していく。

 まずは三千万もの札束。百万円ごとに紐で縛られている。通し番号ではない。ロンダリングは済ませてあるようだ。

 次にクリアファイル。中にはA4サイズの書類が入っている。住所、氏名、電話番号、家族構成など個人情報が羅列してある。ざっと見るだけで数百人分は載っているようだ。

「鴨のリストか……」

 私はリストを机に戻し、次に黒い革製の袋を手に取った。中を覗くと、目映い光を放つ石が複数出てきた。ダイアモンドと思しき石が大小合わせて十一個、合計で二十カラットぐらいはあるだろう。

 机の引き出しから道具を取り出し、専用のルーペでその内の一つを覗き込んだ。カットされたエッジを注意深く観察するが、摩耗による丸みは見られない。透過も充分で、輝きも大人しく美しい。本物の天然ダイアで間違いない。全部で数千万の価値はある。

「豪勢だな」

 私は椅子の背もたれに体重を預け、ふっと息を吐いた。目許が重く、怠い。緊張のためか、肩の筋肉も軽く張っている。

「やれやれ」

 そして最後に皺だらけの封筒に手を伸ばした。中身は預金通帳と判子が七組ほど。残高を確認してみるがどれも数千円しか入っておらず、大金が入っているということはなかった。

 服田が解放されても、すぐに連絡はしてこないだろう。しばらく時間を置いて安全が確認できてからのはず。

「無鉄砲な馬鹿なら今夜くらいだが……」

 私は書斎をあとにして、リビングへ降りる。途中で立ち寄って買ったファストフードを昼食に取った。すっかり冷めてしまったコーヒーを飲みながら、私は携帯電話で仲間と連絡を取ることにした。相手はすぐに電話に出て、腹が立つ陽気な声を発した。

「お疲れちゃん」

「そうだな。久々に疲れた」

「上手く警察を切り抜けたじゃん」電話口の向こうでにやついている姿が目に浮かぶ。「落とし物にはびっくりしたけど」

「ああ……」私はため息をついて、目許を押さえた。

「あんたがミスするなんて珍しいな」

「まあな……。間抜けな警察で助かったよ」私は笑った。

「充分感謝するんだぞ、間抜けな警察に」けらけらと軽い笑い声が聞こえる。

「わかってる」コーヒーを喉に流し込んだ。

「で? 収穫は?」

「想像していたよりかは。あとでリストを送るから、すぐに取り掛かってくれ」

「もちろん」

「早ければ今夜にも連絡はあるだろうからな」

「素人らしくていいじゃん。早漏をやさしくリードしてやるのがプロってもんでしょうよ」

「私にその気はない」

「あったら困るっつーの」

「とにかく、あとでリストを送る。向こうから連絡があるまではひとまず待機だ」

「ほんとにお疲れちゃんだな」

「そうだな」私は素直に認め、鼻を鳴らした。「そろそろ引退かもな」

「殊勝だねぇ」

 私は電話を済ませ、残りの昼食を片付けることにした。仲間にメールで服田から受け取ったもののリストを送り、手配を頼んだ。

 ひと通りのことを終え、肩を落とすようにため息をついた。

 さすがに疲れた。肉体的な疲労よりも、精神的なものの方が体力を削り奪っていく。服田からの連絡を待つ間に、私はシャワーを浴び、ひと眠りすることに決めた。


 服田からの電話で目を覚ましたのは午後七時過ぎのことだった。室内はすでに真っ暗で、申し訳程度の月明かりが雲間から覗かせている。体の重さに自嘲気味に笑いながらも、私はソファから起き上がり、コートを手に外へ出た。

 冷たい風が頬を叩き、寝起きの体を容赦なく襲う。私はコートの襟を立て、両手を吐息で温めるようにしながら、ここから一番近くの小学校を目指し歩いた。

 小学校までは徒歩で十分ほどの距離になる。途中、自動販売機でホットの缶コーヒーを買い、それを両手の中で転がした。大通りから中道へ入り、見通しのいい直線を進む。子供達の通学路も兼ねているこの道は歩道が幅広く取られており、緑色のガードレールが等間隔で設置されている。学校が近づくにつれ、民家を始めとした建物、街灯が少なくなってきた。代わりに街路樹が増え、緑が多くなっている。

 わずか十分ほどではあるが、住宅地を離れるとこんなにも明かりがないものなのだろうか。夜の小学校など、大抵の人間は用を持たないのだから、明かりなど必要ないのだろうけど。

 そんな中、ほとんど唯一と言っていい発光している箱があった。最近はめっきりと見なくなった、古き時代の産物、電話ボックスである。

 雨風を凌いでいる酔っ払いや浮浪者がいないことを確認してから、私はその箱に入り、受話器を取った。いつの時代かわからないグラビアアイドルがプリントされたテレフォンカードを挿入し、私は服田の連絡先をコールした。

 相手とはすぐに繋がった。

「もしもし?」

「私だ。大丈夫だったようだな」

「ああ……。まあ、何とかなったよ。証拠がないもんだから、せめてものつもりで、嫌がらせでもしたかったんだろうけどな」服田はわかりやすく舌を打ち鳴らした。

「そんなところだろうな」私は軽く笑う。

「それで、あんたに渡したものだけど」

「ああ、しっかり預かってる。明日か明後日にでも返しに行こうと考えてる」

「そうか……」

 ほっとしたように、服田からは息が漏れた。

「どうした?」

「いや……。あんたがとんずらこいてなくて、ほっとしたんだよ。プロの同業だろ? だからさ」

「なるほど。たしかに、このまま逃げるのも一つの手だがな」おかしくなって、私は笑った。

「…………」

「言っただろう? 私はプロだ。そんな真似はしない。もっと金になるやり口はいくらでもある」

「情報を売るってやつか」

「そうだ。たしかに、現金やダイアも魅力的ではあるが、逆にこれでお前の信用を得ることができた。そうだろう?」

「まあ……、そうだな」

「なら、その方が価値がある。そしてそれは、今後もっと膨らんでいく。目先の小銭を拾うのは、素人だ」

「まあ、あんたには助けてもらったからな。信用してるよ」

「そうか。じゃあ明日の午後にでもそちらへ出向く」

「迎えを寄越そうか?」

「いやいい。接触は最低限にするべきだ」

「そうだな、わかった」

「では、また明日」

「ああ」

 私は受話器を戻し、テレフォンカードを取る。

 呼吸を忘れていたかのように、長く息を吐いた。

 電話を終えたあとも、しばらくはその場から離れなかった。

「いつになっても……」

 言い掛けて、私は失笑する。小心であることは自覚しているが、それ以上に女々しく、情けない自分に驚いた。

 頭から離れらない、切っても切り離せない人がいる。

 十代の少女の恋患いとそうは変わらないほど、今もなお、その人物のことを想っている。

 幾度となく、忘れようとしたにもかかわらず。

「ちょうどこんな時期だったかな……」

 自分の前から突然いなくなってしまったのは、秋口のころ。どうして消えてしまったのか、どこへ行ってしまったのか、それを知る術は自分にはなかった。

 ただ、そのときの秋と冬がとても寒かったということだけ、今でもはっきり覚えている。

 その人は、この世界では伝説的な存在の詐欺師だった。私にとって、師匠のような人でもある。

 私は、あの人からすべてを教わった。

 あの人は、私にすべてを教えてはくれなかったけれど。

 その技術のすべてを模倣するには気が遠くなるほどの時間を要することは明白で、とても人一人の人生では賄えないほどに、精巧で、繊細で、とても美しかった。

 私にはほんの一部を真似るだけで精一杯だったが、しかし、それだけで充分過ぎるほどだった。少なくとも、私はまだ警察に捕まっていない。もちろん、これからも捕まるつもりはないが。

 細々となら、充分に食べていくだけの蓄えはある。綱渡りのような、危険な仕事に手を出さなくてもいい。

 それでもまだこの仕事を続けているのは、やはり未練があるからなのだろう。

「情けないほどに、女々しいな……」

 久々の緊張と疲労、そして冷たい風が厳しい季節だからか。

 私は重いため息を吐ききり、電話ボックスを出た。

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