第1章 雨上がりの午後、猫を拾った①

 目を覚ますと、昨日とさして変わらない朝日が遮光カーテンのわずかな隙間から漏れるように差していた。

 そのことに酷く安堵しながら、私はベッドから起き上がった。

 目許を指で払いながら、ため息をつく。

 カーテンと窓を開け、冷たい空気を感じながら雀の囀りを聞いた。バイク、原動機付自転車の走る音に、近所の住民達の朝の挨拶が耳へと届く。

 いつもと変わらない朝だ。

 それを充分に確認してから、私は着替え始めることにした。

 ワイシャツの袖に腕を通しているとき、ようやく目覚まし時計が己が使命を果さんと鳴り響く。午前六時。いつもと同じである。私はシャツのボタンを留めながら、目覚まし時計を宥め、リビングへと移動した。

 リビングでは五十五型の液晶テレビがいつもと同じくくだらないニュース報道を映し出している。目覚まし同様、彼も午前六時から勤務時間となっている。

 テレビから流れてくる雑音に等しいニュース番組を聴きながら私はダイニングへと回り、コーヒーとトーストの用意を済ませ、玄関へと向かう。サンダルを履き、昨日のうちにまとめておいた資源ごみを手に外へ出た。直接降り注ぐ朝日に顔を顰めつつ、決められた収集所へとごみを運ぶ。

「おはようございます、朝霧あさぎりさん」

「おはようございます。今日は特にいい天気で良かったですね」

 エプロン姿の担当に挨拶を返し、私はやさしく微笑んだ。

「ええ、本当に。しばらくは天気もいいみたいだから、ちょっとね、ウォーキングでも始めようかしらと思ってるんですよ?」

「ウォーキングですか。それは健康的ですね」

「でしょう? ほら、最近はねぇ、お歳を召した方でもスポーツジムとかに通うことも多いって、テレビで見ましてね。それで、まあ、私も簡単なことから始めてみようかしらなんて、思ってみたものだから」

「なるほど、そうですか。歩くことだけでもかなりの運動になるそうですからね」

「そそそ、あんまり張り切りすぎないように気をつけなくちゃね」五十代と見られるエプロン姿の女性は口許を片手で隠すようにして笑った。

 私も笑みを返し、軽く会釈をして、その場を離れた。

 あるところにはあるものだな、テレビの影響力というものも。感心というよりは呆れに近かったが、しかし大多数の人間は何かに影響されやすい。その何かの筆頭がテレビであることは言うまでもない。

「ありがたいことだがな」

 私は口の端を上げて郵便受けから朝刊を三紙取り出す。全国紙、地方紙、経済紙の三紙には目を通しておく必要がある。読む価値があるとは到底思えないが、小心者である私としては無視することもできずにいた。

 家へ戻ると、ちょうどトーストが焼けたところだった。皿に移して、テーブルに着く。苺を煮詰めて作ったジャムを塗り、新聞を読みながら一口囓る。繰り返しになるが、いつもと同じ朝だ。変化の乏しい日常生活ではあるが、家にいるときくらいは刺激のない時間を過ごしたい。刺激など、他で事足りる。

 新聞の記事も、そして垂れ流されている報道番組も、一向に減らない振り込め詐欺の被害について取り上げられている。検挙率の低さが問題となっているが、有効となるような対策も出てきていないのが現状である。本人確認や口座の凍結などでは、この詐欺を一掃することは難しい。もちろん、それは行政もわかっているのだろうけど。

 コーヒーの香りを楽しみながら、私は悦に入り、笑う。

「どうしようもない間抜け共だな。だがまあ、それでいいか」

 朝食を済ませて食器をシンクへと運び、簡単に洗う。ネクタイを締め、スーツの上着を手に取る。火の元、戸締まりを確認し、革靴を履いて外に出た。ガレージへと向かい、赤いハイブリッドカーに乗り込む。ルームミラーで見飽きた自分の顔を確認し、そこに映る顔を大きく歪め、口許の筋肉をほぐした。自分で言うのもあれだが、人の良さそうな、冴えない顔である。

「充分だ。満足してる」

 そう言って自分を慰めてから、私はエンジンを掛けた。

 カーステレオから流れてくるラジオ番組でも、中年女性のパーソナリティが振り込め詐欺についての被害を報じている。今さら特に報じるほどタイムリーな話題でもないように思えるが、警察庁の最新の発表が深刻に受け止められ、槍玉に挙げられているのだろうか。

 詐欺による被害を抑えるためには、いくつか条件がある。だがそれをすべてクリアできる人間はそうはいない。人と人が何らかの形で接する以上、詐欺に遭う可能性は常に付き纏うことになる。人里離れた山奥で仙人になる修行に励む様な生活でもしない限り、それが消えることはない。

 詐欺で重要なことは、鴨を見つけることにある。詐欺の形態、手法は問わない。誰を相手に騙すか、これに尽きる。

 鴨、つまり人に騙されやすい人間を見つけることは、実はそれほど難しいものではない。詐欺師が本気で騙そうと思えば、世の大半を騙すことができるだろう。

 この世で最も鴨となり得る人間、それは、自分は絶対に騙されないと、そう思い込んでいる人間だ。自分は大丈夫だと、何の根拠もなく思い込んでいる人間は、詐欺師達にとって格好の餌食である。

 無垢な人間だけを狙うわけではない。残念ながら純真無垢な人間はそれほど多くはなく、また、大した資産を持っていないことが多い。つまり、一般的なイメージの純真無垢で人を疑うことを知らないような人間は、詐欺師達にとっての鴨にはならないのである。

 もっとも、ターゲットを吟味しないで手当たり次第に電話を掛けまくるという振り込め詐欺の手法においては、その限りではない。振り込め詐欺は素人の子供を大量に使うことでシステマティックに機能しており、警察組織が捕らえられるのはその末端の子供だけという、攻守共に優れた詐欺形態の一つと言える。

 とは言え、所詮は素人だ。ヤクザに飼われているだけの子供も満足に検挙できない警察は情けないと糾弾されて然るべきだ。

 私は駅前のコインパーキングに車を駐め、駅へと向かって歩き出した。パーキングから最寄り駅までは徒歩一分も掛からない。しかし私は駅とは反対方向へ進路を取った。一駅分は歩くことにしている。健康のため、というのは後付だ。

 五分ほど歩いたところで無人駅が見えてくる。ホームにはちらほらと人が見えるが、他の駅に比べればその数は圧倒的に少ない。普通車しか停車しない無人駅など、人がいるだけマシというものだろう。私は回数券を改札に通し、ホームにて電車を待った。電車を待つ間に、自動販売機で今日の朝刊を一紙買い、社会紙面に目を通した。二分ほどしてやってきた赤い四両編成の電車に乗り、真ん中の席へ座った。

 電車に揺られること五十分。目的地の一つ前の無人駅で電車を降り、再び歩を進めた。

 駅前近く、桜並木が続くメインストリートから少し脇に逸れた先。築二十年以上のビルが建ち並ぶその区域は、かなり寂れているものの、まだまだ人が流動的なオフィス街となっている。

 黒ずんだ灰色、くすんだ肌色、褪せた赤土色の雑居ビルに複数の看板が出ているが、どれも例外なく赤錆が垂れていた。

 私はその一つを見上げながら、静かにため息をついた。吐いた息が白くなる。もうそんな季節かと思っていると、ポケットの中の携帯電話が振動した。

「はい」

「首尾は?」

「まだ始めてもいない。良くも悪くもないよ」

「およ。いつになく弱気じゃーん」電話の向こうにいる軽い男はへらへらと笑う。朝から元気なものだ。「天才の名が泣きますぜ、先生」

「お前こそ、大丈夫なんだろうな?」

「もちろん。抜かりはない」

「どうだか」

「ま、そいじゃあ、潰しましょうか」

「そうしよう」

 私はため息をついて、電話を切った。

 仕事の開始だ。

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