出立

@0and0and0and0

出立


 寝室のドアを開けてバッグから拳銃を取りだし狙いを定めて胸に一発、撃ちこんでやるとベッドの夫は間抜け面のままがっくりうなだれて動かなくなった。ああすっきりしたざまあみろ、舐めんじゃないよまったく。


「あんた奥さん?」


 銃声を聞きつけたのか、寝室の奥のシャワーのドアから濡れた髪の女が顔を覗かせ、死体と私を見比べて、これまた間抜けな声で続けた。「撃っちゃったの?」


 馬鹿な女だなあと思いながらそちらに引き金を引こうとしたが間に合わなかった。女もまた銃口を私に向けていた。先に気づかれていたのか。女は片手で拳銃をかまえ、空いている方の手で身体を覆うバスタオルを押さえながら一息に、「当たりゃしないよ、無理無理、あんた素人でしょ、一発目はね、案外うまくいくらしいのよね、ビギナーズ・ラックっていうのかな、でも二発目からはダメなんだってさ、どんなに冷静にやったつもりでも無意識に興奮して手が震えるんだって、プロが抑えるのはそこなんだって、入門書に書いてあった。読んでない? 私と同じじゃないの?」


 私は黙っていた。女は照準をそらさず続けた。「あんたの旦那さん」


「旦那さん、ムカつく奴だね、私がこーんなかわいい小娘の頃に手を付けといて、いまさらになって奥さんがいるとか言いだして、知ってたしそれは別にいいんだけどバレてないと思ってたその根性がねえ、だって普通わかるでしょさんざん自分の家に呼んどいてそしたら誰かと暮らしてることくらい、それでこんなのの言うことをこれまで聞いてたんだなと思ったらなんだか急にバカバカしくなったんだよね、舐めんじゃないよまったく」


 こーんなかわいい小娘というが、今の彼女だって私からすれば一回りも二回りも下、おそらく三十を越すか越さずか、いやもっと若いか、茶髪で、まあ絶世の美女と言うわけにはいかないが尖らせた唇には愛嬌がある。

 女がひとつくしゃみをした。こちらを向いた銃口が揺れた。

 「髪を拭いたら?」と私は言った。女は目線で私の銃を示し、肩をすくめた。


 いっせーのせで銃を捨てる。ごとりと重たい音がふたつ。


「暴発が怖いから雑に扱うなってさ。入門書に書いてあった」

「やってから言わないでちょうだいよ、ああフローリングが傷になる」


 しかしなるほど話が見えた、気の合う二人もいたものだ、いやあ私が早くて良かった、と思っていたら女は銃を拾い上げ夫の死体を追加で撃った。パン。「先を越されたけどこれくらいはね」それからまた銃を床に投げ捨てた。「傷」「すいません」女は口先で謝った。


「バカだねえ、いまの撃たなきゃ証拠も残らなかったのに」

「せっかくだしさ、わかるでしょ」

「そりゃまあね。これからどうするの」

「なーんにも考えてない」

「だめじゃない」

「めんどくさくて。奥さんこそどうするつもりだったの」

「私もなんにも考えてない」

「逃げちゃおうよ。どうせ一軒家だよ。朝になるまで誰も来やしない」

「逃げるってどこへ」

「キューバ」


 なにを言っているんだこの女は。まじまじと顔をのぞきこむと、女はバスタオルで髪を拭きだした。無造作な手つきでわしわしと、雫を散らしてタオルを動かし、裸体を隠す様子もなく、まるで犬でも拭いているみたいに。女はやせてもふとってもいなかった。腕の動きにあわせてふたつの乳房がぶるぶる揺れた。乳輪は色が薄く、ふっくりと盛りあがっていた。ひとしきり済ませてしまうと女は大股に歩きだし、夫の死んでいるベッドの端に腰掛けた。女が隣を指し示すので私も並んで腰掛けた。二人分の人間と一人分の死体の重みでスプリングがぎしと軋んだ。シーツは意外と汚れていない。夫は相変わらず間抜け面だ。


「キューバでさあ」


 女はここでまたくしゃみをした。早く服を着ればいいのにと思った。


「キューバでさあ私、ダンスを習おうと思うんだよね」

「ダンス」

「そうダンス。こういうの」


 女は立ち上がり、裸でなにかのダンス――サルサだかルンバだか――らしきステップを踏み、それからもう一度私の隣に戻ってきた。踊りの種類なんてタンゴくらいしか知らないが、キューバらしいかと聞かれれば確かにそのようなものに見えた気もした。


「それでさ航空券も取ってあるの。今夜の便。深夜便」

「へえ」


 さっきなんにも考えてないって言ってたじゃないの、と思わないでもなかった。こんな深夜に飛ぶ飛行機なんてあるのだろうかとも考えた。


「ふたり分。奮発してファーストクラス」

「うらやましい」

「何言ってんの奥さんも乗るの。さ、後片付けして空港に行こう、準備して」


 言いたいことだけ言ってしまうと女はパンと手を叩き、バスローブを羽織ると、そのままてきぱきと証拠隠滅に動き出した。私も一緒になって、推理小説やドラマで得た知識を総動員して、ときに議論をたたかわせ、ときに補い合いながら、ドアノブの指紋だの通帳だの鍵だの防犯センサーだのシャワー室の頭髪だの体液だの窓ガラスだの、その他現場のあらゆるディティールについての処理をした。


「物盗りに見せかけたらいいんじゃない。どうせ持ってくでしょ? 旅費とか、貴金属とか。物盗りの気持ちになって片付けたら」

「いいけど、でも私そんなのわかんないよ、物盗りなんて野蛮なことこれまで考えたこともないもん」


 これには思わず吹きだした。自分の発言の愉快さに、一拍遅れて女も気づいた。私たちはひとしきり声を上げて笑った。どのみちこれから私たちは蒸発するのだし、この家が発見されてしまえばぶっちぎりで第一容疑者になるに決まっている。物盗り作戦はやめようということになった。

 でも結局はそういうことだ。私だって人殺しなんて野蛮なこと考えたこともなかった。だからこれが正しいやり方なのかどうかははっきり言って確信が持てなかったし、もちろん女もそうだった。それでも一度始めたことは終わらせなければしかたがない。私たちはやれるだけやったと思う。

 掃除が全部すんでから、サムソナイトのキャリーバッグをふたつ、よく使っているものとそうでないものを探してきて、とっくにもとの服に着替え終わって、爪なんかいじっていた女を呼んだ。ウォークインクローゼットを指差すと、女は最初に私の指先を、次にウォークインクローゼットの扉を見た。「私の服をなんでも持ってって。下着は空港で買えるだろうから」女は襟つきの地味めなセットを二着と黒地に赤の花柄のワンピースを選んだ。私は去年買って以来まだ着る機会のなかった青のツーピースをキャリーバッグに詰めようとして、ふとこれは皺になるかもしれないなと思ったらなんだかもったいないような気がしてきて、「これもう着ちゃおう、ここで」「いま?」「いま」

 着替え終わると私たちは並んで姿見の前に立った。二人ともパーティー帰りみたいな格好だった。女が銃を構えて映画のポーズの真似をした。私も同じように映画の真似をした。たぶん女の思い浮かべたのとは違う映画だった。


「さあ、いざゆかん、君よ知るや南の国、常夏の国」


 女がふざけてくちずさんだ。私は別のことを考えていた。

 そんなにうまくはいかないだろう。実際のところ女は本気で夫を殺すつもりなんかなかったんじゃないだろうか。だって航空券は、もしそれが本当にあるとすれば、二枚あるのだ。私が今夜こうして夫に穴さえ開けなければ、脅してでも一緒に出立するつもりだったのかもしれない。女の持っている二枚の航空券のうち一枚はきっと夫の名前で取ってあり、私は夫に成り代われず、名前が違うのを咎められるだろう。たぶん空港には警官が待機していて、私と女の、いや夫と女の乗るはずだった飛行機が発つのを眺めることになるだろう。私たちの精一杯の処理はどこかが甘いに決まっている。もともとお互いひとりであれば、あとさきなんか考えるつもりはなかったのだ。

 でもいま未来の話をするのは楽しかった。とりとめもなくあれもこれもと空中に楼閣を建てるのはとても楽しかった。私と夫はあてどなくこれからの話をするようなことはなかった。キューバ! キューバこそ私たちの会話から最も遠い国だった。それは足元にありながら近すぎてどこにも見えない国だった。でも今やそこは私たちの理想郷たりうる場所だった。夫にも憧れてやまない国はあったのだろうか、だったらそれについて話すべきだったのかもしれない、もし一度でもそうしていたら、そしたらこんなふうには私は夫を殺さなかったかもしれないし、夫だってベッドで血を吹くようなことはなかったかもしれない。私たちはそれぞれ自分が十分に理知的でドライで現実的だと思っていられるような話をした。それだってべつに悪くはなかった。ただ自分が人殺しに昂揚するような女であるということに今の今まで気がつかなかったのは私の不運だったし、人殺しに昂揚するような女とめあってしまったのが夫の不運で、でも人殺しに昂揚するような女がもう一人いたのは私の幸運だった。男をひとり蜂の巣にしたからには私たちはどうしてもキューバに行くのだ。


「キューバについたら探偵になろうかな、かっこいい車なんて転がしちゃってね」

「奥さん私本気で言ってるんだよ。私たち本当に逃げおおせるの」


 私たち本当に逃げおおせるの。女の声が部屋の床まで落ちていった。

 ふたりして、なんとはなしに顔を見合わせた。突然、私たちの間には夫の死んだ空気が流れだした。女は若く、魅力的で、向かうところ敵無しというように見え、私は車の鍵をさがすふりをしてその実言うべきことをさがした。女は私を待たなかった。すぐに動作を再開した。女はキャリーバックを引きずって先に廊下を歩きだした。がらがらと車輪の音がした。

 女の背に向かって、ねえ私ダンスを習うならタンゴがいい、タンゴを踊りたい、と言うと、振り返った女は、そう、タンゴ、じゃあ奥さんはアルゼンチンに行かなきゃね、だってタンゴを習うならぜったいアルゼンチンだもの、と優しく言った。

 私は女に微笑み返した。そして寝室のドアを閉めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

出立 @0and0and0and0

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ