第23話 a:a - 2 不易の花
パルクール、というスポーツがこの時代にはあったのだという。
走る、跳ぶ、登るという動き――周囲の環境を利用した身体動作を取り入れ、いかなる地形でも自由自在に動くことを目的の一つとした、フランス発祥のスポーツだ。フリーランニング、とも呼ばれている。
私もその訓練は受けた。……もっとも、スポーツ用ではなく実戦用だが。
息をひそめて、四階建てほどのビルの屋上からタイミングを計る。これくらいの中途半端で、落ちたら死ぬかもしれないし失敗したら気絶する間もなく地面に直撃しそう、という実感がある高さが一番足が竦む。恐怖心を慣れさせても、嫌な予感が働くのには十分な高さだ。
夏至を過ぎても夕方5時台はまだ日が高く、日中の焦がされた空気が足元から吹きあがる。
私は屋上に取り付けられた給水塔の影にできるだけ身体を押し込めた。ここまで登ってきたのは、
見られている、気配。
不可視の生体兵器、BACだ。あれらは制御を失い、人間を襲い、時に捕食する。
私は元・駆除部隊第8班、俗称、秘匿実験部隊の元・隊員である。
『RTAと呼ばれるBACの対抗組織のもつ生体兵器専門の駆除部隊は通常、不可視とされるBACを生まれつき視認できる体質だ。BACは世間一般の知るところの動物が異常に進化したり過剰に肥大化し、さらにステルス性をもち人間を自律的に襲う生物兵器だが、いわゆる人間サイドにも突然変異はおこった。BACのステルスを破ることができる視覚以外にも、特異な体質をもつ者が現れた。彼らは人間よりもBACにより近い体質をしており、ロールA、『生物兵器のための兵器』という役割を与えられ、RTAの駆除部隊第8班として編隊されていた』
……ということだ。さらにあまりうれしくない情報としては、ロールAはBACからは特に美味しそうに見える。
正しくは、自分たちの生態系の脅威となる存在から選り好みして捕食する。種として生き残るために本能的に正しい行動をとっているのだとしたら、開発者は生命に対して実に正しくプログラムをしたのだろう。
いつだったか駆除部隊にいた、いけ好かないロマンチストはこう言った。『共食いに近い行為そのものに背徳感やそれに付随する興奮を感じる生き物だとしたら、あれらは実に、野生というよりは人間的であり、機械的に制御されている』と。冗談じゃない。あんな片っ端から人間を喰うための兵器が人間的だなんて、やめてほしい。……ロールAは人間扱いされないのに。
思い出して胸糞が悪くなった。話を戻そう。
ほっつき歩いているだけで格好の餌になる私だが、気配を感じて顔をあげると、そこには何もいなかった。それもそのはず、……今の私に、BACを見ることはできない。
見ることが、できなくなってしまった。
ちょっとした事情でもなんでもなく、ある日突然見えなくなった。原因はあるのかもしれないが、分からないと言われた。
辺りの景色は変わらず見えるのに、そこからすっぽりと生体兵器は姿を消した。
結果としてヘマをやらかして片脚も失くしたが、高性能の生体義肢のお蔭でこうして今でも歩けるし、走れるし、戦える。
まだ動けるから、駆り出されている。
見えなくなっても、『兵器を殺すための兵器』としての役割は終わってくれなかった。
私には、まだ餌としての才能も、人間離れした怪物さながらの体質も、残っているから。
ここへ来るきっかけとなった事件が、あろうとなかろうと。私の大嫌いなあいつが、
怪物が見えなくなって、死にやすくなっただけだ。
それ以外は、何も変わらなかった。
だから、変わらずBACを殺すだけだ。そこにいるということは、見えなくてもわかる。前より少し難しくなったけど、BACと戦えるのなら、そうするよりほかはない。行為自体は難しくなっても、その理由はいたって単純なままだ。
何も、変わらない。
高い位置でくくった白髪が落ちる。風を受けて膨らんでいた服が、身体にまとわりついた。
今だ。
フェンスに一息で飛び上がり、縁を、蹴った。
飛び上がる。
ほんの一瞬だけ、重力から自由になる。
すぐに私の身体は落下を始める。
壁を蹴って加速。
風の断ち切れた方向に向かって、強化ナイフを振った。
それだけ。
上手くいけば死なない。失敗すれば死ぬ。
実に単純。
――手ごたえがあった。身体のどこかには当たった。
空を切ったように見えるが、確実に深く深く、肉に断ちこんだ感覚がある。
目には見えないが、いる。
不可視の怪物は、落下していた私のブレーキになる。
怪物は咆哮をあげ、コンクリートの壁をずり落ちる。
音の大きさと範囲からして、サイズは中型バイク程度。咆哮も、鱗のあるワニのような種類ではない。
更にブレーキを掛けるためにもう1本ナイフを刺す。ギッ、と軋むような声がして、顔から腕にかけて怪物の体液がかかった。……熱くない。酸の類ではない。鉄の臭い。大丈夫。ただの返り血だ。
深く血管を抉ったからか壁に貼りついていた怪物は維持力を失う――要するに、私は再び落下を始める。
両腕を強く押し込んで、怪物を自分の下にする。
鈍く地面と衝突する。落下点はビルとビルの間の隙間。
見えないクッションが室外機を圧し潰した。
のしている足の下には毛並みのような感触。湿り気のある息から頭部の位置が分かる。突き出したナイフは丁度首に刺さっていたらしい。真横に薙いで引き抜く。ぶしゃりと血が噴き出す。
続いてチリチリとコンクリートを短い爪が弾く音。――後ろ。
ば、と短い風圧。
下から上方向へナイフを振った。顎の下のような窪みに刃があたった感覚。ぞわりと一瞬背筋が粟立つ。……もしかしたら、口腔内へ腕を突っ込んでいったんじゃないか。そんな思考。
喉、喉元。口じゃない。腕をただ振り上げる。――堅い、砕き割ってしまえ。舌の根に触れた。腕じゅうに粘つく感触。
私の喉笛に喰らいつこうと、耳元でガチガチと牙が噛み合う。血生臭い息と、ぼとぼとと、胸や腹、腿に生暖かい液体が落ちる。視覚的には、水よりも存在感のない液体だ。けれど、パーカーに染み込んでいくだけ重くなっていく。伸びた舌が、ぞろりと頬に触れた。
吐きそうだ。
軟口蓋から頭蓋底を砕いて、突き立てた切っ先が脳天に届いた頃になって、やっと耳元の騒音は止んだ。
手早く腕を抜く。
抜ききった時に、脚を掴まれた。引っ張られる。私はバランスを崩し、ナイフを引き抜いたばかりの怪物の死骸に頭を突っ込む。臭いも体温も少ない怪物の表皮は、噴き出した血で温かい。引きずられる。左足。爪が食い込む。痛みの感じ方は以前と変わらない。そういう風に、調整してもらっている。
生体義肢だ。雑に扱われると困る。
引きずり込まれる方向に、持っていたナイフを投げつけた。
何もない空中で、ナイフは止まった。
ぴたりと、空中で静止している。
私もそこで動きが止まった。
……静かだ。耳をそばだて、自分の呼吸も心音もできるだけ抑える。
まだ、いないか。
もう、ここには、いないか。
泥のへばりついた空き缶。真ん中で曲がった煙草の吸殻。ポリバケツの影。ひしゃげた室外機。非常階段の手すり。自分が落ちてきたビルのフェンス。そのどれもが、不意に動き出さないか。じっと、見て。それらに変化がないことを確認してから、宙で止まったままのナイフを手に取って、立ち上がった。
左足は、ほんの少し表皮が裂けて血がにじんだ程度で済んだ。こちらではメンテナンスしてくれる人などいない。何かあっては困る。神経の接合が切れてしまってはさすがにもう諦めるしかない。
……以前なら、捕まれる前に反応できたはずだ。入院期間はそれなりに長かったが、ここへ送り込まれる前にしっかりとリハビリをした。にもかかわらず、やはり以前と同じように身体が動かない。記憶と実際の動きにギャップがある。限りなく生体に近い義肢のはずだが、そう簡単にはいかない、ということか。問題なく扱えると医者は言っていたが。ブランクが大きいと仕方がない。
ひたひたと、まるで汚れていないように見えるナイフの刀身から、液体の滴る音がする。
ステルス性能に優れた怪物だ。もう、血の臭いもしない。紙のような、酸素のような匂いがした。
それでも、私は頭から爪先までびっしょりと血で濡れている感触がある。……こんなにも早く服を一揃い駄目にしてしまうなんて。傍目には乾いたままに見えるハーフパンツは腿に張りついている。ぬめった頬を拭った手を見ても、何もついていない。
……拠点にしているホテルに戻る前にどこかですすがないと。……そのままどこへ触ったところで、誰にも汚れているようになんて見えないけど。
どうせ捨てるパーカーだと、血が染み込みきっていないポケットの中で手を簡単に拭おうとすると、指先に紙切れが当たった。
……炎条の落とし物を忘れていた。恐る恐る引っ張り出すと、折りたたまれていた紙はぴっちりと貼りついている。湿っているようにも見えないのに、湿り気のある液体で閉じられている。破れないようにそっと開いた。……乾かせば、なんとなかなるだろうか。今度は開いたままパーカーの奥に収めておく。元の状態に戻すことはできないだろうから、返す時には、ちゃんと謝らないと。
私は、
馬鹿げている。この東京にどれだけの人間がいると思っているんだ。連絡手段があるわけでもないのに。夢を見るのもいい加減にしろ。
ゆらりと歩き出す。辺りは暗くなり始めている。じめじめとまとわりつく空気は変わることなく、暑さが張り付く。
脚の傷は塞がり始めていた。……18時を回ったらしい。嫌な体内時計だ。私の体組織で作ってある義足も、きちんとルールに従って再生する。
被った返り血が自動で綺麗になることはないので、額や頬に汗と血が混ざって張り付いた髪の毛を引きはがす。硬い整髪料を付けたような触り心地だ。ナイフにまだ残っている血を振り落として、パーカー下のホルスターに収めた。
ここにBACの回収班は来ないが、空気に触れたBACの血や自己融解する死骸から腐敗臭はほとんどしない。……BACの死体を密室に押し込めばさすがに悪臭がするだろうが。BACの死体は、通常、非常に微生物に分解されやすくできている。特にこの時代のBACは私のよく知るものよりも数段階早く崩壊するはずだ。死体は放っておいていい。本格的にBACがいたことの証拠隠滅を図るなら、爆破してしまうのが最も手っ取り早いのだが、一歩大通りに出れば民間人もそれなりにいるし手頃な爆薬もないのでその案は不採用とする。旧居住区や廃棄区画でするのと同じような対処はできない。
きちんと、人間がいて、住んでいたり、生活していたりするのだから。
私は、それらを最大限守らなければならない。
ビルの隙間から大通りに出ても人通りはまばらだ。まだ認知されていない不可視の生物兵器がうろついていようと、それが通り魔の仕業と謳われようと変わりなく、仕事のあるサラリーマンや買い物帰りの人が足早に、硬い表情で歩いている。コンビニや居酒屋の前でたむろしバカ騒ぎする人たち。今日、明日、自分が死んでしまうかもしれない、ということを少しだけ本気にしているものの、誰もがそうなるだなんて思っていない。自分だけは大丈夫。誰かが助けてくれる。自覚はなくても、きっとそう考えているんだろう。
照明の落ちた自動ドアに自分の姿が映った。乱れて部分的に固まった白髪。衣服は半乾きの汗で張り付いているだけのよう。
実際はBACの血でべっとり濡れた私の後ろを、人や車が通り過ぎていく。
死にかけて、傷は治って、怪物は少し減って、――誰も、そんなことは知らない。
誰にも見えていない。
これだけ汚れた感覚があっても、私にだって私が汚れているように見えないのだから。
頬に、ぽとりと雫が落ちる。続いて、頭や肩にも雫が落ちる。
――夕立だ。降り出した雨は、あっという間に視界が白むほどの豪雨となった。
周囲の人々は空を見上げ、中には腹立たしそうに悪態をつく人もいる。誰もがそろって歩調を速め、地下道に向かって走り出す。
みるみるうちに私のパーカーは雨を吸って、浅いグレーは濃く深いグレーへと変色して見えた。
「……なんで」
その先の疑問は頭が考えることを拒否した。だから、口から零れることもなかった。
雨音に私の呟きは吸い込まれる。
私はしばらく自動ドアの前から動けず、立ち尽くしていた。
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