第18話 amateur - 17
「処方薬は鎮痛剤と抗菌薬になります。何か質問は?」
薬剤専門の医療スタッフの言葉に首を振って、指紋認証を済ませる。
「611、なるべく帰投後すぐに医療ブースに来るように。帰投中の予想外のトラブルもあって現場が混乱していたのはこちらの失態です。仕事熱心なのは結構ですが、負傷したままドックブースへ向かわれるのは困ります。RTAの貴重な戦術リソースを保護・治療するのが我々の仕事なので……と
治療を担当した医師にはさんざん御小言を言われたが、追加のお小言が待っていようとは。
まあ、いろいろとズルをしたから無理もない。
「以後気を付けます。お世話になりました」
深々と頭を下げると、伝言を伝えて僕への仕事を終えた医療スタッフはそそくさと次の受付番号の呼び出しボタンを押す。
僕は空のボストンバッグを抱えて、慌ただしく駆けまわる人たちをすり抜けた。ストレッチャーが通るため、旧居住区の火災を報じるモニターの前に集まった人たちが散らばるように救命士が促すと、彼らはやっとその場を離れて行った。
エレベータホールは薄暗く、ほとんど人はいない。遠くで、
片手でずり落ちかけたボストンバッグを戻し、左手で階下行きのエレベータを呼びだした。
僕の折れた右腕はギプスで固定している。ヒビが入った程度で済んだらしく、修復用ナノマシンの投与に許可も下りたので回復は1週間くらいと言われた。竜種のBACとの戦闘でつけられた首の傷と背中の傷はそれなりに深かったらしく、場所によっては数針縫った。こちらの方が折れた腕より回復に時間がかかるだろうというのが救急担当の見立てだった。
もっとも、最後に顔を合わせた古い付き合いの主治医によれば、市野くんなら2,3日で治るでしょ、上手く誤魔化しときなさい、とのことだった。エイダほどではないにせよ、僕の再生力もそれなりだ。検査値やらなにやら、人と多少違った数値が出やすいのでこの辺りは主治医の
重傷者を収容したエリアに向かった。集中治療室を出て個室に移ったと顔見知りの看護スタッフから聞いていた。部屋番号も確認済みなので真っ直ぐに目的の病室に向かう。人望が厚いのも考え物だなあ、と思う。
液晶で部屋番号を確認し、すっと深呼吸を挟んだ。緊張する必要はないのだが、気まずさがないでもない。
ノックの後すぐに返事があって、扉をスライドさせた。
「よっ、
束の間の部屋の主は呑気そうな笑顔を浮かべて至って快活そうに手を振っている。……ベッドの上で、包帯に巻かれた筋肉質の腹を晒して。防護創のあった左腕には大判のガーゼがテープで止められている。点滴で輸液されている右手をぶんぶんと振るものだから、やめてほしい。逆流する逆流する。
「相中……調子は?」
なんとか上擦らずに尋ねることができた。
「見ての通りわりかしピンピンしてる。いや、病院嫌いの市野が見舞いに来てくれるって思ってなかった」
「それは……来るよ。当事者だし……」
本気で意外そうに相中は言うのだった。
もっと責められるものかと構えていたのに、嬉しそうにされると反応に困る。
「お前がいなきゃ死んでたかもって潮音先生言ってた。ま、座って話そうぜ」
と、処置された左手で壁のパイプ椅子を広げようとするので制止した。自分でやる。それよりも前に言うべきことがある。
「……お礼を言われるようなことは。そもそも、通信が取れない時点で撤退してたら、こんな怪我しなかった。本当に、申し訳ありませんでした」
一言一言が苦い。言って深々と、頭を下げた。声が震えそうになるのを、押さえつけていた。
落ち度を言い始めたらキリがない。きっぱりと誠意を示すことぐらいしかできなかった。
病室は沈黙の空気に包まれていた。個室でよかった、と少し思ったが。
「えーっと…………」
ややあって沈黙を破ったのはアイナカだった。
何を言われるだろうか、と頭を下げたまま身を硬くする。
「頭あげてくんねぇと話がしにくい、かな」
語る相中の語気は柔らかい。どうして、という言葉よりも、弁解が口を衝く。
「最初に意地を張ったのは僕だ」
「オオカミ型がでた時に散会しようっていったの俺じゃなかったっけ?」
「それだって、相中の提案に従っていたら」
「……従ってたら、あの子が助からなかっただろ」
相中は穏やかに続けた。
「俺も生きてる。あの子も助けられた。お前も……なんか腕が折れちゃってるけど生きてる。だったら、それでいいだろ。だから、頭あげてくれ」
恐る恐る、顔を上げると、相中は快活な笑みを向けてくれていた。……めいっぱい、ベッドの端まで下がって。
「……そんなに引かなくても」
「こんな感じで謝られるのに慣れてなくて」
へへ、と笑っている顔が引きつっている。
「だとしてもそんなに引かなくても」
「なんか思ってたより市野が重傷だし、あのさ、……お前が頭下げた時に背中から血が滲んだんだけど大丈夫か」
「そういや痛い気がする」
「ナースコーーーール!」
「だっ、大丈夫大丈夫」
ボタンへ手を伸ばしかけた相中を再び制したらひとまず押しとどまった。
「お前結局無茶してんじゃねえかよ!」
「声を張るな! あんたの傷が開く! 生きて帰れたからそれでいいだろ!」
「俺の台詞だったのにまるで説得力がない!」
へにゃりと気の抜けた笑みに拍子抜けする。
ああ。
生きて帰れたんだな、と。
同行者を、この人を、死なせることがなくて。生きていることを直に、確認できたのだと。
すとんと、はらわたに響いた。
「あれ、市野涙目」
「にはなってない。盛るな。脚色するな」
「そうだなあ、脚色はマズい」
相中の笑みに芯が通る。
あっ、これはまずい、と察しがついた。
相中はのそのそと元の位置に戻り、サイドテーブルのタブレット端末へと手を伸ばす。
「座って話そうぜ、市野。報告書のお時間だ。喋ってもらうぞ」
パイプ椅子を顎で示す。逃がすか、と顔に書いてある。
「噂好きの看護師から聞いたぜー。……俺たちが離脱した後の旧居住区で火災騒動あったらしいじゃねーの」
ナースコールのボタンを握り込んでいる。押されれば最後、もうしばらくは僕が嫌いなRTAの治療室にいなくてはならない。
それにさ、と相中は間を溜める。
「俺、報告書作るの嫌いだし」
「……そっちが本音か」
わかったよ、と大人しく椅子を引っ張り出す。ボストンバッグを脇において座った。
「それは?」と相中。
「銃、バタバタしてたし現場に置いてきちゃった」
「は?」
「壊れちゃったし」
「え? それでバッグだけ?」
「そんなとこかな」
「パーツの回収もせず? シュウ怒っただろ」
「昨日はたっぷり絞られた」
うわあ、と相中がもらす。お気の毒に、と言いたげに。
「それはいいから、報告書。早く仕上げときたいだろ?」
と返すと、相中はもっとげんなりした。
「ただでさえ書類溜めてるから
「無理かな。……筋金入りの鬼畜仕事人間、泣く子も舌を噛み切る
「なにその物騒な通り名」
「同期が言ってた」
「本人が聞いたら舌を噛み切るより前に引っこ抜きに来るぞ」
「まあその同期ってのがハイトなんだけど」
「あいつ命知らずだな! お前とは違う意味で!」
「えっと、それで、どれくらい入院になりそう?」
「1週間。ま、3日もあれば抜け出せるだろ。こんなとこ1週間も居たらカンが鈍る」
「いる物とかある? 着替えとか持ってこれるけど」
「あー……そんじゃあ、病室抜け出せるように普段着かな。シュウに頼んだら怒られたし、眞守は俺に書類作業させたいみたいだし」
「治療の時に裂いちゃったからな」
「おう。しかも強化インナーごと引きちぎったみたいになってたな」
「…………」
事態が事態なので。
「BACの腕力ってすごいよな」
「あ、ああ。そうだな」
「? 今ビビる要素あった?」
「……オオカミ型の群れなんて、そうそう単独で遭遇したくないなあーって」
ははは、と笑っておく。
……僕のことをストレートに指摘されたのかと思った。
相中は僕がロールAだということを知らない。
「あー、それも聞いときたいんだけど」と、タブレット端末を引き寄せて、相中は録音機能をオンにした。うわ、何厄介なことしてくれてるんだろうこの人。
「火災があったのって、俺らの任務の目的地、っていうか――討伐対象のヒツジ型が巣を構えてたところだって報告が上がってて。公園1個とそこを中心に半径50メートルの地盤が陥没して、お蔭で火災の被害範囲は広がらなかったし、自然消火した」
「ああ。相中を搬送していたヘリから見てたよ。……巻き込まれなくてよかった」
「地下の劣化したガス管の爆発……らしいけど、マジ?」
「さあ? 爆発なのは確かだと思うよ。火柱が上がってたし。報道でも使われてるヘリの記録映像でも、あれはガス管の爆発だったって分析されてる」
「ま、それは専門家の仕事だからな。ドローンの数もそんなにないし、旧居住区だからあまり問題にもならないし、お前が爆発に巻き込まれた訳でもないからな。……俺のとこにお前の端末置いて行ってたろ。今日市野の処置が終わるって聞くまでは、お前が消し炭になったかと思って心配したんだからな」
「しょうがないだろ。救助のためにも発信機能のある僕の端末を持ってどこかへ行くわけにもいかなかったし」
「救援に来たときにシェルターの外で市野が対応してくれてスムーズに終わったー、って1班のやつらも言ってたらしい」
「それはよかった」
まあ。救助が来る30分くらい前まで例の公園にエイダといたけど。
僕がそれを口にする前に、相中はハッとなっていった。
「そうだ、お前と一緒にいた、あの子は? RTAで保護したのか?」
僕はゆっくりと首を振る。
「RTA所属の駆除部隊員として、提案はした。けれど、拒否された」
「じゃあ、あんな場所に放って帰ったのかよ。……妙だと思ったんだ、お前の話は聞いても看護スタッフからは民間人の白髪の子供が保護されたなんて聞かなかったし」
「悪かったと思ってる。でも……本人の意思の方が大事だ」
「だからって、危険区域に置いていくことはないだろ」
「ヘリに乗せられる重量にも制限がある。悔しいけど、助けられる人間にも、限りがある」
努めて冷静に言った。
「RTAを気に入らないと思っている人間をRTAの管理下に置いていてもいいことはない。地下の居住施設にも、食料にだって限りがある。BACに対処するためのリソースは貴重だ」
そうだろ、と。同意を求めた僕を、相中はやるせなさそうに睨んだ。怒りたいけれど怒れないのだろう。相中だって分かっていることだから強く言えないと分かっていて、僕はそういう言葉を選んだのだから。
その点での非難なら、甘んじて受け入れよう。
結局、先に折れたのは相中だった。
「……お前って本当、RTA所属の駆除部隊員だよな。いい意味でも、悪い意味でも」
「褒め言葉として受け取っておく。……僕にできるのは、あの子が強く生きてくれることを願うだけだよ。……提案はしたからさ」
「伸べた手を取るか取らないかは、本人の選択次第、って?」
「そんなとこかな」
「結構残酷だよな、お前」
「絶対なんてないから自分に保険を残しておきたいんだよ。何にでも責任がついてくる時代だし」
「お前にはもう背負いきれないものでいっぱいになってそうだな」
「背負える容量そのものが大してないからね」
僕にとれる責任なんて、知れている。その部分で傲慢になったって何にもならない。
自分には全部を助けることができると豪語できるはずもない。だから、相中の批判はもっともだ。
それができれば、4年前、もしかしたら。…………。やめよう。
見損なったと相中に思われても、別にかまわない。
それに、RTAが絶対的に正しいとは、限らない。身をもって知っていることだ。
我ながら『RTAを気に入らないと思っている人間をRTAの管理下に置いていてもいいことはない』などとよくも言えたな。
自虐が過ぎる。
相中は肩を落としていたけれど、さっぱりした顔をしていた。
「俺やお前がヒツジ型を片付けたわけじゃねえが、任務もきっちり終わってるわけだし。……追加報酬はオオカミ型を片付けた分で、ってこれはお前に配当……」
相中が気遣うように僕へと視線を起こす。
「ないと思う。あったとしても、相中の功績だから僕は受け取らなくていい」
僕の始末したBACは今頃、窪地になった階層で灰になっている。
そのためにオオカミ型も竜型も頑張って公園まで運んだんだし、燃やすにせよ途中で逃げられては困るから先にヒツジ型だけ始末はしておいたんだから。
C4をはじめとする持ち込んだ爆発物は全部使いきったし、医療ブースで処置を受ける前にシュウさんにはたっぷり絞られたし。多分、室長のお小言も控えている。
『市野恢が始末したBACの数』が増えてしまうと困る。
僕はあくまで、『新人駆除部隊員』なんだから。
「ま、俺もやり漏らしがあったし、ガス漏れの危険性もあって回収班入れられないみたいだし、望み薄だな。そんでもボーナスおりたら、メシでも行こうぜ。俺らの生還と快気祝いに! お前抜きじゃ意味ねぇし、引っ張っていくからな」
「……ありがと」
満足そうに相中は頷いた。
「生きてるからメシが美味い。……病院食なんかそうそう食えるもんでもないけど、点滴じゃ腹はふくれねーし。」
「しょっちゅう病院食のお世話になってる連中が聞いたら羨ましがる発言だな」
「俺、仕事で怪我するタイプじゃないし、食って治すタイプだし。風邪でも怪我でも」
相中のにっかりとした景気の良い笑顔は、嫌いじゃない。
それこそ、生きているから見られるのだと思う。
「怪我前提の仕事なんだけどね」
「あー、だから完全にこれは俺のミス」
ぺしぺしと自分の腹を打って、痛っ、と声をあげる相中。
……なんか。地上階での相中奈成の負傷・入院騒ぎがいよいよ真相味を増してきたというか。
「相中、入院するような怪我は?」
「片手で数えるくらいだし、担ぎ込まれたのは今回で2回目」
けろりとした顔で言う。これで嫌味がないのだからたちが悪い。
「……上で、騒ぎになってる理由がよくわかった」
「あー、あれ? 別に俺一人で帰ってこられたわけでもねぇのに大袈裟だよな」
「そうじゃなく。相中が大怪我したことそのものがビッグニュースになってる」
「ほっとけほっとけ。何も本質なんざ見えちゃいない連中だし」
「……録音してるけど大丈夫?」
「大丈夫。俺と
「うちの班長と2班の副班長……」
「むしろ笑って聞いてくれるんじゃね? その方がいいや。俺だって、変にちやほやされたいわけじゃないし。……本当、困るっていうか。そうなりたかったんじゃあねえのに」
やけに投げやりに言うものだから、不思議だった。相中だって四六時中ご機嫌な快活人間とはいかないだろうけれど、珍しい反応だった。
「……何かあった?」
つい、そう尋ねてしまうくらいには、影のさした表情が気になった。
ともすれば、別行動をとる以前の相中とは、ほんの少しだけだが雰囲気が違う。
確信をもってそうだと言えるほど、相中のことを深く知っているわけではない。ただの直感だ。
「何も?」
相中はほんの一瞬、露骨に狼狽えた。すぐにそれを取り繕ったのも、目に見えてわかるほどの動揺だった。
「その左腕の怪我は? ……それは、BACじゃないだろ」
僕の見る限りでは、防護創だ。刃物でついた切り傷だ。
「これは、腹の怪我で血が減った時に、ふらついて……、あれだ、ガラスで切っちまった。体重が乗るとガラスでも結構ザックリいくもんなんだな」
……相中は嘘を吐いている。
指摘を取り繕ったのも、隠したいことがあるからだろう。そして、おそらく、友人である眞守班長にも聞かせたくないことだ。……だったら、僕がそれ以上立ち入ることはない。
僕だって、先ほどまでの会話で隠していることは山のようにある。嘘が下手な分、隠すしかない。
一つの可能性としては、
「それこそ上のやつらが知れば笑っちまうだろうよ。相中奈成の負傷は自損事故だなんて」
だから内緒な、と、腕から視線を切って再び僕を見た時には、差した影はどこかへ消え失せていた。
――ややあって相中は躊躇いがちには何かを呟いたが、僕にはよく聞き取れなかった。
聞き返した僕に対して、相中は再度おもむろに口を開いた。
「なぁ、市野。お前さ、……幽霊っていると思うか?」
真剣そのものだった。決してはぐらかそうとして言っているのではない。
「ゆう、れい?」
ただ、突飛な内容に僕の頭がついて行かなかった。オウム返しに発言をなぞった僕に、
「いや、やっぱなんでもねえ! 幻覚か何かだ」と、慌てて撤回した。
「一応聞くだけ聞くけど。……その幽霊、喪服みたいなスーツでフルフェイスのヘルメットをかぶって、幼女を人質に取ったり人の神経をやたら逆撫でしたりする?」
と、僕が尋ねると、
「……それは、普通に変質者なんじゃねえの?」
相中は怪訝な顔をして言った。それはもう、めちゃくちゃに不審そうに。
「……だよねえ」
「はははははは。それはねぇわ」
「はははははは。それは、ないよなあ」
……なにこの微妙な空気。
オズは相中と接触した訳ではないらしい。
推測だけど、相中が旧徒空邸にいるのを知っていたのは、建物の2階から見ていたからだろう。
……得たものとリアクションがまるで釣り合ってないけど。
おのれ蒅オズ。
僕が勝手に責任転嫁をしたところで、相中が改まって言った。
「さっきのは忘れてくれ。……任務疲れだ」
「ああ。ゆっくり休んで。なんなら報告書」
「書いてくれるのか?」
食い気味だった。……代わりに書こうかと思ったけど、やっぱやめた。
「……しっかり仕上げていただけますと幸いです、上官殿」
「はあー、畏まって言う割には結局俺かよ?」
「そこを頼むよ。それに僕、相中が戦ってた間は保護対象と一緒にいたから。何にも書けないよ。火災の件は、報道の見立て通りガス管の劣化爆発の線でよろしく」
僕は空のボストンバッグを持って立ち上がり、椅子を壁に戻しておいた。
「クローゼット、適当にあさるから。明日の面会時間にはこっそり服を差し入れるよ。部屋の鍵はシュウさんから借りるから」
「俺がいないからって手を出すなよ」
「出さないよ。友達だからね」
後ろ手に手を振って、相中の病室を後にした。
区画エレベータをいくつか乗り換えて、地下の職員居住区へと向かう。
どのみちシュウさんの部屋には寄るつもりだった。相中の服を取りに行くにせよ行かないにせよ、『処置が終われば会いに行く』と約束していた。だがそれは、シュウさんとの約束ではない。
『本日非番』とプレートの下がった扉の前で呼び鈴を押した。すぐに返事が返ってくる。
「市野です。『クリーニング』の件で来ました」
「ちょっと待ってね」
バタバタと走る音が小さく聞こえてきた。……2つ分。
錠が外れ、内側から扉が開けられる。オフだからかタンクトップにチノパンというラフな格好のシュウさんが出迎えてくれた。
「どうも。昨日の『約束』、覚えていてくれてありがとうございます」
「カイの頼みだからね。非番の日に働かせた罪は重いよー?」
気丈に笑うシュウさん――の後ろ。通路のカメラから丁度死角になる位置に、シーツを被った小さい影がひとつ。声を発さず、シーツから腕を伸ばして手を振っている。
カメラに映っているシュウさんは影の方は見ず、入りな、と僕に示す。僕が入ってすぐにシュウさんは鍵をかけた。お互い顔を見合わせて、一息つく。
「急がせちゃってすみません」
「とんでもない。待ちくたびれたくらいだよ」
そうだよねと、シュウさんがシーツの影に語り掛ける。
影がもそもそと動いてシーツを取り払った。銀の髪が玄関灯をやわらかく反射する。
「お待たせ、エイダ」
「恢、おかえりなさい!」
エイダの顔色は昨日よりずっと良くなっている。泥や埃を落として、Tシャツとハーフパンツに着替えていた。シュウさんから借りたのだろう。空調が効いていても春先だ。でも、シュウさんが冬服を着ているのを見たことがないからしょうがない。
「ちゃんといい子にしてたよ」
「いい子過ぎるくらいよ」
と、シュウさん。
「傷の具合は?」
エイダの首を確かめると、痕もなく綺麗に治っていた。
「わたしはもう治った。恢は?」
「まだかかるかな」
「だと思った。おいしい匂いがする」
すんすんと小さく鼻を鳴らして、僕の血のにおいを嗅ぎとったらしい。
「わかる人にはわかるのねー。普通の血のにおいと変わらない感じ?」
シュウさんが後に続いたが首を傾げた。
「美味しい匂いはお腹のすく匂いだから、まずは、ご飯にしよっか」
軽く屈んで、シュウさんが笑いかけると、
「ご飯! 恢、繍の作るご飯、とてもおいしいのよ」
エイダは顔をぱっと輝かせた。僕の居ない間に仲良くなっているようで良かった。
「カイ、手伝ってくれる?」
「ええ、もちろん」
ご飯ができるまで本を読んでいるようにシュウさんが勧めるとエイダは嬉しそうにリビングへと駆け戻っていった。
「昨日は完全に誘拐犯でびっくりした」
僕のボストンバッグを見て、シュウさんが言う。
「言わんでくださいよ」
「いやいや、恢ね、ボストンバッグから10歳前後の女の子がでてきたら、誰だってあんたが誘拐犯だと思うよ」
「そういうもんですか」
「そういうもんでしょ」
「同意の上で
「やっぱり誘拐犯じゃん!」
唇を尖らせて、
「あたしを共犯者にするからには、ちゃーんと事情を話してくれるんだよね? 銃一丁台無しにしたことも含め」
「体質のことも体質を持ったままここに居るということを選んだ結果どうなるかということも、当時の関係者で信用できるのはシュウさんだけですからね。……だから、相中には内緒ですよ?」
「うっわー、参ったね。板挟みじゃん、あたし」
言葉に反して楽しそうに笑って、シュウさんは先に台所へ戻っていった。
空のボストンバッグを玄関先に置いて、僕も続く。
共犯者。確かにそうかもしれなかった。
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