第9話 amateur -8
僕とエイダは、
すっかり日も暮れて静かになった道路をフラッシュライトの灯りだけを頼りに進んだ。相中が退避場所に選んだ民家は、高級住宅街の中でも落ち着いた邸宅だった。かつては立派な家屋であっただろう二階建ての建物は、正面から見て右半分がごっそりとひしゃげて家屋の断面図を無残にも晒している。2階部分への階段は風雨によって腐食し、いくらかの太い柱も同様に年月に従って劣化していることだろう。地上部分は倒壊する危険性が高い。となると残る場所は地下だった。
門扉は門柱ごと内側へ倒され、家への煉瓦道がめくれた箇所から雑草が伸びている。玄関は潰れた壁材と混ざり合っており、切ったり擦りむいたりしないようエイダと用心深く進んだ。案の定、台所部分の床面に隠し戸がはめ込まれていた。簡易式シェルターだ。何度か隠し戸をノックし耳をそばだてるが返事も反応もない。物音もなし。そっとハッチを押し上げた。ロックは掛かっていない。薄明りが漏れる。温熱センサ式の灯りなのだろう。ということは、生きた生物が中にいるということだ。
先行して梯子を下りた。ところどころ、生乾きの血で濡れている。相中の血だろうか。出血量を思うとぞっとしない。
下りきって安全を確認してエイダにサインを出す。そろそろとエイダが続いた。下りた先は2畳分の備蓄スペースだった。分厚い濾過フィルターのついた換気口がどんと取り付けられており、天井は高くない。断熱処理のされた地下シェルターはひんやりとしている。床に零れた血の跡を目で辿ると、備蓄スペースの幅を保ったまま3メートルほどの横穴状に通路が伸びている。
その先に、相中はいた。
「相中」
最早躊躇うことなく駆け寄って声をかける。が、反応は無し。
荷物を手早く下ろし、バイタルを確認する。心拍数は不安定。血圧は下がっている。呼吸は浅くて早い。顔色も悪い。止血を試みたのだろう、脱いだ上着が押し当てられていて――血で濡れている。
ラテックスの薄い手袋をはめて、インナーを手で裂いた。鍛え上げられ締まった胴部があらわになる。腹部から肺付近にかけての裂傷。爪でいくらか周囲の肉が抉れていた。移動の際に傷が開いたのか、拍動に合せて僅かに血をにじませている。傷が臓器に届いていないことを願うばかりだが、ロクな検査機器もないからと手を突っ込んで確認するわけにもいかない。さらには感染もあるのだろう、体温が随分と高い。
……重傷だ。これほどまでに重症を負った彼の姿は見たことがないし、僕が六班に配属されるまででも聞いたこともなかった。相中は二班の班員で腹部に深手を負うようなことがあればすぐに噂になるほどの手練れだ。無理に移動を勧めるべきではなかったし、一刻も早い専門家の治療が必要になる。応急処置では不十分だが、何もしなければ夜を超すことは難しいだろう。
「エイダ、荷物から薄緑のパックと、その横にある小型デバイスを取ってくれる?」
小さくエイダは頷いて、僕の荷物を開いて指示通り取り出してくれた。僕がそのまま処置にかかれるように、無菌パックの内に触れないようにして開いた状態にする。治療用デバイスを受け取って穿刺部分が汚染されないように置いたタイミングで、エイダが消毒用エタノールが染み込んだ綿花を手渡してくれた。
肘の内側に治療用デバイスを取り付けようと袖をまくり上げたところで、別の傷が目に留まった。止血を試みようとしたのだろう、下腕に手持ちの包帯が雑に、しかしきつく巻かれていた。傷の状態を確認するために包帯を解くと、斜めに傷が一つついている。オオカミ型のBACのものにしては傷跡が細く、深い。――防御創だ。おそらく、刃物の。けれど、BACと戦闘していたはずの相中が、なぜ? 通信でそのようなことは一言も言っていなかった。しかも、重症の腹部よりも優先的に止血しようとしたような印象を受ける。隠したかったかのように。
……疑問は後だ。
輸血パックとアイナカのデバイスのIDを照合すると、ガイド音声が流れ始める。緊急処置と救援要請の開始に音声承認をだす。同行者権限によりすべて承認。止血、消毒処置からデバイスへの輸血パックの接続を音声の指示通り行う。あとの抗菌薬の投与や輸血管理は治療用デバイスが行ってくれる。ややあってバイタルの状態を検知し、肘の内側の静脈に針が挿入され輸血が開始された。続いて治療用ナノマシンの投与がデバイスから提案されたため、そちらも荷物からエイダに取り出してもらい接続しておく。
できる限りのことはやった。やっと息を吐き、治療用の手袋を外して汗をぬぐう。どっと疲れがでて、腰から根が生えたような心地だった。
カリカリと治療デバイスが動き、安定したバイタル音を響かせていた。その頃には、相中の呼吸もいくらか安定したものになっていた。
間に合った、と。まだ気を抜ける段階ではないもののとにかく間に合ったのだ。
「よかっ……た……」
死なせなかった。安堵の声が漏れる。エイダが、僕の手をそっと握った。
「わたしもあんしんした。
「……ありがとう」
手袋でまだ蒸れていた手に、ひやりとしたエイダの手は心地よかった。
その折に、小さく呻き声が聞こえた。相中が苦悶に顔をしかめた後、薄く目を開く。――意識が回復したようだ。
「相中!」
「……市野、か? ……ああ。助けに来てくれたのか。……サンキュな」
視界が定まったのか、こちらの姿を認めると相中は弱弱しく笑った。
額に浮いた汗を拭ってやり、
「治療デバイスの衛星回線を使った。明け方には本部の1班と中継地の医療チームが必ず救援に来てくれるはずだ。それまで持ちこたえてくれ」
「もう夜か。そっか……夜間だもんな、1班か……。ケコに笑われちまうな」
相中は力なく長い溜息を吐いたが、安心しているようだ。顔の広い相中のことだし、1班にも知人がいるんだろう。
「そうだ。保護対象は……」
言葉に反応するなり、エイダがさっと僕の背中に張り付く。完全に相中からは死角になる位置に綺麗に収まってぴくりとも動かない。
「……怪我はない。無事だ」
「俺の怪我にびっくりしちゃったかな?」
相中が明るく声をかけるが、エイダは黙ったまま僕の服の裾を引っ張った。どうやら相当警戒をしているらしい。
「……わかるわかる。俺もお嬢ちゃんくらいの歳ん時は、そんな感じだったし」
僕はちらりと背後のエイダに目線を合わせる。
どうしちゃったの。
小声で尋ねるが、エイダは一度だけ、はっきりと首を振った。
反応を返すよりも先にエイダは音もなく立ち上がり、横穴を戻って行った。僕からは視認できるが横になっている相中からは見えない備蓄スペースまで戻り、梯子の脇にちょんと腰を下ろす。そこでもう一度だけエイダはきっぱり首を振り、唇で、駄目、と短くかたどった。
ドアもないシェルターの一室だし、BACがやって来る心配はないから構わないんだけれども……。
「……人見知り、って訳でもないんだけど」
「はは、俺、嫌われちゃったかな」
「そんなことはないだろ」
「何の根拠もないのに?」
冗談めかして相中は笑うが、僕は閉口してしまった。何か気の利いた一言でも言えたらいいのだけれど、言葉にならず俯いてしまう。
「見たところ市野に怪我はないみてーで安心した……けど、すごい血の臭いがするな。お前、怪我は」
「ないよ。……相中の血の臭いだろ」
そうはぐらかすのが精一杯だった。BACの血を浴びたことがわかってしまうものなのかと肝が冷える。
……次はもっと上手く狩らないと。
「市野……?」
「あ、いや。まだあんまり喋らない方がいい。周辺のBACの行動パターンも読めないし、ここにいる分には安全だろう。僕は地上で迎えを待つからあんたは休んでいてくれ。バイタルは僕の端末に飛ぶように設定しとくし、何かあればすぐに駆けつける」
「……無理はするな、と言いたいとこだがこのザマじゃあカッコも付かねえな。……頼む」
「うん。生きて帰ろう」
「まあ、市野のおかげで死ぬことはねえだろうさ。ありがとな。……ちょっと今回は、本気で死んだなーって思った」
発熱で体温が高いのだろう。悪寒が走ったのか、身震いする。
「……冷えるか?」
「いや。それより身体が熱い。それと……なんか、お前の姿が霞んで、見える」
幽霊みたいに、と相中はいたずらっぽく言う。デバイスも防御創もない右手で目を擦ろうと手を顔へもっていこうとするも、上手くいかないようで途中で諦めた。
「冗談が言えるほど体力あり余ってないだろ」
「情けないことに図星すぎてつれーわ。いーや、でも、あれは幽霊じゃあ、なかったと思う」
後半はうわごとのように言う。一変して、焦点が定まってない。
「左腕の傷、どうしたんだ?」
「あー……? 傷……? なんだ、夢じゃなかったのか。そんじゃあやっぱ、幽霊じゃねーんだ」
意味ありげなことをぼやいたきり、相中はやけに満足そうに笑うと、目を閉じてしまった。
何度か呼びかけるが、バイタルは安定している。ややあって寝息が聞こえて来た。……どうやら眠ってしまっただけのようだ。……びっくりした。訊きたいことはあるが、回復を待つよりほかはない。
治療用デバイスがきちんと機能しているか、装置の取り付けに不備はないかもう一度確認してから、戦闘用の装備を持って僕は横穴を戻る。エイダのことも心配だった。
梯子まで戻ると「あの人、大丈夫?」と先に尋ねられてしまった。
首肯して、少し休ませてあげて、と返す。
「恢も少し休んだ方がいいと思う」
「ううん、ありがと。長い間一人にしてごめんね。お腹すいてない?」
シェルターに備蓄してあった食べ物や使えそうなものは、全て持ち去られていた。無理もない。住人の避難と立ち退きを余儀なくされた区画では珍しいことではない。
「わたしは、大丈夫。お腹すいたら、恢が狩ったオオカミ食べに行くから」
「いや……それはできれば勘弁してほしい。外はもう真っ暗だ。夜行性のBACが来たら危ないからね」
「だめ?」
「だめ。これあげとくから」
上着のポケットからビスケットタイプのレーションを引っ張り出して渡す。
「ココア味。それなりにおいしいよ」
「……こなごな」
「う……。結構動いたからね……。味は変わらないよ?」
戦闘中にぶつけたのだろう。しょうがない。しょうがないでしょ。
「まあね……、暗くなったし冷えるからエイダはここにいて」
「恢はどうするの?」
「朝まで地上で救助を待つよ。僕がここにいる以上、想定にないBACが来てもおかしくはないから。……ここも少し調べておきたいし」と、梯子に手を掛けた僕に続くようにエイダがすっくと立ちあがる。
「手がかりがあるかもしれないなら、わたしも行く」
「休んでおいた方がいい。暗いから怪我してもいけないし。地上部分は崩れやすいみたいだからここで待っていて」
「恢がおいて行っても勝手にするかも。それならわたしを連れて行った方が、おたがい安全」
「…………」
正論だった。好きに動かれて怪我をされるよりかは一緒に動いておいた方がいい。
それに、とエイダが呟く。
「あの人と一緒にいるのは、なんとなく、いや」
「相中は僕みたいにぐちゃぐちゃじゃないよ?」
強めにエイダは首を振る。
「こわいの。あの人」
「エイダに痛いことはしないよ」
動ける状態ではない相中がエイダに危害を加えられるとも思えないし、もとよりそんなことをするやつではない。だが、妙にエイダが相中をさけているのは明らかだった。
「おねがい、いっしょに行かせて。あぶないところには行かないから」
「……わかった。崩れそうなところには入っちゃ駄目だからね。危なくなったらすぐに戻る。BACが来ても戻る。僕が途中でうっかり怪我をしても君だけはここに戻る。途中で眠くなっても戻る。無理はしない。いいね?」
こくりとエイダが頷く。
よし、じゃあ行こうか。と梯子に手を掛ける。行きと同じように僕が先行した。エイダが上がってくるのを待って、簡易シェルターへのハッチを閉じる。
月明りが眩しいほどで星の瞬きが霞んでいた。4月のひんやりとした夜気が、うっすらと汗ばんでいた肌から熱を奪っていく。寒くないかエイダに尋ねると、平気、と短い返事があった。
念のため端末に正常に相中のバイタルサインが届いているかを確認する。問題がないのを見て取ってから、フラッシュライトのスイッチを入れる。万が一僕の身に何かあっても相中に付けた治療デバイスの信号を辿って救助が来るだろう。
ぐるりと台所を眺めた。埃をかぶっているが、割れた大理石のシステムキッチンや深いシンク、4口コンロ、割れてはいるが上品そうな装飾のあしらわれた陶器類、横転している大きな冷蔵庫から、それなりに裕福な家庭だったことがわかる。……それらはすべて、過去の話になるのだが。
「『お兄ちゃん』と『弟』のお気に入りだったんだっけ?」
この家が半壊する前はさておき、現在は生活しやすい環境とは言い難い。
「わたしは、ここは好きじゃなかった」
「どうして?」
「頭のおくがぴりぴりする」
不安そうにエイダは僕の脚に寄り添った。手を差し出すと、きゅっと握りしめる。緊張が伝わってくるようだった。エイダはひっくり返って扉を開いている冷蔵庫を睨むようにして見つめていた。
「ほんとうは、大好きだったんだとおもうの。でも、それと同じくらい、ここはつらくてかなしい」
ライトで照らすと、黒くべっとりと汚れた跡が壁に残っている。……BACの襲撃を受けたのだろう。
「行こう。恢。あまり長くこの部屋にいたくはない」
はっきりとした口調でエイダは言った。僕の手を引いて、廊下に出る。
半壊した家屋をのっぺりとした月明かりが照らしている。床板はところどころ割れており、血の滴った後が続いている。台所から、玄関へ。……住人が助けを求めて外へ出たのだろうか。エイダは緊張した面持ちで玄関わきの部屋へ歩みを進めた。どうやらそこはリビングのようだ。
リビングは12畳くらいの大きさで、壁の一面に張られていた窓ガラスは割れている。厚手のカーテンは下半分が破れ、幽霊が手招きをするように風が吹くたびに膨らんでは戻りを繰り返していた。一枚板の大きな木製の机は半分に割れており、引き倒されたラックからは土の零れた観葉植物が枯れた身を横たえている。パソコン用のデスクがあるが、こちらのパソコンは野盗に持ち去られてしまったようだ。引き抜かれたLANケーブルが電話線から伸びている。電話機やテレビやコンポ等の機械類は、こちらも盗難に遭ったのだろう、台だけを残していた。大きな革張りのソファーがあったが、ここもべっとりと汚れた黒い跡が一つ分。……出血量からするとかつての住人はおそらく無事では済まなかっただろう。廊下同様に穴だらけのフローリングを照らすと、不自然に埃のない箇所が認められた。
「……弟は、ここに帰ってきてたみたい」
割れたリビングの窓から比較的真新しい血の跡が伸びている。相中のものではない。BACの血の臭い。何層も血がこびりついており、長短さまざまな動物の毛を巻き込んで凝固している。……BACの大きな死体を引きずったのだろう。それは階段へと続いていた。跡を辿って行き、階段を見上げた。腐食していていつ踏み抜いて崩れるかもわからないところを、『弟』とBACの死体は器用に階段を何度も踏破していたようだ。
「その……『お兄ちゃん』も一緒に、食事を?」
「ううん。食べてたのは、わたしたちだけ。『オズのおにいちゃん』は何を食べてたんだろうね」
エイダも知らないらしい。途中から暗闇に溶けている階段を眺める横顔は、硬い。
「『おにいちゃん』がここに居ないほうがいいや、って。わたしは思ってる。……どんな顔をすればいいのかわからないから」
エイダは握った手に少し力を込めた。生え変わっていない犬歯できゅっと唇を噛んでいる。
「……僕だけで見てこようか?」
「いっしょに行くってわたしが決めたから」
行かせて、とエイダは階段を登ろうとする。踏み抜いてはいけない。僕はひょいとエイダを抱え上げた。
「ちょっと、恢?」
エイダは慌てた声をあげる。
「あ、ごめん。いや?」
「そうじゃ、ないけど」
銃を提げた側とは反対の身体の左側に、背中の上を上腕で経由して脇腹から下腕部を通して環状にしたところにエイダを持ち上げている状態だ。丁度、小脇に抱えた構図になる。
「片手が空くからこの方が都合がいいんだけど……?」
「なっとくしちゃったけど……片手で持ち上げられると思ってなかった」
はは、と僕はエイダの言わんとしていることがわかって笑ってしまう。
「お姫様だっことかのがよかった?」
「……きらい」
振り仰いだ顔が少々むくれているのは気のせいだろうか。
「将来エイダが心に決めた人にとっておくものだからね」
「そういうこと言ってないから」
「はいはい」
軽くいなして体重をかけてもよさそうな箇所を探して階段を上る。
「……恢にはいるの? 心に決めた人、って」
「んー? いないよ」
僕だってまだ15だからね、と。
「大切な人なら沢山いるけど」
「恢の家族とか?」
「うん。……血のつながった家族じゃないけど」
「恢も……わたしと同じ?」
そうなるのかなぁ、と呟く。実の両親のことも、最初にRTAに預けられる前のことも、僕は全部覚えているけれどエイダに話すべきではないだろう。
「……昔、一人で困ってた時に助けてくれた人がいたんだ。何も訊かないで2年も僕を守ってくれた。……命の恩人。その人の真似事……って言っちゃうのもなんだけど。同じように、誰かの力になりたい、って思ったんだ」
「恢のおうち――RTAの人?」
ううん、と僕は応じた。
「いろいろ……あってさ。RTAに居るのが嫌になっちゃった頃があってね。そういう意味では僕のお家はRTAじゃないのかも。郊外で恩人と支援してくれた人に厄介になってたんだ。恩人のことは、母親代わり……って言うのも変だし師匠ってのも何か違うけどね」
「ほんとうのお母さんは?」
他意はないのだろう。
「……僕がRTAに預けられるちょっと前に亡くなった。実の父親は、もっと昔に。……うん、でも。恩人のところで厄介になってたころから、お父さんみたいな人と、歳は弟と妹だけど……僕よりもしっかりしてる兄と姉のような人はいる。世話になってる間に……家族って言えるような間柄になれたって一方的に思ってるけど」
ふうん、とエイダは言った。いいなあ。と、かすかに聞こえた。
「家族ごっこみたいだったけれど……今では、僕にとっての家族。先生はお母さんみたいなものだけど、そう言ったら、あの人、怒るから」
「先生?」
「恩人のこと。皆が先生って呼んでたから僕もそう呼んでた」
「せんせい……」
ぽつりとエイダがこぼす。懐かしさを噛みしめるようだった。
「せんせい……会いたいな」
「……エイダにも先生って呼んでる人がいたの?」
「うん。みんながせんせいってよんでたから」
「お名前、わかる?」
共通の人物だろうか。あの人、冷血漢ぶってるくせに、放っておけないとなると是が非でも助け出す人だし。
「むろえせんせい」
違った。……さすがに、同じわけがないか。
「恢のせんせいのお名前は?」
「カワラ……って名字の人。知ってる?」
「知らない」
「そうだよね」
問題なく上階に辿り着いて、エイダを下ろす。エイダは上品にスカートの裾を直して、こっち、とすぐ横に在る箪笥の並んだ和室を示した。2階部分には半壊した部屋を含めて4部屋が残っている。血の擦れた跡が伸びている方向とエイダが示している部屋は別で扉が閉まっていたが、順番に調べていけばいい。
エイダに続いて和室に入った。フラッシュライトで照らすと、箪笥が6棹ほど鎮座しており、いずれも開かれたままになっている。部屋は奥の2つの押入れから発せられる黴臭い空気で満ちていた。
「『お兄ちゃん』はここで探し物をしていたみたい」
「押入れ?」
うん、とエイダが頷いて押入れに近づく。そのまま右側の押入れを調べ始めた。足取りの迷いのなさから、ある程度夜目が利くらしい。ここに入って来る月明りはわずかだが、エイダには十分なようだ。僕はライトで照らしつつ左側の押入れを調べ始める。衣装ケースに、段ボールが8箱ほど。ここで、何について探していたのだろう。衣装ケースをよけて、段ボールを引っ張り出す。ガムテープが剥された跡がある。……他人のプライバシーだが、エイダの『お兄ちゃん』の目的を知るためだ。止むを得まい。
一度引き出されて中身を攫われたためか、舞い上がる埃の量は少なかった。エイダも段ボールを引っ張り出し、時折中に頭を突っ込みながらごそごそと探している。
僕の調べている方からは、古い教科書がでてきた。珍しい、紙の教科書だ。高級住宅街でもあった地区を思うとそう珍しいものではないのかもしれないが……僕からすればレアものの中のレアもの。縁のない品である。小学校1年生。算数、国語などなど。他にも『あさがおのかんさつにっき』と書かれたA4サイズの紙束。普通に小学校に通うことのできた時代のものか、数年前地下への移設が始まる前にあった保護つきの私立小学校の学生のものだろうか。
ライトを向けて、名前を確認する。
『1年2組 あだそらこしろ』
太めのペンでくっきりと書かれている、小学校1年生にしては丁寧な字。
背筋が凍った。目を疑った。なんなら、生唾も呑みこんだ。
これは、なにかの偶然だろうか。
……別人のものだと思いたい。同姓同名の、他人のものだと。
徒空。徒空、籠代。
かつての同僚にして。3年前の事件の、当事者。
僕のことを、大嫌いだと言った彼女。正直僕は徒空のことが苦手だった。徒空が僕を嫌うように。僕よりも先にRTAにいた。発言をすれば冷たく諌められ、どれだけ準備と確認をしても手ぬるいと、よく叱られた。――いつか。いつの日かこんな戦いが終わることを信じていた僕を。彼女はいつも……無駄事だとはねつけた。
だけど。死んで欲しくなんかはなかった。当然だ。
僕の甘さを徒空は何よりも嫌っていたから。いけないのは自分だ。そう思う。
思考をくっつけるようにして教科書類を仕舞いこむ。
別の箱を漁ると、続いて、読書感想文や幼稚園の頃と思しき製作物が出てきた。いずれも、平仮名で名前が書かれている。一生懸命に作ったことが僕でも分かる。
どれもこれも、大切に保管されていた。……胸が痛くなる。そうと決まったわけではない、とは思いながらも考えずにはいられなかった。徒空はいつからRTAにいたって言っていたか。両親は健在かどうか、聞いたことがあっただろうか。……何も知らない。僕は、あいつについて、ほとんどを知らない。1階の2つ分の血の跡から察するに、両親は……。
「恢」
急に呼びかけられ跳ね上がるようにして、顔を上げた。
「……あたま、いたい」
エイダを見ると、真っ青な顔をしている。
額に手を当てる。熱はない。だが、日中の無理がたたったのだろうか。僕の配慮が足りなかったのだろうか。外傷はデバイスでどうにかなっても、小さな子の体調不良には慣れていない。
「とにかく休もう、エイダ。一旦下に」
「ううん……今じゃないと、調べられないから」
「……ここは空気がよくないから、かな……。廊下に出よう」
エイダの背中を支えて、立ちやすいようにするが、
「でも、夜が明けたら恢は、帰っちゃうんでしょう? ここも調べられなくなる。来たいって言ったのは、わたしだもの」
「いいから」
そっとエイダを担ぎ上げて、部屋の外へ運び出した。黴の臭いはここまでは来ない。
「……ごめんね。足ひっぱってる。これじゃあ、……」
「構わないから」
柱にもたれ掛けられるところでエイダを下ろす。他に具合の悪いところはないか尋ねても、頭が痛いだけらしい。どうしよう。エイダはかなりつらそうにしている。頭痛薬はあるが、迂闊に飲ませていいものか。それよりも、僕に合う前に強く頭を打ったりしていたら? もっと会った時に確認するべきだっただろうか。
おろおろと考え込む僕の手を、エイダが軽く引く。途切れ途切れに呼吸を整えながら、それでも伝えようとしていた。
「あのね……わたしの、見てた方におしゃしんがいっぱいあった」
「写真?」
「家族、で写ってるのかなあ? しあわせそうな、おしゃしん。でも、ぐちゃぐちゃで顔の見えない人も、いた。おてがみもはさまってた。もしかしたら『お兄ちゃん』が探してたもの、かも」
「……見てみる。けど、それよりも」
「わたし、だいじょうぶだから。ちょっと休んだら、すぐに、よくなる」
わかるの、とエイダは気丈に言い放った。利発そうな大きな瞳がまっすぐに僕を捉えている。
「もうすぐ、時間、だから。よくなるの」
……言葉の意味するところに引っ掛かるものはあるが、エイダには確信があるようだ。
「よくなったら、そっちへ行くから。恢は続けてて。おねがい」
留まることをむしろ許さないように、エイダは強く僕を見ている。
「わたしたちには、時間がない。わたしは、もうじきよくなる。だから……行って」
「……わかった」
気がかりだが、時間がないのもその通りだ。
風通しの良さそうな位置に少しだけ動かして、冷えないように上着を掛けておく。ホルスターが見えてしまうが、エイダになら問題はない。
「少し、調べてくる」
小さくエイダは頷いて、微笑んだ。大丈夫だ、と言いたいようだがそれすらもしんどそうだ。
……できるだけ手早く調査を終わらせよう。
僕はエイダの元を離れて、エイダが調べていた押入れにある箱の中身を引っ張り出した。……写真アルバムだ。
ずしりと手応えのある重さのある冊子を太ももの上に載せ、ページを開く。フィルムと糊のにおいがかすかに漂った。新生児の写真が初めに挟まれている。隣のカードの文字に、僕は釘付けになった。
『籠代 誕生 元気に育ちますように』
やはり。
間違いない。
ここは、――徒空籠代の生家だ。
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