第8話 amateur - 7
ナイフが折れる。
やっぱり倉庫にあった中古品じゃこの程度か。
折れたナイフをオオカミの化物の眉間に叩き込む。頭蓋を砕き、脳髄へ。深く、深く。
軽トラックほどの大きさのオオカミはどうと倒れた。
まだ使える左のナイフ、で後ろから飛び掛かってくる奴を――腹から喉へと縦に裂く。
両手がふさがった僕へ脇から別の個体。
左にひねる。ナイフが刺さったままの個体でガード。仲間にかじりつく狼。ナイフの放棄を決意。……どうせ血と脂で使い物にならないだろう。振り下ろした踵で狼の背骨を粉砕。
集まってくる数は少なくなった。
何体仕留めたかは、数えていない。
それでも、僕を食ってしまおうと襲い掛かってくる連中を一匹一匹仕留めていく。
避けた前足が、風化しつつあるコンクリート塀を砕いた。もうもうと、白く粉塵がまく。
ぐるる、と低くうなる声。黄色い目が、帳の落ち始めた薄闇に光る。
二本の中古ナイフを放棄したかわりに、エイダのポケットナイフを短く握りこんだ。生温い、金属。
熱い息を吐いた。僕も、BACも、粉塵に息を混ぜて対峙する。呼吸のリズムが等速になり、互いに半歩分、重心を前へ傾けた後、交差するように飛び出した。
柔らかい腹に向かってナイフを突き出す。毛並みを引き裂く僕。僕の首へと鋭い爪がかかる。身をぐっと屈め、刃を押し込みながら前へ進んだ。額を、浅く切った。視界が濁る。
その死角から、気配。
反射、拳を出した。気持ちの悪い感触。
僕の拳は、濡れている。
ポケットナイフは先ほどの個体に置いている。
皮を一撃で破り、臓腑の奥まで。
「んん……」
鼻から息が抜ける。筋肉が、神経が、張りつめていく。
目的までたどり着いた五指を絡め、引き抜いた。BACの体組織は、並の刃物では傷をつけることすら難しい。ワイヤーケーブルを引き裂くような感覚。
痙攣しながら、怪物は今際に大きな吼え声をあげる。
銃を撃つためのグローブが濡れていく。
大した衝撃も、貫通したままぶら下がった狼の重量も感じない。
処理。
腕を抜いて、グローブも取り払った。捨ててしまおうかと思ったが後で調査課に拾われでもしたら面倒だ。二つ目もこうして駄目にしてしまった。
追撃に反応し、反射に従ってただただ機械的に避け、必要に応じて腕を振った。この手で脚で、在り方に従順に。本来通りのやり方で。
元からそういう生き物だ。
おびただしい量の血に靴が濡れる。咽返りそうなほど濃密な血の匂い。
感覚が冴えている。冴えている。研がれて、削れて、錆びの取れたよう。
これだけ、錆臭いのに?
そういえば……ずいぶん、静かになった。
路面を、肉の山が埋めつくしていた。血の染み込んだ毛皮。露出した骨。屎尿の臭い。血の匂い。
返り血はそれほど浴びていないが、エイダの方がよほど器用だ。そう。よくこうして、汚した後に、徒空に叱られたように思う。
ポケットナイフを畳んでしまった。使うべきでなかった、とほんの少し後悔が襲う。手間を省いたが、これでは。こんなのでは。
溜め息の白い息が、BACの肉があげる湯気に混ざっていく。
ざらざらの気持ちで脚を進めた。ぬかるみを歩いているようだ。
ガードレールにもたれかかって歩く。赤く、掠れた跡を引きずっていく。お前の過去はここだと、目印をつけてやっているから戻って来いと。振り返って恐ろしいものはBACではない。本当は、こうすれば、こうやって、在り方に従う方が、もっとずっと、誰かのためにもなるのだろうと知りながら、そうしないことを責められることだ。
十数体のイヌの化物の陰から、視線を感じていた。BACを殺すほど。この手で始末するたびに、それは付きまとってくる。無論、気のせいだ。死者は、死者だ。
あのとき、こうやって、みんなを裏切ったのね。
一人、あなたは生き残った。あなたが、役割を放棄したから。在り方を捨てようとしたから。
けれど、何かが変わったかな?
そう、問われた気がした。ただの、自問自答だ。
何も持たない拳を握りしめた。
何かが、変わっただろうか。それで。
許しを求める相手も、許しを与えてくれる相手も、多分、もう、いない。どこにも。
ガードレールをぎゅっと握る。
突如。
肉の山が盛り上がった。絶好の機会を窺っていたのか、死力を、振り絞ったのか。BACが身をよじり、血がしぶきが上がる。僕を噛み砕こうと。粘ついた口腔が広げられる。
巨大な顎。黄色の瞳。復讐か。憤怒か。ぎらぎらと濡れて。
とても、ゆっくりに感じた。時間を圧縮しているようだ。
びっくりした。辺りが鮮明に見えるくらいに。
だから、
ガードレールを、引きちぎった。
ボルトが弾ける。片側はコンクリ塊をくっつけたまま、片側はぎざぎざに引っ張られて千切れる。
そのまま捻じれて尖った方を、顎の下から、ぶち抜いて、瞬時に引き抜いた。骨も脳髄も、同じ硬さに感じた。BACに舌骨はあるのだろうか。
断末魔の吼え声も上げることなく。BACは肉の塊へと帰っていった。
長さ3メートルにわたる鉄の塊が、半分ほど、白から赤に塗り替わり、夕日をぬらりと照り返していた。持ち上げる僕の手や顔に、伝い落ちる。
……やってしまった。
『つい驚いて、反射でガードレールを千切ってしまいました。BACを仕留めるためだったんです』
こんな言い訳は通用しないだろう。
すいぶん、静かだ。
肉の山に囲まれて。びちゃびちゃとブーツの底を汚して歩く。顔の血を拭った。手が汚れていたから、もっと汚れた。ガードレールを脇に放り捨てる。湿った音を立ててBACの死骸に沈んでいった。指を開いて閉じるたびに、乾き始めた血で他人のもののように皮膚が引きつった。
……こんなからだで。
にんげんだというほうが、よっぽどむりじゃない?
次の時代を生きることが、できるとでも?
だから、ぼくに力を貸してくれないか。
きみがまだ、死にたくないのなら。みんなを、死なせたくないのなら。
それが君の役割だ。
これが正しい、君のや『在り方』だ。
……死なせたく、なかったよ。……死なせるもんか。だから、まだ、BACを殺さないと。
まだ残っている。エイダの所に戻る前に。帰るために。始末、しないと。
「次……」
僕の役割は見えている。
BACの姿も、見えている。
けれども、僕の姿は、ちゃんと見えているのだろうか。
まだ、ヒトの姿で、見えているのだろうか。
日は落ち、コバルトにひときわ明るく、くっきりと小さい赤いランプが点滅する。
すっかり途切れていると思っていた通信機だ。僕は一通り『仕事』を済ませて、三回で呼吸を整える。湿り気のある土は、ぬかるみとは程遠いとはいえ、じゅるりと砂と砂利を摩擦させる。錆びついたブランコに腰を下ろす。鎖が、切れてしまいそうだったがかろうじて僕の体重を支えてくれた。
通信機をオンにする。ランプが、血で汚れて見えなくなった。
「はい。こちら611」
久しぶりに、自分の声を聞いた気がした。打ち据えられたあとのように、酷く歪んで聞こえた。
「おお! よかった! つながった」
安堵した声。明るくよく通る。聞き覚えのある男の声だ。
「……あい、なか?」
「おー。こちら204。ななりちゃんですよ、っと。……無事か?」
「うん」
「……ホントに?」
「平気。僕は何とも、ないよ。そっちは?」
「俺は、連中から腹に一発もらっちまってな。ちっと出血がやべーわ。さっきまで気絶しちゃってた」
「……すぐ向かう」
茶化しているようだが、身動きもままならないのだろう。
「待て待て待て。そっちの状況も……わかんねぇってのに。保護対象は? BACは? 今、どこにいる?」
「保護対象は、ここにはいない。安全な場所に避難させている。BACは、どうにかなりそう。場所は、えっと……」
辺りを見回した。見たままの情景を相中に伝えるのは、いかがなものか。
「作戦区域内には、いる」
「イヌ型が散って行ったんだが、まだその辺にいるんじゃないか。何度も言うが戦闘は避けろ。お前だって体調万全じゃないだろ」
「イヌ型ね……、うん。これからは、ちゃんと避ける」
「『これから』って。……まいいや。無事なら、なんでもいいよ。ヒツジ型も気にするな。お互い、生きて帰ることだけ考えようぜ。怒られんのは俺の仕事だから、市野は心配すんなよ」
「……ありがとう」
「一人で突っ走るな。無事なら、それでいいんだよ」
「うん」
喋りながら、作業を進める手は止めない。すると、案の定、おーい、と声が耳に飛び込んでくる。
「ちゃんと聞いてるか?」
「……聞いてる。相中こそ、出血がひどいなら、そんなに喋らない方がいい。消耗は控えて。医療キットはまだこっちにもある。スプレータイプの止血剤は」
「噴いておいた」
「オーケー。ローカル通信が回復したなら、もうじき同圏内でビーコンも拾えるはずだ。体力を温存して、緊急時以外は通信は控えてくれ。日が落ちた。気温も下がる。動けそうなら頑丈そうな屋内へ。こちらの対応が完了するから、保護対象を連れてそちらへ向かう」
「……お前ホントに新人かよ。……落ち着いてるんだな。お蔭で、テンパらずに済みそうだ」
ふん、と仕方なさそうに相中が笑う。
「生きて帰るんだろう。相中」
「へいへい。分かりましたよ。……俺でもできそうなら簡易処置に入るわ。手持ちの装備じゃ足りねえから、早めに頼むぜメディック」
「これより救援に向かいます、メンター。……何とか持ちこたえてくれ」
「おう。そっちの安全を優先にな」
「了解」
通信がオフになる。丁度作業を終えて、僕は顔を上げる。
……こちらの準備は十全に整った。時刻は18時を回っているから、設定はこれでオーケー。
「……行かなきゃ」
エイダが待ってる。無事に、連れ帰らないと。どこへ。RTA以外のどこかへ。
僕は、RTAに帰らなくてはいけない。
そういう『約束』だ。僕の重たい重たい約束。いや、当然の結果だ。犠牲を強いたのは僕で、犠牲をもたらしたのは僕だ。僕の命ひとつで済んだ話だった。
『まだ死にたくない』などと。言ったばかりに。
30人の犠牲を強いたから。
「死なせちゃいけない……僕の前では誰も、死なせない……」
言葉は自然と口をついて出る。独り言だ。
エイダを連れて、相中を助けて、ここを離脱する。BACは残らず始末する。
身体はまだ熱を持っている。浮かされたように僕はふらりとブランコから離れた。きぃ、きぃ、と軋む鎖。それに混ざる、リズムを刻む、小さな電子音。鼓動よりも少し、遅いペースだ。
僕は、ヒトとして、BACを始末する。できるだけたくさんのヒトを助ける。
そう決めたから、RTAに帰って来た。新人、などという白々しい嘘が。いつまで通じるか。
手袋を外して、血を拭った。
今度は、きれいに拭えた。
「終わったよ」
廃墟となった例のマンションの、4階の扉を開く。薄闇の中、軋んだ扉の音に、エイダがくるりと振り返り駆け寄ってきた。
「ごはん!? ……じゃないや」
しかし、僕の姿を認めると、肩を落とした。
「さっき食べたでしょ」
「あれはおやつ」
「そういやそうだった」
はい、と僕はエイダにポケットナイフを返した。
「早かったね。それに、カイ、強いのね! 見直しちゃった」
受け取ったエイダは嬉しそうに言う。
「……見てたの?」
僕は、肝の冷える思いがしていた。見るな、とも言わなかったが。好き好んでみるとも思わなかったのだ。ここでじっと待っているようには言ったけれど。僕が戻ってこなかったときのことも考えてはいた。だけど。
「うん。他の部屋のベランダから。どういうふうにあなたがたたかうのか、見てみたかったから」
何も言い返せない。咎めるべきだろう。もしくは、ばれないようにするためなら、その口を封じておくべきなのだろう。けれども、そんな気には到底、なれない。
「それにとても、おいしそうな匂い」
「……BACの血の臭いでしょ」
「ううん。あなたの、血の匂いが」
小さく笑うエイダ。ポケットナイフを差し出した手をそのまま、引き寄せられる。
「とっても、とっても、今の恢から、おいしそうな匂いがするの。……わたしておいて、良かった」
「……見たいものは、見られたかな」
「味見したいくらいに」
口元までぐいと引かれる。血を拭って汚れた、僕の指。
蠱惑的にエイダの唇が歪んだ。薄青の瞳が、縮んだ後、ぽっかりと開く。
「……じょうだんよ」
あっけなく、エイダは僕の手を解放した。
「命拾いした」
「あなた、その方が、らしいのね」
はは、と気の抜けた声が自分の喉を通っていく。
「えいゆうてきなのに。きかいてきでもあって、だけどあなたの中身は、あなたの外見以上に、ぐちゃぐちゃ」
「それを気持ち悪いと、言われたこともある」
そうして、徒空籠代に嫌われていた。
「そうしなくちゃいけないと思ったから、僕は、そうしているだけなのに」
「たいていの人は、そこまでできないものよ」
「そうかな」
「そうなのよ。だからあなたは、やさしくて、ざんこく。あなたの秘密は、あなたに深く深く、根を下ろしているんだということも、よくわかった」
「内緒にしておいてくれる? エイダがみたこと」
エイダが頷き返す。
「いい子だ」
その頭を撫でかけて、手を引っ込めた。BACを殺してきた手で、僕は何をしようとしている。
「いいよ。わたしも、あなたとそんなにかわらないから」
それでも、僕は小さく首を振った。
「それとも、わたしの首でもへし折ってしまうんじゃないかって?」
僕は返事をしないで、置いていた装備を戻し始める。真っ先に治療器具を確認する。簡易輸血キットと、止血剤、麻酔、安定用ナノマシン。そして、ショットガン、火炎放射器。弾薬。装備の重みを感じる。少しだけ、地上に縫い留められるような、地に足がついた心地がした。
「同行者から連絡があって、ちょっと寄り道させて。怪我をしてるみたいだから、応急処置をしに行く。弟もちゃんと探すから。ちょっぴり時間をちょうだい」
「うん。わかった。……あれは、置いてきたの?」
僕の装備を見て、エイダが小首を傾げた。本当に、よく、見ている。
しぃ、と僕は指を唇に当てた。
「だれにも言っちゃあ、だめだからね」
エイダはうれしそうにしている。秘密の共有だ。
……あれはちょっとした仕込みだ。木を隠すなら、森の中というが、本当にそうだと思う。
通信機のランプがちかちかと輝く。端末の受信を知らせるランプだ。見ると、相中から位置情報が届いていた。区画を確認する。仕込みからの距離はそこそこで、初めの戦闘位置からそれほど遠くはない。つまりは、処置した相中を連れて離脱するのもそれほど難しくはない、ということだ。不幸中の幸いだ。
「そろそろ、お迎えも呼ぼう。暗くなったら、おうちに帰らないと」
「ええ。怖いオオカミは、もういないものね」
エイダは小さく笑んで、僕の端末をのぞき込んだ。位置情報をみると、あ、と驚いたように目を見開く。
「どうかした?」
「ここ、『おうち』の内の一つ。一番、『オズのおにいちゃん』と弟が気に入っていたところよ」
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