第7話 amateur - 6

 2029号室を開いた僕は絶句した。

 アウトブレイクで売れなくなった分譲マンションのフロアをリフォームして賃貸に出していたらしい。2029号室そのものはワンルームだった。

 黒く飛び散ったものでそこかしこが汚れている。割れた食器が散乱し、裂かれた寝具からは綿や羽毛があふれだし、倒された壁に斜に寄り掛かった本棚からはページを晒して雑誌やペーパーバックが宙吊りになっている。割れた水槽の水は干上がり砂利が横転したテレビ台の前に砂浜をつくり、千切られた衣服が床面を埋め、一足分のハイヒールが脱ぎそろえられたベランダから夕暮れの風が大きくカーテンを揺らしていた。浴室には折りたたまれたブルーシートと工具箱が置いてあった。やけに、そこだけ整然としていた。

 エイダは部屋に入るのを嫌がったが、その意味も分かった。

 『お兄ちゃん』が半日しかいなかった理由も。

 隣の部屋にだって移りたくない。

 『弟』がいるはずもなかったし、さすがにこればっかりは先に予告はしてほしかったとも思う。いや、迷惑をかけていると言ったあれがこの光景の前振りだとすれば、責めるのも大人げないというものだ。絶句こそすれ。

 まあ。とにかく。

 部屋を満たす物が視界に入るだけで胸糞が悪くなるし、窓は開いているものの、空気が淀んでいる。この空間にいるだけでなにかよくないものに取り込まれそうだった。けれど、『オズのお兄ちゃん』がここを選んできたからには何か理由があるはずで、それを探さなければならない。

「ええと、ここが無事なら住もうって言ってたんだけどね」

 戸口からエイダが声を張り気味に話す。

「こんなだったから」

 ………………。

 これで平気な顔をして居座れる方がどうかしていると思う。正しい判断だろう。

「わたしと弟はやだって言ったの」

 ということは、『お兄ちゃん』、平気だったのか。

 呪いのフルコースみたいな部屋なんだけどなぁ、ここ!

「でも、探し物があったから、半日だけ」

「……探し物?」

「ノートを、探してた」

「ノートって、紙を綴じていて、手書きの記録をとる、あの?」

 紙の雑誌や文庫本も珍しいが、紙で記録をとらなくなって久しい。

「あいつが持ちさったんだ、って『おにーちゃん』くやしそうに言ってた。人のもの持ってこうとした『おにーちゃん』も悪いけど、『おにーちゃん』が悪いことしなくて、よかった」

 安堵したようにエイダは語る。

 あいつ、とは。そもそも、ノートには何が記されていたのだろう。

 現場を維持する必要性もなさそうだが、とりあえず予備の手袋をはめて、手近な本棚を物色する。当然ながら『お兄ちゃん』が漁った後に手がかりが残っているとも考えにくいが。本棚にあったファイルに手を伸ばす。

 ……この部屋の家主は記者か何かだったのだろうか。丁寧にまとめられたスクラップ記事だ。かろうじて読み取れる日付はアウトブレイク以前のものがほとんどで、クリアホルダーに入れて綴じられたものもある。通り魔殺人事件について調べていたらしい。

 一枚の紙が落ちた。血の染みでべっとりと半分ほどが黒くなっている。今までページの間に張り付いていたものが落ちたようだ。『8月■■日 安藤小花 16時 新宿西口』、と読み取れる。日付は汚れていて見えないし、残念ながら思い当たることもない。メモの裏側には、小さくボールペンで『→ノゾムに。取材は続行』と、書かれている。血でひどく汚れているが、間違いない。

 ……何らかの事情でメモを記した人物は『安藤小花』に会うことを諦めたのだろうか。スクラップの内容からして良い予感はしないけれど。

「エイダ、『弟』の名前は?」

 『お兄ちゃん』はオズだが、『弟』の名前をまだ訊いていなかったとことを思い出す。

 ひょっこりと戸口から顔だけでのぞき込むと、

「ジャック」

 細いがよく通る声でエイダは答えた。

「ノゾム、なわけないか」

 日本人なら一定数いる名前だろう。

 エイダの『弟』が英名なのも納得がいくが。そう簡単に偶然の一致が重なってくれることなどなかったし、メモの古さから考えれば、直近に書かれたものでもないのは考えるまでもないことだった。

 続けて他のファイルを探る。アウトブレイクの時のものだ。世界各国の対応や、国連の表明などが多いが、……妙に記事が抜けている。日本国内の記事だ。これだけまとめられているのなら、ない方がおかしい。

「レジスタンスの、記載……」

 見当たらない。徹底して、国内の記事だけ選り分けていたのだろうか。それとも、『お兄ちゃん』の探していたノートに何か関係があるのか?

 本棚にあったファイルを一通りさっと確認したが、国内の動向だけ抜かれている。

 エイダの発言から察するに、『お兄ちゃん』は何も持って行かなかったのだから、ノートを持ち去った人物が併せて持って行ったに違いない。

 隠したいことでもあったのか。それほどまでに、家主の調査はアウトブレイクの核心を突いていたのか。……ないものは調査のしようもない。

 1件目と違って空振りではないが、収集できた情報に満足もできない。どちらかと言えば、徒労の方が大きい。

 エイダには聞こえないように息を吐いて、伸びをする。首まわりの血流がすっと良くなった。体質云々を抜きにしても筋肉痛や肩こりと無縁ではないのは不便だ。……代謝の良い徒空アダソラの体質ならば、筋肉痛とは無縁だったんじゃないだろうか。確かめたことはないし、尋ねただけで睨みつけられそうだけど。もっとも、本人に尋ねることは二度と叶わないわけで。……なんで、徒空のことなんて思い出してるんだろうな。僕は。任務前に、懐かしい夢をみたからか。

 悪夢。僕と徒空がみた、悪夢の末路だ。

 ……今になって、どうこうできることでもない。それは、よく分かっているつもりだ。過去は過去。今は、目の前の少女を助けなければならない。

 引き続き肩を反対側の手でもみほぐしながら、外通路にいるエイダのところに戻ったところで、

「むぐ」

 静かなはずだと思った。

 思ったが。

 悲鳴をあげなかった僕を、誰でもいいから褒めて欲しい。

「えっと、どう、したのかな」

 血の凝ったような西日の中、口の周りを真っ赤に染めたエイダがいた。

 手には、ポケットナイフと、狩りたての小型BACが冷え込み始めた黄昏に湯気を立てている。

「飛んできたの。おなかも、すいてたから」

 こくりと小さく喉を鳴らして、咀嚼していた何かを呑み込む。

「おぎょうぎわるいのと、つまみ食いしたのは、ごめんなさい」

 大きな、薄青の目が、こちらを見上げている。

「……恢も、食べる?」

 羽毛が混ざった肉塊を、すっと差し出してくる。風化しかかったコンクリートに、指の間から滴り落ちる赤色。エイダのワンピースに赤い染みはない。手馴れている。

「スズメ型……の」

「そろそろ、夕方だから。おなか、すかない?」

 差し出したまま、ごく自然な調子でエイダの唇が動いた。

 食べたのか。BACを?

「生は、いや?」

「いや……いやじゃなくて、遠慮はするけど……そういう意味じゃあ、なくて」

 何と返答したものか。

「食べないなら、かたづけとくね」

 すいと手を顔に近づけて、口へ運んだ。

「ぱさぱさ、するね」

 もっもっ、と咀嚼している。骨の砕ける音がする。羽毛が混ざっているのだから食感がぱさぱさするのもわかるが、いや、全く分からない。

 BACを本来の形状で視認できないエイダには、等しく不明瞭な形の食材の見えているということなんだろうか。

 いや。いやいや。問題はそこじゃない。

 食べる、のか。身体にどんな影響がでるか、分かったものじゃない。毒を持つものもいる。原種となった動物が無毒でも、だ。

 BACは、兵器なんだから。

 エイダの手が空いたタイミングで、

「その……普段から、なの?」

「ぐちゃぐちゃを?」

 表情には出さないようにして、頷く。

「おやさいいがいは、そうかな。ぐちゃぐちゃは、ごはんなの。ヒトの言葉を話すぐちゃぐちゃは、食べちゃいけないって。大人の人に言われたから」

 でも、とエイダは言葉を繋ぐ。

「恢だって、食べるでしょう? 人の言葉を話すぐちゃぐちゃは、ヒトの言葉を話さないぐちゃぐちゃを、食べる。そうやって生きているって教わった」

 これは、当たり前に行われてきたことなのだろう。対象がたまたま違うだけで。

 平和だったころから、文明が興った頃からそうだったはずだ。人類は、動物性の蛋白質を食事に取り入れて来た。

 それがたまたま、人工の兵器でなかったというだけで。

「……エイダ。……僕は――BACを食べないんだ」

「ほかのぐちゃぐちゃの子たちは、食べてたんだけどなぁ」

 不思議そうにエイダは呟く。

 僕には無責任なことは言えない。そんなものを食べてはいけないだとか、まともな食事をとらなくては駄目だとか。エイダは、そう言う風にできているのだから。

「どうしたの?」

「ううん……何でもないんだ」

「泣きそうな声、してるから」

「え……?」

「へんなの。恢が泣くこと、ないでしょ」

「泣いて、ないよ。ただ……」

「かわいそうだな、って思った?」

 問うエイダは、柔らかく笑う。

「可哀想っていうのも違うけれど……」

 エイダはことりと首を傾げた。僕がしゃがみ込むと、その隣に、エイダが寄り添った。

「どうして、って。思ったの?」

「多分」

「はっきりしないなぁ」

「……自分に、何でって思い始めたら、止められないから」

 僕の目にはBACが見える。世間的には、駆除部隊員は次世代を切り開くための決定的な戦力という認識の一方で、BACの性質を宿した人間としての忌避があるのも、否定はできない。見えるというだけで、たった視細胞と脳機能の一部がBACに適応しただけでそうなのだから。

 さらに、BACを見る、だけでなく――。

「あなたが言ったのよ。わたしや恢は、ヒトなんだって」

「うん。僕もそう思ってる」

「こんなわたしを見ても?」

「うん」

「わたしは、あきらめてるけれど」

 僕は顔を上げてエイダを見た。薄青の瞳は、言葉とは裏腹になんの諦念も宿してはいなかった。

「君は……自分が、『何』なのか。知ってたの」

 戸惑いを隠せない僕にエイダはそっと手を伸ばした。

「そのうえで、ヒトだと言ってくれたから。わたしは恢を信じようと思ったの。あなたの言葉に、うそはないから」

 僕の頬に、赤く、印をつける。

「僕を信じてくれるの?」

「うん」

 ぬるりと、指が頬骨の上をなぞる。

「ほんとうのことを知ったら、きっと、エイダは幻滅するよ」

 BACの血に濡れた手を止めなかった。されるがまま、柔らかく触れた指がぐちゃぐちゃに赤く、かき回される。

「あなたに、ひみつがあるの?」

「誰にも言えない、内緒話が」

「教えてくれないの?」

「嘘でいいのなら」

「うそなんて、つけないくせに」

 わたし、あなたのそういうやさしさが、きらいよ。

 エイダが囁く。

「嫌いでもいいよ。……慣れてるからね。そう言われるの」

 皮肉ではなく、本心だった。

「そう言う恢は、とっても、おいしそうに見える」

 エイダはいたずらっぽく、笑った。

「とても、ふしぎだけど。あなたはわたしの弟によく似てるわ」

「君の『弟』よりも僕は年上だよ」

 混ぜっ返すが、エイダは小さく首を振った。

「きっと、逆なのよ。わたしの弟が、あなたに似てるの」

 僕は言葉に詰まった。会ったこともない人物に似ているとは。

「わたしを、ヒトだと言ってくれた。むいみじゃないと、生きているべきだとはげましてくれた。……恢は、同じことを言うんだと思った」

「君の『弟』と?」

 エイダはうなだれた。そうだ、とも、違う、とも言わなかった。

「恢」

 潤んだ声をしていた。

「わたしは、」

 言葉の途中で、またも首を振る。言い出せないでいる。

「いいよ。……エイダの言いたいことだけでいいから」

 知りたいことだけを知っていればいい。きっと、自分が何でできているのかなんて知らない方がいい。この社会はそうやって回って来た。駆除部隊の視細胞も。僕も、エイダも、徒空籠代も。そうしてできた円環に載せられて、あるいはそこで撥ねられて今がある。

 だからせめて、何が真実かを語ることだけでも個人に委ねられていて欲しいというのは、過ぎた願いだろうか。

 僕はそうして救われたと思うから。

「……そろそろ行こうか」

 日が沈んでしまう。まだ何も解決していない。西日の反対側には、厚く黒い雲が立ち込めている。空気に埃の臭いが混じり始めている。……一雨来るかもしれない。

 頬から指が離れる。その手をが、ワンピースの裾の辺りできゅっと握りしめられている。

「どうかした?」

 床面から腰を上げて尋ねると、エイダはおずおずと手を差し出した。

「手、まだつないでくれる?」

「もちろん」

 手を包んだ。僕の頬でも薄く延ばされた血が茶色く乾き始め、ぱらぱらと剥がれ落ちる。

 一つはっきりした。エイダをRTAに連れていくわけにはいかない。エイダは、自分が『何』なのかを知っている。それだけで理由は十分だ。……様子を見る限り、それだけでもないようだが。

 遠吠えが複数上がる。それはとても近い。

 ……朱に染まった空の下、階下を見おろすと、目論み通りにオオカミ型が集まり始めている。やはり。僕やエイダは、連中にとっては恰好の餌だ。そこから少し目先を変えると、公園と、当初の予定で討伐するはずだった肉食羊の群れが見えた。……相中は、そこにはいない。

「ぐちゃぐちゃいっぱい、来てるの?」

「突破しなくちゃ外へは出られそうにない、かな」

「でも、恢、分かっててやったでしょ? そうすれば、いっしょにいた人からぐちゃぐちゃははなれる」

「巻き込んでごめん。でも……絶対、きみを危ない目には遭わせない。約束する」

「え、いやよ」

 素っ気なくエイダは目を逸らした。

「あなたのやくそく、おもたい」

「………………」

 幼女に重いと言われた。

「わたしだけが無事じゃあ、いみがないから」

 僕の手を握りしめる。

「恢が、むいみじゃないと言うのなら、あなたも無事で帰ると、やくそくして」

 ワンピースのポケットに手を伸ばす。

「はい、貸してあげる」

 エイダはポケットナイフを僕に手渡した。

だと、折れちゃうよ」

 僕の右胸の下あたりを指す。……上着の下には、ホルスターにナイフを納めていた。エイダには黙っていたし、当然見せてもいない。

「気づいてたの?」

「そうび、全部置いてからそのあたりを気にしてたから。むいしきだったんだろうけど。……恢は、

「君には敵わないな」

 僕はポケットナイフを受け取る。一度開く。材質や重さから、手に馴染みのあるナイフだ。ただし、ただのアーミーナイフではない。

 決して侮っていたわけではないが、心のどこかでは『ただの少女』だと思っていたのだろう。エイダの境遇を考えれば、それはありえないだろうに。飛ぶ鳥を落とす勢いとはいうが、現実に飛んでいる鳥をポケットナイフで仕留める少女が、何の訓練も受けていないはずがなかった。

 ……ますます、エイダをRTAに連れ帰るわけにはいかなくなった。

 第8班の再興だけは阻止しなければ。

 再び始まろうとしている。街のどこかで、この、トウキョウのどこかで。

 4年前、僕が終わらせ、徒空籠代が見届けた悪夢が。

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