今日から他人を始めます。

豆崎豆太

今日から他人を始めます。

 もう別れる、と彼女から連絡が来て、「りょ」と短く返答した。畳み掛けるように「明日から他人だから」と送られてきて時計を見る。日付変更までのあと二時間はどうなのだと聞いてみたが、それ以降返事はなかった。なるほどそう来るか。


 別れたらしいと端的に告げると、三浦は「お前んとこはホント雑だよな」と顔を歪めた。恋人関係を解消したわけだから彼女(この場合の彼女はgirl friendおよびloverではなくshe)は「俺のところ」には属していないのだが、それを告げると「歴代彼女だってそうだろ」と追撃を受けた。

「お前が誰かに本気になっているところを見たことがない」

「失礼な。俺はいつだって本気だ」

「じゃあなんで別れるんだよ」

「恋人関係っていうのは双方の合意で成り立つものだろ」

「そういうところがドライだってんだよ。だから愛想尽かされんだ。もうちょっと引き止めるとか縋るとか繋ぎ止める努力をしろよ」

「そんなの、四六時中やってて当たり前だ。それでも別れるって言われるなら、それは仕方ないことだ」

 わかってねえなあ、と三浦の反らせた喉から潰れた声が出た。わかっていないのはどちらだと反駁しようとして、やめた。

 俺はそれなりに彼女を大切にしてきたつもりだった。他の女性にはもちろん目もくれず、まめに連絡をし、時折サプライズじみたことを仕掛けた。彼女の笑う顔が好きだった。彼女とはそれなりに意思疎通ができていたし、不満も聞いてきたつもりだった。あくまでつもりだったのかもしれない。

 別れたとはいえ時間割が変わるわけではない。必修の講義室に行けば当然、彼女の姿があった。こんにちはと声をかけたら睨まれた。

「他人だって言ったでしょ」

「だからできるだけ他人行儀な挨拶を選んだつもりだったんだけど。隣いいですか」

「嫌です」

 にべもない。

 ここまで急に態度が変わるならば何か決定的な、弁解の余地もないような決定的なことをやらかしたのだと思うが、困ったことに一切心当たりがない。LINEのログを見ても特に既読無視等行った形跡はないし、約束を反故にもしていない。もちろん浮気なんかもしていない。第一それならばまず俺に直接雷が落ちるはずだ。いきなり一方的に別れるなんてことはありえない。

 さて、どうしたものか。

「水瀬さん」

 声をかけると、彼女は満面に不満と怪訝と怒りとその他諸々の悪感情を浮かべて俺を睨んだ。無視されないだけマシだと判断してひらひら手を振る。

 何せ学科が同じで必修も同じとあれば(そもそも付き合うようになったきっかけだって授業だった)、いくら大学内に人が多いとはいえ顔を合わせない訳にはいかない。若干避けられているとは感じるものの、完全に避けきるというのはちょっとばかり無謀な話だ。

「何か用ですか」

「好きです。俺と付き合ってください」

 彼女の表情がみるみる嫌悪に傾いていく。眉間にしわがよる。残念なことに、元々があまりにも可愛すぎるため怖くはない。

 俺が数日のうちにたどり着いた結論は、「他人に戻ったのなら再度告白すべき」というものだった。

「他人だって言ってるでしょ」

「でも俺は水瀬のこと好きだし。前提差っ引いてもやっぱり水瀬は可愛いし。付き合いたい」

 彼女は盛大に溜息をついたあと、「知らない人とは付き合いません」と答えた。

「え、そこまで戻っちゃう?」

 彼女は何も答えず、そのまま踵を返してつかつかと去っていった。ふむ。他人になるとは聞いていたが「知らない人」レベルにまで落ちるとは思わなかった。

 オーケイ、理解した。彼女と僕は他人だ。僕は彼女のことを何も知らない。例えば太ももの内側にあるほくろなんかも、知らない。


 それ以降おれは取り敢えず彼女から少し距離を置いた。これは無闇矢鱈に押しても怒らせるだけだと判断したのだ。水瀬と距離を置くと、それまで見えてこなかったものが見えてくる。

 どうやら俺は思ったよりも、モテるらしい。

 あるいは自分の中の、今まで水瀬に向けていた感情が一気に全部余るような状態になってしまったのでそんな期待をするのかもしれない。三浦が言っていた「ドライ」とはこういうところを指すのだろうか。

 そんな風にして一週間近くが経ち、さて次の手をどうするかと考えあぐねていたところ、たまたま同期が水瀬を口説いている現場に遭遇してしまった。あれは何日か前、俺のところに来て、水瀬と別れたんだって、とか何とかニヤニヤしながら話しかけてきたやつだ。

 まあ口説きに行くんだろうなとはその時も思ったし、それで悪いともなんとも考えていなかったのだが、気がつけば二人の間に割り込んで水瀬をその場から連れ出していた。

「ちょっと、離してってば」

 水瀬が不機嫌な声を出す。手を振りほどくような素振りをするので、俺は素直にその手を離す。

「ごめん、悪いことした。もう彼氏でもないのに」

「何なの急に」

 怒っている。当然だ、人の話に勝手に割り込んだのだから。でも、

「でもやっぱ瑞稀を誰かに取られるのは嫌だ」

「……引き止めもしなかったくせに」

「俺、それなりにちゃんとやってたつもりだったんだ。誰より大切にしてるつもりだった。それでも俺じゃだめだって言うなら、瑞稀がそれを選ぶならって思ったんだ。俺別にイケメンでもないし、他の誰かと比べて負けないようなとこなんて無いからさ」

 それに比べて瑞希は可愛い。世界一可愛い。どうして一度俺を選んでくれたのかがわからないほどに可愛い。好きだ、大好きだ。だからこそ、瑞希当人の意思を尊重するつもりでいた。一歩引いて、客観視して。

「でもごめん、瑞稀が選ぶのは俺じゃないと嫌だ」

 鼻声になっている自覚はある。口角が下がる。目の奥が熱くなり、視界がどんどんぼやけていく。鼻水が出る。それでも、

「――悪いとこ、あるなら直す、から、――俺ど居でぐだざい」


 校内で号泣した甲斐あってか、彼女は俺のところに戻ってくることにしてくれた、らしい。一方で俺の方は嫌な意味での有名人になってしまい、日々ちょっと居心地の悪い思いをしている。でもまあ、そんなことは俺にとって大したことではない。

「死ぬほどダサいことした」

 月曜の二限、開始五分前。第三講義室。出席者がまばらに座って各々時間を潰している。今日ここに来るまでの間、普段話すこともないような同期が俺の背を叩いては「聞いたよ」「やるじゃん」などと声をかけてきた。どういう経路でどこに情報が回っているのか、さっぱりわからない。

「いいんじゃねーのそれで」

 三浦があまりにも雑な返事をするので、俺は机に伏せていた頭を勢いよく持ち上げて「良くない!」と声を張る。どうも、大声をだすことに対しての抵抗がなくなっている。

「幻滅されたらどうする! 今度こそ嫌われるだろうが!」

「うるせえちょっと声落とせ。より戻したんだろ、幻滅されるって何」

「だって死ぬほどダセえもん嫌だ……瑞稀に嫌われたら生きていけない……」

 大声を出したりぐったりしたりしている俺を、三浦は「面倒くさい」が半分と「面白い」が半分混ざったような顔で見る。

「で、結局別れ話の原因は何だったんだよ」

「んー? 女友達と遊んでたんだってさ。彼氏に別れるってメールしてどういう反応するか」

「は? なにそれ最悪じゃん」

「最悪なもんか。彼女が俺を嫌ってるわけじゃなかったんだ、むしろ最高の結果だろ」

「やっぱわかんねえなあお前……」


 わかってないのは断固、お前の方だ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

今日から他人を始めます。 豆崎豆太 @qwerty_misp

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る