第4話 「神」を究める

 大窓の前に腰を下ろし、大窓に凭れて気怠そうに呆然としている、乱れた服装のあづさがいた。

 そのあづさを、研究室の扉の前から見遣る相堂が、くわえている煙草を右手で摘んで煙を吐いた。


「……もし、あいつが言う事を聞かない時はテーブルに置いてあるものを使え」


 あづさは、相堂が指すテーブルに置いてある拳銃の収められたホルスターを虚ろな目で見た。


「一週間後が楽しみだぜ」


 相堂はそう言って扉を開けて退室しようとした。


「?!」


 刹那、あづさはテーブルの方に飛び付く様に立ち上がると、テーブルの上にあるホルスターを掴む。

 即座に拳銃を抜き、その銃口を相堂の背中に狙いを定めて向けた。


「――!」


 相堂は背後のあづさの様子に気付いて扉の前で振り向かずに立ち止まる。

 何故か、あづさは相堂に拳銃を向けたまま、引き金を引こうとはせず、彼の背中を狙ったままで佇んでいた。

 彼女は唇を噛み締め、今にも泣き出しそうな顔でその背中を睨み付けていた。


「……お前にゃ俺を撃てねぇよ」

「――」


 振り向かずに言う相堂の言葉に、あづさは、はっとなる。


「お前が俺を憎んでいる事は良く判っている――しかしそれ以上に、お前の身体が、そして学者としての欲望が、俺から離れる事が出来ない事も、な」


 背を向けたまま、にたりとほくそ笑みながら言う相堂の言葉に、あづさは激しく動揺する。


「……獣!」

「好きだぜ、その悪態。はっはっはっ」


 相堂はあづさを嘲笑しながら扉を潜って行った。


(そして学者としての欲望が、俺から離れる事が出来ない事も、な)


 あづさも判っていた。

 肉欲以上に、自らの研究の成果が確かに結実するという事実に。

 引き金を引けなかったあづさは、やがてわななき出して銃口を下げると、そのまま膝を床に落として悔しそうに嗚咽し始めた。



     *    *    *



 数分後、気をとり直したあづさは予備の白衣に着替え、複製体のいるトレーニング室にやって来た。

 未だショックから立ち直っていないのか、何処か浮かない顔をする彼女の視界に、上半身裸で汗をほとばせながら黙々と腕立て伏せをする相堂の姿が入った。


(あたしの人工子宮器は、新開発した特殊酵素を用い、本体のDNAを持つ細胞片を高速培養する事で、成人なら一年足らずで複製がとれる。

 しかし、完璧に見えたこのシステムには、ある重大な欠陥があった。

 ――肉体の複製はとれても精神は本体のそれにならない。

 全く別の人格を持ってしまったのだ)


 あづさに気付いた複製体は身を起こし、微笑みながら彼女の傍に歩いて来た。

 あづさは傍のテーブルに掛かっていたタオルを手にして、複製体の顔の汗を優しく拭った。


(相堂直人の肉体を持つこの複製体は、あたしを己の欲望のはけ口にしか見ていないあの本体の邪悪な人格を一切そなえず、あたしを母の様に慕ってくれる純真な心を持った青年としてこの世に生を受けてしまった。

 何故、全くの同一の精神を持たなかったのか?

 ……或いは、精神というものは各々一つしか持つ事が許されない、神聖なものなのかも知れない)


 複製体の厚い胸板の汗を拭いながら、不意にあづさは可笑しくなった。

 だが直ぐにその顔は曇る。


(――あの男はそれを望まない。

 複製体の精神も自分と同じものでなければ、その肉体が本体の精神を受け入れないだろうと――確かにそうかも知れない。

 強靭な肉体には強靭な魂が宿るもの。未完成な器に幾ら注いでみたところで、その器は使いものにはならない。

 器を磨かねば――この男の心を、あの修羅と互角に戦える位に磨きあげなければ、この複製体は未完成のまま……!)

 

 あづさは急にはっとして、複製体の汗を拭う手を止める。


(……あたしは……何をしているの?

 この複製体をあの男と互角に戦える様に鍛え上げる事が……あの男と同じ修羅を造り上げる事が、本当に『人』を造り上げた事になるの?)


 あづさは幾度となく考えては答えが見つからず後悔してきた己の愚行に、ため息を吐いた。


「……?」


 複製体はあづさの様子にきょとんとして彼女の顔を見つめた。

 物思いに耽っている様に見えるあづさを見つめている内に、複製体は今まで覚える事のなかった不可解な感情を覚えた。

 彼女の顔を見つめていると、次第に鼓動が激しくなり、胸を絞め付けられる思いに駆られていた。

 複製体の右手が無意識に動いた。彼の右手は、自分の身体の汗を拭うあづさの手首を掴んだ。


「――?」


 あづさははっと驚いて拭うタオルを床に落とした。複製体は訴える様な眼差しで無言であづさを見つめていた。


「ど、どう……し――――?!」


 戸惑い混じりの微笑を浮かべて狼狽して訊くあづさに、複製体はいきなり彼女の両肩を掴んで彼女の唇を奪った。


「――」


 あづさは複製体のキスに驚愕するが口を塞がれて声が出ない。

 暫く目を丸めて驚いているが、やがて虚ろな眼差しになり、自分からも複製体の唇を吸う様になった。


「っっ!!」


 しかし、あづさは思い出した様に嫌悪感に顔をしかめ、複製体の胸板を両手で押しやって飛び退く様に離れ、背後の壁の方に走り逃れた。

 激しい動揺の為、息を切らして複製体を睨み、狼狽しながら懐に忍ばせていた拳銃のグリップに手を掛けた。

 動転するあづさを見て、複製体は涙を浮かべて詫び始めた。


「御免……御免よ、あづさ!――でも! 僕にも判らないんだ! 胸がどきどきして……これ何か悪い病気なのっ?!」


 壁に背を凭れて青くなっていたあづさは、複製体のその言葉に飽気にとられた。

 やがてあづさは、次第に落ち着きを取り戻し、銃を探る手を懐から抜くと、恐る恐る複製体の傍に歩み寄って母親が子供を愛惜しげに抱く様に複製体を抱き締めた。

 複製体は崩れ落ち、膝を床に着いて泣き顔で懐く様にあづさに頬擦りする。


「……大丈夫。それは病気じゃないわ。人間なら……優しい人間ならそうなるのが当たり前なのよ」


 あづさはそんな彼を宥める様に優しく微笑んだ。


(そう……人間なら)


 そう心の中で呟くあづさは、先刻、相堂に強引に抱かれた後の事を回想していた。



 乱れた服装で座り込むあづさは、テーブルに乱暴に腰掛けて煙草の煙を吹かす相堂を愕然として見つめていた


「……ほ……本気……なの?」

「ああ」


 つまらなそうに応える相堂。


「――そんなっ?!」


 あづさは信じられないと言いたげに眉をひそめ、右手で襟を掴んで胸元を隠しながら弱々しく立ち上がる。


「……そんな……自分の複製体と闘うなんて…とても正気の沙汰じゃないわ!」


 詰め寄るあづさに、相堂はくっくっくっといやらしそうに失笑してみせた。


「確かに正気じゃねぇよな。手前ぇと寸分違わねぇ野郎と殺し合いをしようなんて真っ当な人間なら考えもしねぇ。

 ――同じ力を持っているンなら、相打ちが関の山だろう」

「だったら何故?!」


 すると相堂は、詰め寄るあづさの襟元を掴み、目前に引き寄せて睨み付けた。


「前にも言ったろう? 俺は永遠の覇者になるって……この世において、永遠の覇者と言ったらあれしかいないだろ?

 ――『神』しか!」


 邪悪な笑みを浮かべて言う相堂に、あづさは絶句した。


「俺は『神』になる!

 その為に、俺はお前を使って自分の複製体を造らせ、そいつを斃す!

 ――自らの力を凌駕する事で即ち! 人間を乗り越えて始めて、『神』になる事が出来るのだ!」


 あづさはめまいさえ覚えた。軽い絶望さえ感じていた。


「……その為に……あたしに……近付いたの? 永遠の肉体を得る為ではなかったの?」


 あづさはおののきながら訊く。

 今まで信じていたものが飽気なく崩壊して行く事に堪えられる程、彼女の心は強くなかった。


「それもある。――もっとも、それは俺が『神』になってからでも遅くはないがな」

「……貴方……人間じゃないわ……!」


 あづさは相堂を見つめたまま首を横に嫌々振り、それを呪詛の様に呟いた。


「そうとも! 俺は『神』になる為に人間を捨てる決心をしたンだからな! はーっはっはっはっ!!」


 相堂はこれ以上ない位に顔を邪悪に歪めて狂笑した。

 それを見たあづさはこの男の狂気を漸く悟るが、しかしもう今となっては遅過ぎた事であった。

 やがて相堂は懐から拳銃の収められたホルスターを取り出してテーブルの上に置くと、冷厳な眼差しをあづさにくれた。


「……来週の試合で、俺は複製体を斃す。

 だから、お前はあいつを俺と戦える様に調整しておけよ……いいな?」


 あづさは応えなかった。

 只、理由もなく瞳から零れた涙が一滴、頬を伝い落ちるだけだった。

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