星が願いを
バイト帰り、いつもの癖でアパートの角部屋を見上げた。けれど、いつもと違って、俺と弟がシェアしている部屋の窓は黒いまま。八月最後の闇に沈んでいる。小さくガッツポーズをして、コンビニで買った冷やし中華とおむすびが入った袋を弾ませ、階段を上がった。
四月から弟が隣町の大学に通い始めて以来、初めての自由な夜。今夜は久しぶりにゆっくりアニメDVDを見られそうだ。
奥手な弟がようやくこぎつけたバースデイデートに心の中で乾杯しながら、鍵を回した。
まず、暗闇でつまずく。足に絡み付いてきたのは、踵がつぶされた弟のスニーカー。さっきまでばら色だった心が、たちまち色を失った。
「なんだ、帰ってるのか?」
部屋の奥に向かって声をかけると、意外と近いところからなさけない返事があがった。
「電気くらいつけろよ」
スイッチに手を伸ばすべく踏み込んだ足に、もしゃりとした毛の感触。玄関先に行き倒れているのかと頭を小突こうとした足先は、思いのほか柔らかなものを蹴とばした。
なんだ?
明るさに浮かび上がる足元には、俺より大きな毛の塊がうずくまっていた。黄色と黒の縞模様。丸い小さな耳が頭部に載っている。そいつが口をあけると、細く鋭い牙がのぞいた。
俺の悲鳴に、弟の声がかぶさった。
「にいちゃーん」
同時に、一般的に虎と呼ばれるそいつは、後ろ足で立ち上がると俺におどりかかった。間一髪しゃがみこんで避けたところ、背後で盛大に紙が破れた。玄関脇に張った、アニメキャラのポスターが無残に引き裂かれている。
「うおおお! 俺の嫁が!」
「ご、ごめん」
うなだれた虎の口の動きが、弟の声とシンクロする。嫁の哀れな姿に、俺は虎頭をひっつかんだ。
「抽選で手に入れた、お宝だぞ。いつまでこんなふざけた着ぐるみ、着てるんだ」
「着ぐるみじゃないよ」
虎の横っ面がふにょりと伸びるが、はずれない。弟の涙声に、今度は自分の顔をひっぱってみた。痛い。いや、だけど、痛覚のある夢だってある。現代日本において、虎は動物園など特別な施設にいるはず。
「なんだよ、これ」
だんだら模様の尾を力任せにひっぱっても抜けない。弟の悲鳴に、頭がくらくらした。
「分からない。僕も、なにがどうなって虎になったのか、わかんないよ」
にわかに汗が噴き出した。エアコン入れてないからだと、現実的なことに思考が逃げる。リモコンを一、二度取り落としながら、どうにか冷風を得ることができた。
「分からないって。なにかあるはずだろ? ちょっと、今日一日の行動をさかのぼってみろよ」
「朝、飯島と待ち合わせて……」
同じ学部の同級生との初デートを一部始終さらすこととなっただけに、弟の、いや、虎の口は重かった。おのろけをダラダラ聞かされるのも癪に障る。斜めに聞きながらポイントを絞ると。
映画を見た後、飯島が、手料理で弟の誕生日を祝いたいと言い出した。まあ、予測されたことであったが、自他共に草食系男子を認める弟には展開が早過ぎるところだった。
初めて女子大生の下宿部屋に足を踏み入れ、妄想を膨らませる弟の目に入ったのは、調理台にうずたかく盛られた夏野菜たちだという。
なるほどと、俺は頷いた。
草食系のくせに、弟の食べ物の好みはバリバリ肉食なのだ。かぼちゃだのキュウリだのはしぶしぶでも口にするが、ゴーヤにピーマン、極めつけに山ほど積まれたトマトと聞けば、彼の心がズタズタに打ちのめされたのは想像にかたくない。
「ひどくない? 飯島とは何度か飯をいっしょにして、俺の野菜嫌いを知ってるはずなのに、『8月31日って、野菜の日なのよ』とかいって、肉なんてミンチのひとかけらだってないんだから」
「そりゃまあ、彼女なりの愛情なんじゃね? バランスいい食生活を、って」
虎はいじけたように腹ばいになった。伸ばした前足の上に顎をのせ、鼻をならした。
「野菜しかない食事がバランスいいとは思えないよ」
「だけど、それで虎にはならんだろう」
「ならないよね」
喉の渇きに耐えられず冷蔵庫から作り置きのお茶を取り出すと、虎も片手、もとい片前足をあげて催促した。グラス二つを取り出して注いでしまい、思いなおしてひとつは深さのある平皿に移す。
俺の配慮もむなしく、虎は両前足で皿を持ち上げようとして、あたりをお茶まみれにしてくれた。
ぞうきんで始末する間に、虎は話を続ける。
飯島女史が料理に夢中になっている隙に、なさけない我が弟はこっそり逃げ出した。そのときはまだ、人間の姿だった。アパートの前に戻るまで山盛りトマトのショックは続いており、弟は思わず、空を仰いで呟いたと言う。
「いっそ、肉食獣になりたいなぁって」
「なにゆえ、肉食獣?」
「野菜を与えられることは、まずないじゃない」
「たしかに。だけどそれは、あまりに都合がよすぎないか?」
呟いてなれるものなら、俺だって盛大に呟きたい。
明日はN社の面接。今まで何社も受けて、面接で落とされている。面接の時に手ごたえを感じるのに、結果はなぜか不採用。何が基準でダメなのか分からないから、対策の仕様がない。
N社は、目指しているゲーム業界の中でも一番入りたい会社だ。メジャーじゃないけど、味のあるゲームを作っている。俺もあんなゲームを製作するスタッフの一員になりたい。呟くだけでなれるなら、何万回だって呟いてやる。
ひそかな俺の握り拳に気付いてか気付かずか、虎はお茶で濡れた口元を前足でふいた。
「呟いた後、頭になにかぶつかってきたんだ。石みたいなのが。子供のいたずらかと思って振り返ったけどだれもいなくて、頭ずきずきして。むかつきながら家に入ろうとしたら、鍵が開けにくくて。扉開けるころには体のあちこちが痛くなって、気がついたら」
虎になっていた、と。
頭が痛い。
世の中、不思議なこともあるもんだ、などと関心していられない。虎になった人間をもとに戻す方法など、ネットにも書いてないだろう。
「兄ちゃん、なにスマホいじってんの」
非難めいた虎に、俺は一瞬でもネットに答えを求めようとした自分を恥じた。
鈍く、細かな振動が床を伝わる。放り出されたままの弟のリュックが震源だ。
「飯島女史から電話か?」
虎の背中の毛が、さっと逆立った。怯えて壁にめりこもうという勢いだ。仕方なく、俺がスマホを取り出す。
「LINEだぞ。お前のダチか、これ?」
画面の第一声は、のたうちまわるスタンプ。それに続いて『うおお。課題が終わらん!』『死ぬ~』。たちまち既読の数が増え、着信が連なった。『くそ~。このレポート、鬼』『誰かできたやつ、データくれ』『俺、まだ一個も終わってないんだけど』『まじ? やばくね?』
長いサマーヴァケーションの最終日、日本各地で見られる風物詩がそこにあふれていた。手のひらサイズの端末でつながっている外の世界は、いたって平凡な夏の終わりを呈している。窓の外でヒグラシがけたたましく鳴き始めたが、今は妙に遠く感じられた。
虎はめそめそと泣きはじめた。仕方なく背中を撫でてやる。こうして弟をなだめるのは、何年ぶりだか。虎をなだめるのは初めてだ。
猫よりはしっかりした毛だが、なかなかのもふり具合だ。弟の不幸を哀れむつもりが、触り心地のよさに夢中になってしまった。
「ん? ここ、なにかあるぞ」
首の後ろをかいてやっていると、硬いものに触れた。毛をかきわけてつまみだすとそれは手のひらに載る大きさで、青白く光っている。
『はい、まあ、見つかってしまいましたわ』
澄んだ声。額には、お遊戯会で子供が冠のようにして劇の役柄を示す飾りの星型。バレリーナのようなヒラヒラした服。そいつは、うやうやしく腰を折って自己紹介をした。
『私、星でございます。流れ星候補生ですの』
ここにきて、驚きに叫ぶ俺ではない。弟が虎になったのだ。なにが起きても不思議じゃないと構えていたから、まあ、そんな展開もありかと思える。それでも無意識に候補生とやらを振り払ってしまったのは、そいつの姿がどうみても髭面マッチョマンだったからにちがいない。
『あら、乱暴はおよしになって』
よよと泣き崩れる候補生に、虎の下あごが限界まで落ちた。
頭痛のレベルが上がる。
「えっと、これはつまり、お前さんが弟の願いを叶えて肉食獣にしたと?」
『はい。流れ星になるための最終審査でございますの。制限時間内に、三人の方の切なる願いをうまく叶えることができましたら、みごと流れ星になれるのです』
「出来なかったら?」
『ただの石ころになってしまいますの。私は、今夜日が変わるまでに、あともうひとりの願いを叶えなければなりませんの。それでは、これで……』
爪先立って去っていこうとする星の背中を、肉球つき前足が押さえた。ナイス、虎。俺は星をつかみ、顔の高さに持ち上げた。
「責任とって、弟を元に戻してもらおうか」
『そ、そんなことは、未熟者の私には不可能ですわ。一度叶えた願いは、キャンセルも払い戻しもできませんの』
おもむろに立ち上がった虎が、そのがっしりとした鼻を星に近づけた。星の色が変わる。光が弱まり、ハワイアンブルーになる。つかんだ手を通して、細かな震えが伝わった。
「僕はこうして、心底から元に戻るよう願ってるよ。さあ、もう一度願いを叶えてもらおうか」
『ねねねね願いは、おおお、お一人様、お、おひとつ限りででで』
不満のこもる虎の鼻息を浴び、星があわれな声をあげて縮み上がった。髭面マッチョマンの姿で。とっさに、目が見たものを脳が拒絶した。
『ははは放してくださらないかしら。課題の締め切りは、日、日が変わるまでですのよ』
テレビ台に嫁のフィギュアと並んで置かれた時計は、日付変更まであと三時間を示していた。
「まだ時間はあるぞ」
『い、いえ、こちらの時間では、そうですね。違うんです。こちらでいう、ああ、あと五分で締め切りですの』
「石ころ決定だな」
この辺りは人通りが少ない。高速移動の手段があり、かつ強い願いを持つ人にばったり出会わない限り、流れ星になれはしない。アパートのほかの住人の帰りは遅いから、この部屋にいる人が願いを持っていない限り。
をや?
同じことを、虎も思ったらしい。らんらんとした野生の視線が向けられている。
とたんに冷や汗があふれ、星とやらを握っていた拳がほどけた。ぽとりと落ちた星がおよび腰になるのへ、きいてみた。
「えーと、じゃあ、俺の願いはかなえてもらえる、てことでよろしいでございましょうか?」
虎の期待が、痛いほどささる。星は俺の顔を見上げ、小さな目で見定めるように凝視してきた。アンパンの上に載っている、あの白い粒くらいの目ながら、ひやりと背筋が凍る威力を持っている。
おもむろに、髭面が横に振られた。
『だめですわ。あなたには、心の底から突き上げるような願いを見出せません』
「強く念じてみるよ」
負けじと星の目を見返す。よし、見慣れてくれば、髭面マッチョだってにらみつけられる。弟を元の姿に。まだ信じがたい部分もある。人間が他の生物になるなんて、ファンタジーの世界だ。そんなことが可能なら、俺の嫁もリアルな人間になったりするのだろうか。
星の目がきらりと光った。
『それでは、嫁とやらを人間に……』
黄色い風が起こり、虎の前足が星を凪ぎ飛ばした。
これは大きい、大きい、ホームランなるか、打球は伸びる、入りました、外野スタンドならぬテレビ台に、大勢の観客の間に。
て、それ、嫁のフィギュア!
「よ、嫁ー!」
星の直撃を受けた一体が、スローモーションで床に引かれていく。今、助けるからとダイブ、手を伸ばす。あと少し、まだ間に合う。だが、視野を遮る青い光。
『いやー!』
鼻の上に落ちてきた星は両手を広げ、アイマスクの形態で俺の顔に張り付いてきた。なにも見えない。
かつん、と堅い音が、嫁の災難を教えてくれる。顔に張り付いた星をひきはがすと、嫁のすらりとした片足は膝上から折れ、本体から離れて転がった。
虎がうなだれた。だが、ポスターの時みたいな謝罪はない。
たまらなくなって、お茶をがぶ飲みする。虎もシャツの裾を咥えて催促するようなので、グラスの底に残っていた分を皿にぶちまけた。弟は器用に舌を使って、あっという間に飲み干した。
「おい」
苛立ちを隠せず、虎の首根っこをつかんだ。
「一言あやまるってことをしないのか?」
開いた虎の口から、あをぅん、と声がもれた。昔動物園で聞いた、哀れな猛獣の声そのものだ。
「虎になりきってごまかそうったって、そうはいかんぞ」
頬の皮をひっぱるが、反応は思わしくない。
『は、早くしないと、時間です』
星が立ち上がり、そわそわとスカートの裾を直した。虎の背中を伝ってパソコンデスクをのぼり、俺に向かって叫ぶ。
『早く願いを! でなければ、その人は本物の虎になってしまいますわ』
虎に?
体中の血が、いっきに落ちた。うまくいかなかったらどうなるのか。頭の中で思考が渦をまいた。弟が一生虎のまま。このアパートはペット禁止だから、追い出される。実家に預けるか。親にはなんて説明したらいい? そもそも、一般家庭で虎の飼育はできるのか?
『時間になってしまいます!』
星のお願いポーズに、現実と思えない現実に引き戻された。
弟を助けられるのは、俺しかいない。強く、願わなくては。
「弟を」
『声ださなくてもいいから、もっと強く!』
パソコンデスクの上で、星は徒競争の構えをとった。拳を握って肘を直角に曲げ、片腕を前に突き出し、反対の側の足を踏み出していた。真剣そのものの表情に、俺も覚悟を決めた。どうにでもなれ、うまくいかないとしても、やってみるんだ。
「弟を元の……!」
最後まで叫ぶと同時に、デスクの天板を蹴った星が真正面から飛び掛ってきた。猛烈な飛び蹴り。でこぴんよりはるかに強い衝撃。
目の前に星が、髭面マッチョマンでない一般的な星がちかちか瞬いた。
まぶしさの中で、まだまだ盛んなセミの声が鼓膜を突き刺す。
「起きなよ。面接、大丈夫なの?」
教科書を取りに行くついでにつま先で俺をつつきながら、弟はいつものように明るく言った。
なにもかも、普通の朝。もそもそと上体を起こして額をこする。触れるとひりひりする。のぞきこんできた弟が、耐え切れずふきだした。
洗面台まで足をひきずり鏡を覗くと、見事に赤く、小さいけれどごつい足跡がついていた。てっきり悪夢だと思っていたのだが、そうでもなさそうだ。
「飯島に、電話であやまったんだ」
照れくさそうな弟の話も、俺の記憶と合致する。
こっそり逃げたことを謝罪すると、飯島女史もあやまってきたそうだ。肉も用意していたが、悪戯心で野菜を前面に出していたとのこと。めでたく仲直りして、近いうちに焼肉食べ放題に行く予定だとか。
安心した。これで、嫁のビデオを楽しむ時間が増える。にんまりすると、弟が肩をすくめた。
「昨日ばたばたして、朝飯買ってなかったね」
「お前、きょうはひとコマから授業だろ? 昨日食いそびれた冷やし中華あるから、やるよ。俺は面接まで時間あるから、大学寄って学食で食う」
ひげを剃っている間に、冷蔵庫のドアを開閉する音、麺をすする音がほのかに聞こえた。
「ありがと。んじゃ、面接、うまくいくといいね」
ドアが閉まるのを待って、忍び足で台所へ移動した。
流しに置かれたゴミ入れに、冷やし中華のパックや割り箸が突っ込まれている。いつもなら一緒に入っているキュウリとトマトが、きょうは影も形もない。頬が緩んだ。成功だ。
星に願うとき、密かに付け加えていたことがある。弟を「野菜も好きな」元の人間の姿にしてくれと。もしこれで星が間違いを犯して野菜人間になったらどうしようかと迷ったけれど、上手く叶えてくれたようだ。これで、髭面マッチョマンはめでたく流れ星になれただろう。
考えながらリクルートスーツを着込む。身支度を整え、テレビ台の前を通ると、堅いものを踏んだ。
「あれ?」
足の下にあったのは、ただの石ころだった。黒ずみ、一見隕石のようだけど軽い。手のひらサイズで、真ん中が少しくぼんでいる。ある角度からみると、腰を引いてお願いポーズをしている髭面マッチョマンの姿に似てないこともない。
なんだ、不合格だったのか。星の世界の合格基準も、分からないものだ。
捨ててしまおうと、手に取った。けれど、踵のすりきれた革靴に足を入れると、気が変わった。
あいつの、報われなかった努力の結晶をポケットに入れる。スーツにかかった重みが、妙に心地よかった。
今日の面接も、やれるだけやってみよう。
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