夏に紡いだ物語
かみたか さち
これまでと これからと
暑い。創作が趣味の母なら、もっと文学的なきれいな言い方をするかもしれない。だけど私にはムリ。
「やばいってば」
汗で制服のポロシャツが張り付くし、腕も足もべたべたで気持ちが悪いったら。
夏期講習の教室は、楽園のような涼しさだった。そこで返された模擬試験の結果は地獄だったけど。
とにかく、一秒だって早く部屋のエアコンにあたりたい。その一心で自転車をかっとばしたのに、田んぼの中の農家には、玄関灯のほかにあかりがついていなかった。おばあちゃんも母も、どこへ行ったのだろう。
仕方なく、スクールバックをあさって鍵を引っ張りだしたところで、ケータイが鳴った。
『ああ、かずちゃん? 今ね、M病院におるんよ』
母の言葉に、どきんとした。
『たいしたことないんよ。おばあちゃんが、出先で具合悪うしたんじゃ。ああ、点滴してもろうて、ようなったんじゃけどね。軽い熱中症じゃゆうことじゃけど、もう80もとうに過ぎとるんじゃし、念のため入院することになったんよ』
十数年も東京で暮らしていたのに、故郷へもどった途端に母は、ずっとここに住んでいたかのようなしゃべり方になっていた。私も二年間聞いてきたけれど、どうにも馴染めない。馴染みたくない。いちいち耳に障る方言を脳内で標準語へ同時翻訳して、私はうなずいた。
『かずちゃん、塾、まだなん?』
「今、家に着いたとこ」
『帰ったばかりですまんけど、おかあさん、うっかりしてしもうて。おばあちゃんの保険証やら診察券やら、みんな玄関に忘れてきたんよ』
電話の向こうで、からからと母が笑う。予測される事態に、私はうんざりと鍵を開けた。硝子のはまった木枠を横にスライドさせる。ノブを回して引くのではない。立てつけが悪いので、開ききる前にぐっと力を入れなくてはいけない。
『今から持ってきてくれん?』
「はいはい」
やっぱり、そうなったか。げた箱の上を見ると、おばあちゃんが病院へ行くとき専用に指名された手提げが置かれていた。保険証や診察券は全部、ここにまとめて入れてある。
私はスクールバックを置くと、デイサービスのおばちゃんが古布からリサイクルした手提げをのぞいた。電話のむこうで母が念をおしてくる。
『あ、19から始まる保険証、ちゃんと入っとる?』
ある、と答えて通話を切った。ここに引っ越すまで、そんなもの知らなかった。保険者番号が19で始まる、特別な医療保険。おばあちゃんの過去を示す書類。そして、私にも見えない刻印を浮かび上がらせる。二年前、中学卒業を目前にしておばあちゃんと同居することになって、初めて知った事実。
私は、被爆三世。
ショックだった。ナントカ三世なんて、大泥棒だけで十分。
おばあちゃんから母へ、そして私へ。消せない何かが続いている。
病院の玄関の内側で、母は落ち着かなく待っていた。やたら行ったり来たりするから、自動ドアが意味もなく開閉するのが蛍光灯の灯りで見て取れた。まだ駐輪場に自転車を入れる前から、私に気が付いて母が大きく手を振った。周りの人の訝しげな視線なんかお構いなしで、急ぐよう手招く。そのくせ、自分はエアコンの効いた玄関から出ようとしない。
「ありがとうね。あんたも疲れとるじゃろうに」
いまさら、いいです、と心の中でつぶやく。口に出すのは、おばあちゃんを心配する孫にふさわしい言葉だけにしておいた。
「おばあちゃん、どうなの?」
普段、定期検診と予防注射以外で病院にかかったことのないおばあちゃんだけに、心配していたのは本当の気持ち。母は、顔の前でひらひらと手をふった。
「心配いらんよ。明日には退院じゃけぇ。先生は、おばあちゃんが年じゃけ念のためっておっしゃるけど、どっちかっていうと」
母は、声をひそめた。
「ベッドが空いとるけぇ、ひとりでも入れて稼ぎたいって感じ」
ふたりで肩をすくめたところで、田中さん、と受付に呼ばれた。
なにくわぬ顔で、母が返事をする。保険証一式を受け取り、いそいそと受付に行きかけて、また戻ってきた。
「暑かったじゃろ。そこの売店で、なんか買いんさい」
汗で湿った私の手のひらに、五百円玉を握らせてくれた。
薄暗い待合室にはまだ、十人近い患者がまばらに腰掛けていた。その向こうに小さな売店がある。めぼしいものもないけど、ペットボトルのお茶とすいかアイスを買って、すりきれた合皮のベンチの端に座った。
前面では、大型薄型テレビが夜のニュースを映していた。音は聞こえない。受付から患者を呼ぶ声の邪魔にならないよう、消されている。映像と時々でてくるテロップだけが、昨日とたいして変わらない夏の日の様子を伝えていた。
すいかアイスをかじり、お茶を飲む。火照った体の内側が、ようやくひんやりと生きた心地を味わいはじめた。
見るともなくテレビに目をむけて、アイスの最後の一口をほおばった私は、画面の端に映る顔に吹き出した。
「デック?」
まじまじと見ることのないクラスメイトなのに、こんな場面ではっきりそうだと分かるのが不思議だった。のっぺりした広い顔、シャープペンで引いたような細い目、いつも半開きの唇。なにをするにもワンテンポ遅れて、居てもいなくてもどうでもいい存在。デックという呼び方だって、本人はアメリカ人っぽくて気に入ってるらしいけど、「でくのぼう」が語源だ。それでいながらいじめの標的になっていないのは、ひとえに彼の父親が広島県警に勤めているからだ、と私はふんでいる。
そのデックが、座り込みに参加している。
画面に映し出された陽炎わきたつ石畳。炎天下に正座する無謀な人々。「核のない世界を」と墨書きされた横断幕の前を、鳩が首をかしげて歩く。そんな座り込みをする人々の一番後ろに、デックの巨大な顔がある。
東京に住んでいるときなら「死ね」と言っているところだ。エアコンで汗が冷え、息苦しくなってきた。都会に住んでいるときよりひどくなった喘息。これも、もしかしたら私の体を作っている、おばあちゃんとおじいちゃんからの遺伝子のせいかもしれないと思うと、うかつに「死ね」と口にできない。
頭では分かっている。原爆症は遺伝しない。それでも心ではどこか疑いが晴れない。
テレビは、汗をてからせながら無言で座り込む人々を映し続ける。噴水が画面に広がる。
字幕付きのインタビュー場面でもう一度私は、豆鉄砲をくらった気分でのけぞった。口にくわえていたアイスの棒が、派手な音をたてて床に落ちる。
「おばあちゃん!」
インタビューに答えているのは、まぎれもない、我が家のおばあちゃんだった。通りすがりの通行人という設定だったけど、熱中症の原因が地方ニュースで大々的に発表されてしまっていた。
受付をすませた母も、大写しになったおばあちゃんに気がついて苦笑いした。
「知り合いが座り込みするから、差し入れしてくる、ゆうて、自分が具合悪くしたんよ。やっぱり、気になるんじゃろ」
帰り支度をする母の後ろ姿に、私もあわててアイスの棒をひろってゴミ箱に入れた。
いちど振り返って見たテレビの画面は、次のニュースを映していた。清流で遊ぶ子どもたちの、楽しそうな様子が画面に広がる。
それなのに、私の中ではまだ、灼熱の太陽の下に集まる異様な顔の映像が続いていた。
簡単な夕飯のあと、私は塾で渡された全国模試の結果をテーブルに投げた。
細かい数字やグラフで埋められた成績表に、母は笑顔だった。
「がんばっとるんじゃね。県内の順位も、悪うないじゃん」
「そんなの、意味ないよ」
前の結果と比べて、全国での順位はがっくりと下がった。学校の授業も塾も、東京に比べて空気がぜんぜん違う。風景ののどかさそのままに、生徒や先生のやる気も風にそよぐ稲みたい。特に、今通っている塾は県内の大学進学しか目にない。
姿勢を正して、私は深呼吸した。
「お母さん。もっと上の塾に行かせて。でないと東京に戻れない」
「なにもそんなに、東京にこだわらんでもええじゃろ。東大を目指すなら話は別じゃけど」
イタイところを突かれた。東大は、さすがに無理。なんせ、あなたの娘ですから。だけど一応、下宿してでも行く価値のありそうなレベルの大学を目標にしている。
私は、膝の上で、スカートのひだを握りつぶした。
「お母さんにとっては、ここは地元だからいいけど。私はやっぱり、東京がいい」
「だけどねぇ。これ全部私立になるんじゃろ? 下宿代だって、高いし」
「だから、お父さんのところから通える学校にしてるじゃない」
父は、単身赴任で関東地方にいる。原発関係の施設がある町だと聞いたとたん、母はおばあちゃんが心配だから、と言い出した。そして、そのまま、病気一つしないおばあちゃんと同居し続けている。
「お父さんに、ついていけばよかった」
つい漏らした本音に、母の顔がおこったようになる。
「だってねぇ」
「分かってる。お父さんだけだから、会社の寮で家賃も食費も安くすんでる。だけど、私が行ったら、外にアパートを借りなくちゃいけない」
「そうじゃろ? まあ、考えてはみるけど。上の塾ゆうたら、この辺じゃ、市内に出んとないんじゃろ? 交通費もかかるし、月謝も高くつくし。いくら寮だって言っても、結構な値段なんよ」
だから、一緒に暮らせば問題ないのに。
母は言葉にしないけれど、放射能に対して過剰反応を起こしている、と思う。おじいちゃんは、母がおばあちゃんの胎内にいるとき白血病で亡くなったらしい。らしい、というのは、近所のお節介爺婆から吹き込まれた話だから。
女学生だったおばあちゃんは、広島に住んでいて被爆。おじいちゃんは直接原爆に遭わなかったけれど、投下の翌日、広島の会社に出社したまま帰ってこない親を探しに行ったという。全部、情報源は近所の人達。
私が三世で、母は二世。だけど、母の受け継いだ染色体は二本とも、原爆の放射能を浴びている。
だから、母は父の新しい赴任地に行きたくないんじゃないかと。それを私には、おばあちゃんの面倒をみてくれる人がいないからと説明しているのではないかと、疑わずにいられない。
心で渦巻く黒い気持ちを必死で押し込めていると、母は成績表を丁寧に畳んだ。
「かずちゃんの気持ちはよう分かったけど、ちょっと考えさせてくれん? お母さんも、もしかしたら手術せにゃいけんかもしれんし」
いきなりのカミングアウトに、持ち上げようとしていたコップをひっくり返してしまった。冷えた麦茶がテーブルの上に海をつくった。
「そんなに驚かんでもええじゃない」
母があわてて、テーブルにあった図書館の本や郵便物を持ち上げた。台ふきんで後始末をしながら、私はまだ、びっくりが飛び跳ねている胸で深呼吸した。
「なに、急に」
「健康診断でひっかかっただけじゃけ。この歳になれば、ようあることよ。再検査の案内がきたんよ」
あっけらかんと笑う母の顔を、私は疑い深く見つめた。あまりに不細工な顔だったのだろう。母が笑うのをやめた。
「大丈夫。たとえ癌だったとしても、おばあちゃんのこととは関係ないけぇ。だいたい、今のこの国の死亡原因の一位なんよ? 誰でもかかっておかしくない病気なんじゃけ」
「だけど」
喉の奥で、ひゅうっと笛が鳴った。喘息が騒ぎはじめた。立て続けに咳をする私の背中を優しくさすり、母はお茶を注ぎなおしてくれた。
「だけど、おばあちゃんには内緒よ。気にしてじゃけ」
「お父さんには?」
「もう電話した。横着せずに再検査いけよ、って言われた。だから塾のことは、検査の結果がでてから考えさせてね」
頷くほかに、仕方なかった。
きれいにしたテーブルへ避難させた郵便物や本をもどした。でも、なんだかまだ、手がふるえた。積み重なった書類をうまくまとめられず、床に落としてしまった。拾おうとしゃがむと、やや強引に母が割り込んできた。
「ええよ。かずちゃんは先に、お風呂行っておいで」
母の膝の下で不自然にかばわれた紙面が、私の網膜に焼き付く。
「離婚届」の文字と、母の署名、そして鮮やかな朱の印鑑。
素直に返事をしながら、不安などきどきが止まらない。
翌朝、私にしては珍しく早起きした。というより、昨日見てしまった離婚届が気になりすぎて、よく寝れなかった。午後にならないと退院できないおばあちゃんの代わりに、庭に出て水やりを始める。
母は、離婚を考えている。父の赴任先のせいで? 父に非はないのに。とめどなくあふれる不安は、手元のホースからほとばしる水と同じだったけど、水ほどきらきらしていない。庭の花木に水をやりながら、私の頭の中は真っ黒な雲でいっぱいだった。空は真っ青に晴れて、白い雲がまぶしいというのに。
土地が有り余っているから、庭も、都会なら家がひとつふたつ建ちそうなくらい広い。そこへ、花が好きなおばあちゃんは、手当たり次第花を植えている。ヒマワリ、朝顔、桔梗にノウゼンカズラ。庭をぐるりと囲む垣根は、ピンクと白の花をつけた夾竹桃だ。
ホースから勢いよく飛び散る水は、朝の花に降り注ぐ。
少しだけ、気持ちが洗われた。
仕上げに垣根近くのホオズキへ水をとばそうとした、そのとき。
サイレンが響いた。
「ひゃ」
思わずホースを投げあげた。水は縦に蛇行して垣根を越えた。
サイレンは低く、次第に高く。長く尾を引きながら夏の空をわたっていく。
激しく脈打つこめかみの内側で、ようやく思い出した。
八月六日八時十五分。
ここに住むまで、知らなかった。毎年この日この時間に、サイレンが鳴らされるのを。
鳴りはじめとは逆に、サイレンの音がゆるやかに低くなった。そして、余韻を残しながら消えていく。
足下で、取り落としたホースから噴き出す水の音があがってくる。と同時に、周りのいろんな音が戻ってきた。農道を走るトラックのエンジン音、鳥の鳴き声、蝉の声。サイレンに意識を支配され、周りの音を奪われていた。
気持ちの悪い汗が流れる。
ビーチサンダルを履いた足も、水が跳ね上げた泥で気持ち悪い。
なにもかも。
私の体を作っている細胞すべてが、気持ち悪い。
とりあえず水をとめて、ホースを雑にまとめた。
自習室に行こう。絶対に帰るんだ、東京に。
唇をかみしめた。気合いをいれていると、背後から声がかかった。
「あれ? 平、なんでおるん?」
「でででで! デック?」
振り返ったそこに、のほほんとした細い目があった。
「なんでって、そっちこそなによ。私は、ここに住んでいるんだから」
「でもここ、田中さんち、じゃろ?」
生け垣の切れ目に立つ郵便受けを指さすデックは、何故か、頭から水を浴びたようにずぶぬれだった。
いや、待てよ、と私は背筋が冷たくなる。頭から水。
「なんで、濡れてるの?」
おずおずと聞くと、予想通りの答えが返ってきた。
「生け垣のそばで黙祷しとったら、水が降ってきたんじゃ。おかしいのぉ、ばり晴れとるのに」
やっぱり。それでもなに食わぬ顔で来るところが、デックのあきれたところだ。
「なにしに来たの。おばあちゃんなら、今いないよ」
「田中さんって、平さんのおばあちゃんじゃったんか。わし、昨日座り込みに参加しての、そのグループの代表の人から、田中さんを紹介されたんじゃ」
「あいにく、おばちゃんは今でもおじいちゃん一筋だから、あんたなんか紹介されても困るわよ」
「そうじゃのうて。わしゃぁ、田中さんに、被爆体験を聞きたいんじゃ」
そうだろうと思った。座り込みの団体がおばあちゃんを紹介といったら、それしかない。
頭に血が上った。どうして、勝手にそんなことをするんだろう。私は、デックをにらみつけた。
「知って、どうするの? おばあちゃんは、話さないわよ。孫の私にもなにも言わないくらい、そのことに関しては言わないんだから」
私が被爆三世なのも、おじいちゃんの死因が白血病なのも。全部、近所のお節介な爺婆から聞かされた。おばあちゃんは、なにも言わない。
私の怒りなんて、どこ吹く風。デックは、腹が立つほどのんびりと頭を掻いた。
「残念じゃのう。わしの親戚は、だれもピカにおうとらんし」
「だったら、ほかをあたって。とにかく、おばあちゃんは今いないんだし。とっとと帰って」
「いつなら、おってかのう」
隣のヒマワリと同化したように足を地面から離そうとしないデックに、私はホースの口を突きつけた。
「あんたに会うためにいることはないから。帰らないと、まともに水をぶっかけるわよ」
「なんじゃ、平さん、学校におるときより勇ましいんじゃのう」
さすがに青くなって退散するデックの背中に、私は台所からつかみとってきた塩をぶちまけた。
「二度と来るな!」
だけど、デックの件は、これで終わらなかった。
数日後。塾から戻ると、玄関に汚くてでかい靴がのさばっていた。母が、曖昧な笑いを浮かべて私を出迎えた。
「あんたのクラスの小松君が、おばあちゃんに被爆体験談を聞きにきとってんよ。自由研究にしてんと」
小松。デックだ。
ふたりは仏間にいた。庭の花を供えた仏壇を背に、おばあちゃんはいつもの笑顔をしている。仏さまのような頬笑み。デックがでかいだけの図体を屈めて、熱心にノートを持っていた。だけど、持っているだけだ。ノートに書き記すことなんて、何一つない。おばあちゃんは、にこにこしながら言った。
「さあて。昔のことじゃけぇのぉ。ぜーんぶ、忘れてしもうたわ」
だから、ムリだと言ったのに。
被爆当時、おばあちゃんは十代の女学生。ちょうど、今の私と同じ年頃だったらしい。記憶に刻まれているだろうけれど、普段はそんな様子を、これっぽっちだって見せない。花の世話をして、散歩に出かけて、仏壇に手を合わせる。穏やかな日を暮らしているんだから。邪魔は許せない。
私は、わざとデックの目の前、おばあちゃんとデックの間に割り込んだ。
「はいはい。そこで取材は終わり。ごくろうさまでした。お引き取りください」
おばあちゃんから見えない体の陰で、野良猫をおいはらうように、シッシ、と手首から先を動かす。仕方なさそうに、デックはおばあちゃんにお礼を言って部屋を出た。私も、デックがひそかに後戻りしないよう、がっちり背後について追い立てた。
「いい加減にしてよね」
私はうなったけれど、のれんに腕押し。デックはへららっと笑って頭をかいた。
「やっぱり、お話、聞けんかったのぉ。先にふたりほどアタックしたんじゃけど、みんな、思い出すんもいやじゃ、ちゅうて、いけんかった」
人の心の傷をえぐるような前科をさらすデックに、怒りを覚えた。
「わかったなら、もうやめてよ。そもそも、なんでそんなひどいことするの」
被爆三世という言葉が、重さを増してのしかかる。私を見る目がどれも、私を被爆三世として遠巻きにする。私が喘息もちだと知った近所の年よりが、「やっぱり、ピカのせいかのぉ」とつぶやいたのを、私は知っている。
「なんでそんなに、済んだことを知りたいわけ? 座り込みまで参加して」
するどく聞くと、デックは意外なほどまじめな顔になった。
「そがい、おかしいかのう。ここだって、隣の県には原発があるんじゃ。南海地震が起きてもしものことがあれば、無関係と言えんかもしれん。それに、わしゃぁ、生まれたときからここに住んじょる。それなのに、無関心でおれっちゅうほうが、おかしゅうないかのぉ」
自動翻訳機能がパンクしそうなほどの、完全方言。私の脳味噌は意味をとらえるだけでフル回転して、ほかのことを考える余裕がなかった。
怒りと脳の疲れで息が荒くなる私に、デックは淡々と続ける。
「それに、テレビでヘイトスピーチを見て、なにか意見を伝えるっちゅうのは、えらい怖いことじゃと思うた。じゃけんど、核に反対する座り込みは、静かじゃ。なんちゅうか…」
しばらく廊下の暗がりに視線をさまよわせたデックは、ぽつりと言い残した。
「祈りみたいじゃった」
私は呆然と、ツクツクホウシの鳴き声を聞いていた。デックが母にも挨拶をして玄関から出ていく。西日に向かって外へ踏み出すデックの姿が、まぶしい逆光の中、黒い影になって吸い込まれていく。
ツクツクホウシの鳴き声は、遠くになりながらも続いていた。
お盆前になって父からメールが来た。夜行バスのチケットがとれたから、15日の昼前に着くという。
メールを受け取ったのはまだ夏期講習の途中だったから、休憩時間に母へ電話した。異様にかしこまった声が応えた。
『はい、平でございま…なんね、かずちゃんね』
とたんに気の抜けた、いつもの調子にもどった。こっちも、気が抜けた。
「なに、改まった声で。電話でもふつー、そんな声しないでしょ」
『今日、病院から再検査の結果を電話してくれる、ちゅうから、それかと思うて』
「お父さん、15日に来るって」
『ほうね。まだ塾途中なんじゃろ? わざわざ、ありがとうね』
ねえ、と言いかけて、やめた。癌と過去の悲劇は関係ない。だけど、父の赴任地と離婚は関係あるのか。聞きたかったけど、知るのがこわかった。高校生にもなって、まともに娘に相談もせずに署名する母に、腹も立つ。なのに、無視することもできずに「いい娘」を演じる自分にもむしゃくしゃする。
あ、また、息がつまる。
父が来れば、このもやもやは終わるのだろうか。それとも、続くのだろうか。
15日は、朝からどこかあわただしかった。お盆になるまえに家の掃除も墓掃除もすませているのに、そわそわした空気が、家のあちこちに綿雲のように浮かんでいる。
きっちり到着予想時刻に、父がやってきた。大きなボストンバッグを提げているが、ワイシャツにネクタイ、折り目のしっかりついたスラックスに革靴だった。
「なんねぇ。そんな服装じゃ、休まらんかったじゃろうに」
母があきれると、父は玄関の上がりかまちへドサリと鞄をおくと、ネクタイをゆるめた。
「会社から直にバスに乗ったんだ。チケットが、それしかとれなくて」
「だから、はように手配しんさい、って言うたのに」
やれやれ、と鞄を持ち上げる母に、父はややむっとした。
「直前まで会議だのなんだの予定が入って、休みが確定しなかったんだから」
怪しい雲行きだ。だけど、こんなちょっとした諍いは、この夫婦にはよくあること。珍しくないし、昼ご飯でも食べればすぐ仲直りする。わかっていても、離婚届けが頭の中にちらついてしまう。
「父さん、ご飯前だけど、スイカ食べる? となりのおじちゃんが、大きいのくれたんだよ」
ここでスイカなんて、まるで小学生だ。だけど、父は素直に気持ちをスイカにむけてくれた。
「お。じゃあ、仏さんに挨拶してからいくよ」
「おばあちゃんも、スイカ、どう?」
誘うと、花を抱えて庭からあがってきたおばあちゃんは時計を見上げて、目を細めた。
「わしゃぁ、ええ。じきに昼飯じゃけぇ。この花を活けたいし、のぉ」
父が仏間から涼やかな鈴を響かせた。
台所のテーブルを、親子三人で囲んだ。なんだか、久しぶりすぎて、恥ずかしくなる。
「で」
父がきりだした。母へまっすぐ向けられた目には、まったく笑いがなかった。
「義母さんに知られたくない話って?」
母が、台所の隅にあるファックス台から、病院の紙封筒を持ってきた。いろんな数値を示し、医者から聞いたことを小声で説明する。
「とりあえず、組織をとって検査したほうがええらしいんよ」
「癌、か」
太いため息をついて、父が椅子にもたれた。椅子がきしむのと別の音が、後ろで聞こえた。母の顔が、さっと青ざめた。
「おかあさん…」
おばあちゃんが、柱にすがりつくようにもたれて、ふるえていた。足下に、花入れが転がっている。
「あんた、癌なんね」
見開いた目から、眼球がこぼれ出しそうだ。わなわなと体をふるわせて座り込むおばあちゃんを支えにいくと、腕をつかまれた。干からびた指がくいこむ。
「かずちゃん、あんたはどうなんね? どこも悪うないんね?」
「なんにもないよ」
私の声も震えた。怖い。おばあちゃんがひどくおびえているのが、怖い。
「大丈夫だって」
母も、おばあちゃんの背中をなでた。その母の腕をも、おばあちゃんはがっしりとつかむ。眼球を小刻みに動かしながら母を凝視して、周りの何も見えていない様子だ。
そして、はらはらと涙をこぼし始めた。
「なんでじゃ。ピカにおうたのは、わしじゃ。なのに、なんであん人やあんたばかりが病気になるんね」
「おかあさん、原爆は関係ないんよ。ほかの人にも、よくあることなんよ」
ゆっくりと、母が言いきかせた。それでも、おばあちゃんの体のふるえは止まらなかった。私の腕にくいこんでいた指から、少し力がぬけただけだった。
これ幸いと、私はその場から一歩さがった。一歩、逃げた。
父の密かなため息が耳をかすめる。
「今さら、なんでもかんでも、原爆のせいにして」
父のつぶやきが、ざらりと心に流れ込んだ。なんだろう。私も同じように思っていたはずなのに。今は気持ち悪くて仕方がない。父からも、一歩逃げた。
時計の長針と短針が、十二を指して重なった。サイレンが鳴る。今日は、八月十五日。
九日前のサイレンと同じはずなのに、心に入っていかなかった。鼓膜を上滑りしていく。
だって、私たちの中では、なにも終わっていない。おじいちゃんを亡くした悲しみも、放射線の影響におびえる日々も。今、この目の前で、続いている。
あと二日で夏休みが終わる。
珍しく、母からパソコンのことを尋ねられた。
「ねえ、かずちゃん。文書ファイルで縦書きって、どうやるん?」
今までも父からもらい受けた古いパソコンで、母は町内会のチラシなどを、たどたどしく作っていた。そんなとき、分からないことがあれば父に電話で聞いていたのに。
私だって、パソコンには詳しくない。ネットやメールなら、スマホで十分間に合うから、授業でちょっとさわるくらいだ。麦茶に浮いた氷をからころ鳴らしながら、顔をしかめた。
「夜になって父さんに聞けばいいじゃん」
「うーん。じゃけど、父さんも忙しいけぇ」
分厚いパソコン指南書を本棚から持ち出し、意地になって父を頼ろうとしないのを見ると、不安の入道雲がもくもくとわきあがった。離婚すれば、父の助けはもらえない。母は、その準備をしているのかもしれない。
「ええっと。あー。よう見えんわ」
雑誌などを積んだ机の隅へ、老眼鏡を求めてのばされた母の手が、数冊の雑誌を床にまいた。
「ああ、いけんねぇ」
ちらばった雑誌の間から、例の離婚届けが飛び出していた。ちらりと私を見上げた母が、照れたように笑った。
「誤解せんどいてね。父さんと別れるつもりは、ないんよ」
「じゃあ、どうして?」
麦茶を飲んでいる途中なのに、喉が干からびてくっついていた。
顔を真っ赤にした母が、雑誌を拾い上げ、離婚届を挟んでいるページを開いて見せてくれた。たくさんの文学作品の公募情報が掲載されている。そのうちの一つを、母は赤いマジックで囲んでいた。私は、眉の間に力を入れた。
「ミステリー?」
詳しく募集要項を読もうと目を近づけたら、雑誌をとりあげられてしまった。
「そ。思いついたネタでね、不倫もなし、DVもなしの一見なんの問題もない夫婦なのに離婚しようとする妻って、どんな気持ちでサインするんじゃろうか、って思って、実際にやってみたんよ」
ちょろりと舌を出す母は、いたずらが見つかった子そのものだった。
「それで、文書の縦書き」
「そうなんよ。縦書きで提出なんよ」
「どうせ通りもしないのに、よくも出せるね。恥ずかしくないの?」
本気で心配していたのに。ただのネタ? 怒る気にもなれない。おかしすぎて、涙がでる。
「デビューできたら、かずちゃんを上の塾にもやれるかもしれんよ?」
「絶対無理。あり得んし」
「あ、お父さんには内緒にしとってね。こういう趣味持ってるって、お父さん、知っとってないけぇ」
「言うわけないじゃん、そんなつまらないこと」
癌の手術を目前にしていながら、雑誌を抱える母はいきいきしている。
母の人生はまだまだこれから、って、そんな感じだった。
授業が始まると、進路指導調査と学園祭の準備が待っていた。
デックは相変わらずヌボーッとして、何を言われてもへらへらしているでくのぼうだった。私と顔を合わせても、向こうから挨拶もしてこなかったのがラッキーだった。もちろん、こっちから声なんてかけない。
でも、異変はあった。文化祭でのクラスの学習発表テーマを決めるとき、まっさきに手を挙げたのは、デックだった。
「わしゃぁ、原爆について詳しゅう調べたいんじゃ。みんなにも、もっと意識をもってほしい」
異常に積極的なデックに、誰もがしらけた。ほかのテーマもちらほらあがり、多数決で決めることにした。無記名投票をして、デックの提案は見事に落選した。
当然だと思った。
だけど、三票入っていた。私たち以外で投票した物好きがいたことに、正直驚いた。
驚きながら、机に広げた進路指導調査票を眺めた。
学年始めの調査では、さっさと第三希望まで書けた。どれも東京の大学だった。同じことを書けばいいのに、シャーペンを回すばかりで頭の中はどんよりしていた。
「進路希望調査票は、帰るまでに提出だぞ」
騒がしい教室に、担任の怒鳴り声。勢いに押されるように、私は三つの大学名を書き連ねた。
調査票を出した次の日、担任に呼ばれた。
「志望校、変えたんか。まだ二年なんじゃけぇ、そのまんまでも頑張れば、平なら行けるじゃろう」
励ましは、うれしかった。だけど、第三希望に県内の大学を書いたのは、東京をあきらめたからじゃない。担任の顎にある剃り残された髭を数えながら、私は理由を話した。
「下宿だと、やっぱりお金かかるし。それに、同じレベルなら、こっちでもいいかなって、思ったけぇ」
「そうじゃのう」
ぽりぽりと耳の後ろをかいていた担任が、ふと、にやりとした。
「平、さっき、広島弁になっちょったのぉ」
「え? ないない。そんなことないって」
「そうか? わしの空耳だったんかのう」
「そうそう。空耳じゃろ」
しまった。
開けた口を、閉じれなかった。担任が勝ち誇ったように笑う。いやな笑いじゃなかった。
ま、いいか。
きっと、こうして、私の毎日は続いていくんだ。つまらない楽しみやいやなことを巻き込んで。一日、また一日と。
そうしてこの先ずっと、続いていくんだ。未来まで。
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