離宮《2》


 あの後。

 ゼェーゼェー、ハァーハァーと言いながらも、蔦生い茂り塀をなんとか登りきった澄寧は、文字通り鬼の形相で離宮の入り口に立っていた。


「まったく…………。なんてところだ、ここは…………」


 気分はまるで、旦那さんに浮気された奥さんが、浮気相手の家に押しかけに行ったようなもの。事実、澄寧は憤怒の形相の明王と、さほど変わらぬ表情かおをしていると言えるのである。


 ああ、もう酷かった、酷かった。壁を登りきったは良いものを、今度は降りることに難儀するし、降りて歩き出してみたら大きな虫に追いかけ回されるし、挙句の果てには枝に衣の裾を引っ掛けて破ってしまうし…………。

 総じて言うと。

 ロクなことがない。ないったらないっ!

 しかし、そんなさんざんな目に遭った澄寧にも、現実はしっかり見えていた。


 日は西の空へ傾き、大地は橙色に染まっている。

 黄昏たそがれ大禍時おおまがときだ。

 逢魔時おうまがときとも書くこの時間帯は、澄寧のような神職出身の者にとっては人一倍怖いときであった。

 だから、できるだけ早く室内に入りたい。こんな森の中で一晩野宿するなんて、絶っ対にお断りだ。

 それにもし、文句を言うことが許されるのなら大いに言ってやりましょうかね。別に文句言ったって不敬罪にならないでしょっ、と思って、澄寧が一歩を踏み出したとき。


「あれっ…………? 何だろう、蝶かな…………」


 澄寧は思わず首を傾げた。

 ひらひらと白い蝶のようなものが澄寧の元へ落ちてくる。それは、思わず受け止めた澄寧の掌の上で、一枚の紙片に変わった。

 すぐに澄寧は、それに書かれた流麗な文字を目で追う。


「…………っ」


 だんだんと澄寧の顔は険しくなり、紙片を持つ手がぶるぶると震えた。

 曰く。


『早く来い。待ちくたびれた』


 ブッッチ――――ンと、ここで澄寧の堪忍袋の緒は切れた。


「ええ、ええ、行きますよっっっっ‼︎ 首、長くして待っていてくださいっ」


 クシャッと紙片を手の中で握り潰し、足音荒く、澄寧は離宮に入っていたのであった。

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