おままごとの終わり

 あれは多分、とかげ君に出会ったばかりの頃だった、と思う。五歳になるかならないかという幼い私は、幼いながらもかっこういいとかげ君に、純粋な親愛と信頼をこめてこんな提案をしてみた。とかげ君は私のお兄ちゃんから借りたゲームボーイを抱えこむようにして遊んでいた。私はピンクの、とってもかわいらしいワンピースを着ていた。

「とかげ君、大きくなったら結婚しようね」

 小さな私の使い込まれていない脳は、とかげ君がちょっと面ばゆく目を細めて、それから曖昧に、でも私にははっきりと聞こえる声でうん、と言ってくれる以外の返答は予想していなかった。その頃には自分がかわいいことぐらいは十分承知していたし、もう片手では数え切れない程度の求婚を受けてもいたのだから。

 しかしとかげ君はゲームボーイから視線を僅かにこちらに移して、あろうことか、こう言った。

「え? いやだ」

 その言葉が照れ隠しから出たものではないことは、あからさまに顰められた眉でわかった。どんな罵詈雑言よりも、正しく使用される視線や表情のほうが、よっぽど他人の精神を傷つけるのに役立つと、とかげ君はこの年にして知っていた。

 あまりの仕打ちに、私はそれこそ火がついたように、泣いた。とかげ君はゲームボーイを床に置き、泣いている私の頭を、撫でた。すっかり気をよくした私が泣き止むとまた、ゲームボーイを再開した。その隣に座って、私はとかげ君をお父さん役、私をお母さん役にして、一人で勝手におままごとをした。ゲームボーイが大好きなお父さんにご飯を食べさせようとするお母さん、という設定は、当時の定番の一つだった。そのうちにお兄ちゃんが公文から帰ってきて、私に「お前、それ楽しいの?」と尋ねた。

 楽しいよ、と私は答えた。


「とかげ君、お菓子食べる」

 私の発言に、ちら、ととかげ君は視線を投げる。やや斜視気味で、黒目が小さいのでそういう一瞥をくれる、という感じの表情をすると酷薄な感じがして、私は好きだ。私かお兄ちゃんのどっちかか、あるいは二人でつけたとかげ君、というあだ名の由来は彼のフルネームが影山幸人というからだけれど、どこかひんやりとした本人のムードにもあっている、と思う。もっとも、そう考えているのは私だけで、本人はお気に召さないようだ。

「食べないの?」

 もう一度聞くと、ちっ、と一つ舌打ちをした。

「舌打ちとかよくないよ」

 親切に忠告すると、とかげ君は私から借りたDSからようやく顔を上げた。嬉しくて、私は微笑む。

「俺は万感の思いをこめて舌打ちをしたんだ。何故その意図を慮らない」

「万感の思いをこめてても、私に聞こえるのは舌打ちだけだよ」

「大体舌打ちのようなあまり上品じゃないボディランゲージをされたら話しかけるのは遠慮しろ。それが空気を読むということだ」

「むー。それで、お菓子食べる?」

「人の話を聞け馬鹿。そして食べない」

「最初っからそう言えばいいのに」

 そして私はじゃがりこをざくざくと前歯だけで齧る。

「とかげ君、そんなにゲーム面白い?」

 とかげ君がやっているのは推理ゲームだ。私はそれほど面白いと思わなかったので、二周しかしなかった。

「面白い。少なくともお前としゃべるよりは面白い」

「言うと思ったけど。それ」

 学食は、この時間にはとても閑散としている。私のじゃがりこを齧る音と、とかげ君のタッチペンと画面が触れ合うかちゃ、という音だけが響いている。

「そんなに集中して目、疲れない?」

 パソコンをするときも本を読むときもゲームをするときも、とかげ君は画面に極限まで近づいている。そのせいで、小学校に入った直後にはもう眼鏡っこだった。とかげ君は眼鏡が似合う。去年買った細い銀縁のちょっと古風で無骨な感じの眼鏡も、意地悪さを丸出しにした目元の印象を、ほどよく和らげてとても感じがいい。

「画面が小さいから結構疲れる。LL買えよ」

「自分で買いなよ」

「自分で買ってまではしたくない」

「むー。ひも。意地悪」

 頬を膨らませる。すると、とかげ君の手が伸びてぽん、と私の頬を押しつぶした。冷たいとかげ君の指の感触。突然のことで、顔が赤くなるのが自分でもわかった。

 とかげ君は私の表情を確認すると、またDSに視線を移した。

「その癖、恥ずかしい。直せ」

「……やだよ」

「お前もういい年だろ。普通に痛い」

「痛くないもんかわいいもん」

「その考え方がすでに痛々しい」

「むー」

 私は頬を膨らませる。でも、もう指はやってこなかった。かちゃかちゃ、と、とかげ君はタッチペンで画面を叩いている。あきらめて、私は頬を元に戻した。

「お前、水野とはどうなったの」

 暑いな、とでも言うような気楽さで、とかげ君はものすごくナイーブな話題を取り出してくる。私の眉が自然に寄る。

 水野君というのはとかげ君のお友達だ。お友達というのは私が勝手にカテゴライズしただけで、とかげ君自身はただの知り合いぐらいに思っているのだろう。とかげ君は親友も悪友も、ただの友達も持たない、というか持ちたがらない人間だ。ちなみに私の知る限り、彼女も作ったことはない。

「どうって別に、どうにもなってないよ。返事しなくていいって言われたし」

 水野君は、ちょっと頼りなさそうだけれど頭も悪くないし、何より感覚がまともな人だ。宮元さんが影山のことを好きなのはわかってるから返事はしなくてもいいけど、俺が宮元さんを好きだってことは、覚えておいてほしい。困ったような顔をして、ぼそぼそと早口に、そう言った。そういう告白のされ方は初めてだったので、私は彼にとても好感を持った。小さく微笑んで、どうもありがとう、とだけ答えた。水野君は眩しそうに微笑み返してくれた。

 私はじゃがりこを齧り、ぬるいナルシシズムに浸った。誰かが自分を好きだというのは、何回味わっても、やっぱり気持のいいことだから。水野君と付き合えば、私はきっととても楽しく優しい気持になるだろう。水野君は、私をまともなやり方で好きでいてくれている。そして私は、それにまともなやり方で好意を返せるだろう。それはとてもありふれた、とてもまともで互換性のある関係だ。それなりに好意を持てる相手となら誰とでも築ける、それなりに幸福な関係の持ち方。でも私はそれを、一番好きな人とは築くことが、できない。残念だけど。胸がつぶれるぐらい、残念だけど。

 とかげ君はいつの間にか、DSを閉じていた。いつもどこを見ているのかいまいちつかみきれない斜視気味の目が、まっすぐに私を見つめていた。

「付き合えばいいのに。水野は悪くないやつだ」

 そして、口元を少しだけ歪めて、笑う。いつものように。そしていつものように、私の心臓は軋み、痛んだ。湿ったため息を、短く吐く。

 とかげ君は、不思議そうに、黙ったままの私を見ている。私は胸に溜まったいろんな言葉を口にするかわりに、そう、とだけ、答えた。とかげ君の目が、快楽を滲ませたようにとろりと温む。私に、手を伸ばす。

 私は目を閉じ、とかげ君の大きな手のひらが、私の髪を滑るのに任せた。自分でつけた傷を、自分で、舐める。それがとかげ君の、ずっと昔からのやり方だ。破れ、血が滲んだ皮膚のほうが、あたたかさはずっと沁みる。

 手が離れると、私は微笑んだ。とかげ君の目に、隠しきれない喜びが覗いているのを確認したから。

 私は再び瞼を下ろす。そして、自分が受けた痛みと、そこに受けたぬくもりを、確認する。かちゃかちゃ、とタッチペンの音が、また聞こえ出した。

 もし、と私は考える。もし、とかげ君に彼女ができれば、私はもう彼に傷つけられることはないだろう。私以外の女の子を大切にするとかげ君のどんな言葉も視線も、私の柔らかいところにはきっと、届かなくなる。私は他の誰との繋がりたがらないとかげ君が、好きだ。たとえ、私に対しても、鞭みたいに言葉を振るうことだけでしか、繋がっていてくれなかったとしても。意地悪で、優しささえも意地悪の一つに変えてしまうとかげ君が、好きだ。それ以外は、いらない。今のとかげ君しか、ほしくない。

 そして、とかげ君も、彼氏ができた私には、もうどんな言葉も向けはしないだろう。私ととかげ君は、こんなふうにしか関係することが、できない。私にはそれがもう、わかっていた。とかげ君は、水野君とは違う生き物だ。あんなまともな幸福を、与えてはくれない。これから先も、絶対に。

 私たちはこれ以上近づくことも、遠ざかることもできずに、ただずっと、同じことを繰り返してる。なんの発展性も互換性も汎用性もない、私ととかげ君の間にしか生まれない関係。

 目を開く。とかげ君は、DSに熱中している。抱え込むようにしたその姿勢は、小さい頃からちっとも変らない。

 私はじっと、とかげ君を見つめている。じゃがりこを食べようかな、とも思ったけど、もうほしくなかった。ただ、とかげ君を、見ていた。広い清潔な額や、さらさらの黒い細い髪を。あまりにも見慣れすぎたとかげ君。顔を上げようともせず、タッチペンで画面を叩き続けるとかげ君。

 とかげ君。声に出さずに、私は呼ぶ。とかげ君。とかげ君。とかげ君。こっち見てよ。とかげ君。つまらないよ。とかげ君。私はもう小さい子供じゃないから、こっちを見てくれない男の子を相手におままごとはできないんだよ。とかげ君。胸が、痛いよ。とかげ君。足りないよ。全然、足りない。あんなんじゃ、足りないよ。

 とかげ君は、こちらを見ない。私は泣き出すかわりに、微笑んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る