とかげくんと小鳥ちゃん

古池ねじ

僕の可愛い小鳥ちゃん

 生協で買った弁当を食べ、ブックカバーをかけた文庫本を開くと、

「とかげ君」

 と小鳥が寄ってきた。といっても俺は爬虫類ではなく、影山幸人というただの大学二年生で、小鳥も別に鳥類ではなく宮元小鳥というただの少し親のネーミングセンスに問題があるだけの女だ。ちなみに幼稚園のときに割りに不愉快なあだ名を俺につけ、二十歳近くになった今でも継続使用するというちょっと頭の温かい女である。

 俺はあからさまに嫌な顔をして見せるが、気にした様子はない。いつもの通り、微笑みながら小首をかしげている。

「いつもここにいるねえ」

 このベンチは、丁度日陰になるうえに、学食や生協から少し離れているのでいつも空いている。気に入っているというほどではないが、気がつくとここに座っていることが多い。

「明日から場所を変えるか」

 小鳥は断りもせず、俺の隣に座る。俺は少しだけ体を引き、距離を置く。小鳥はかすかに悲しそうな顔をした。わかりやすいやつだ。

「どうして?」

「お前がくるから」

 小鳥はぷ、ともともと丸い頬を膨らませて見せた。正直痛い。だが、小鳥というファンシーな名前に違和感がない程度には整った容姿が、無理やりそれを「かわいい」の範疇に押し込めている。いたかわいい? いや、別にかわいいのは本人の意思とは無関係の自然の賜物なので、単純に精神が痛いのか。

「今日も意地悪ですね」

「それはどうも」

「褒めてないし」

「褒められたくはない」

「ひどーい」

「それで何か用か」

 水を向けると小鳥は微笑んで、赤いトートバッグから、タッパーを取り出した。

「ブラウニーだよー」

「手作りか?」

「そうだよ」

 俺はあからさまに顔をしかめて見せる。

「俺には嫌な思い出しかない宮元小鳥の手作り菓子か」

「そういう言い方はどうかと思うよ」

「計量カップの容量を100ccだと高校を卒業するまで信じていた宮元小鳥の手作り菓子か」

「そういう言い方もどうかと思うよ」

「調理実習でやったことといえば皿を三枚続けて割るぐらいだった宮元小鳥の」

「もうやめてよう」

 大きな目が潤んできたので、俺は言葉を切る。小鳥の目を覗き込んで、声音を柔らかくする。

「きちんと作ったのか?」

 うん、と小鳥は力強くうなずく。

「きちんとレシピ見たし、きちんと材料計ったし、きちんとオーブン余熱したし、きちんと味見もしたよ」

「そうか。それは美味そうだな」

 しかし思うのだが、自分が作るのが好きというのならまだしも、他人に食べさせるために手作り菓子というのはどうなのだろう。うまく作れてもレシピよりは美味くはならないわけだし、うまくいかなかったら単なる迷惑だ。あるいは手作り菓子とはその葛藤を乗り越えるほどの何がしかのメリットがあるのだろうか。俺のような卑俗な人間には思いもよらないようなメリットが。それともそんな葛藤自体に思い至らないような人間のみが作れることを許されたものなのだろうか。目の前の幼馴染に関しては、どちらなのか考えるまでもないが。

「食べる?」

「別にいらない」

「食べてよ」

「いりません」

「むー。じゃあ私一人で食べるもん」

 もん、ってなんだよ。

 小鳥は膝の上に乗せたタッパーを開く。甘い香りが鼻をついた。ピーカンナッツ? とかいうものを美しく配置した、とても美味しそうなブラウニーだった。

「美味しそうでしょ」

「うまそうだな。確かに」

 小鳥は嬉しそうに顔を崩した。

「じゃあ食べる?」

「いや、いい。甘いものは別に好きじゃない」

「嘘。ローズネットクッキー食べてたじゃない。毎日」

 何故お前はそんなことを覚えている。

「カロリー供給源として優秀だろうあれは」

「あれ一個で五百キロカロリーだっけ」

「まあ、そのブラウニーもその点では優秀そうだけどな」

「むー。意地悪」

 小鳥はしずしずとついばむようにブラウニーを食べる。目が合うと、にこりと微笑みかけてくる。美人である。知っていたが。

「おいしいよーとかげ君」

「そうかそれはよかったな」

 俺は文庫本を開く。

 ぷ、と横で、小鳥が頬を膨らませる音がした。お前はそれを本当に恥ずかしくないと思っているのか。

「とかげ君、何か言いたいことないの」

「特にないですが」

「嘘だー」

「横のうるさいのがどっか行ってくれたらとても嬉しい、といえばいいのか」

「きこえなーい」

 そしてくすくす笑う。小鳥の笑い声は鳥類のほうの小鳥の囀りに似て軽やかで、結構うるさい。

「とかげ君、何読んでるの?」

「嵐が丘。英語の授業で使う」

「私はヒースクリフです!」

 小鳥は得意げに言う。こいつ「嵐が丘」読んでたのか。情報科のくせに。

「はいはい」

「私はとかげ君です!」

「はいはい」

 落ち込んだな、とわかったので、俺は横に視線を流して、笑いかけてやる。

「何かあったのか?」

 小鳥は近くの木が撃たれたかのようにびくりと体を震わせた。無意識だろうが上目遣いでこちらの顔を覗き込んでくる。

「なんでそんなこと聞くの?」

「テンションがいつもより高い」

「そんなことないよ」

「別に何もないならないで構わんが」

「むー」

 小鳥は僅かな逡巡を見せて、それから笑わない? と尋ねてきた。

「内容による」

「むー」

 気分を害した、と表情で示してくるが、結局小鳥は口を開く。

「あのね、昨日ね、水野君に告白された」

「そうか。よかったな」

 水野というのがとっさに思い出せなかったが、微笑んで言ってみる。くしゃ、と小鳥の顔が歪む。だが、それは一瞬のことだ。

「……とかげ君、本当にそう思う?」

 傷つき慣れたような落ち着きで、小鳥は小首を傾げて俺と視線を合わせる。

 三秒ほどたっぷり見つめあい、口を開く。

「俺がなにか関係あるのか?」

 やった。

 言葉が凶器なら、小鳥は今頃血まみれだろう。笑みの形に顔をこわばらせ、小さな声で「そう」と答え、目を逸らした。

 俺は手を伸ばし、小鳥の膝に乗せられたタッパーから、ブラウニーを一つつまむ。結構厚みのある、さっくりした感じのブラウニーだ。俺の好きなタイプの。

 小鳥は大きな目をじっと見張る。

 俺はブラウニーをかじる。ぼろぼろと膝に滓がこぼれる。だから菓子はあまり好きじゃない。

 そのブラウニーは、確かに美味かった。ナッツは香ばしく、チョコレートはたっぷりと甘い。

 食べ終え、指を嘗める。そして、微笑んでやる。

「美味いな」

 小鳥は、何かを諦めているかのように笑う。

「とかげ君は、本当に、ひどいね」

 何を言っているのかわからない、というように、俺は肩をすくめる。

 かわいい小鳥。愚かな小鳥。俺はお前を恋人にしたいとは、全く少しも思わないけど、それでも世界で一番好きだよ。

 小鳥はいつものように囀る。

「明日も、一緒にご飯食べようね」

 俺は答えず、伏せた文庫本を取り上げた。

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