第8話 橋野架の選択

「浅倉先輩、もう動いてもよろしいのですか? やはり休まれた方が……」

「バカにするな。刑事たるもの、こんな擦り傷でいちいち休んではいられん。ただでさえ、前代未聞の事件なんだからな」


 ――翌朝。一台のパトカーが、摩天楼に囲まれた街道を走り、ある場所を目指していた。


 昨夜、多数の被害を出しながらも、2体のニュータントを謎のヒーロー達に任せてしまった女性刑事――浅倉茉莉奈あさくらまりなは、後輩の新見刑事に運転を任せ、朝刊に視線を落としている。その貌や体には、包帯や湿布が幾つも巻かれていた。


 優美な曲線を描く艶かしいスタイルに、黒く艶やかなロングヘア……そして豊満に飛び出したHカップの巨峰を持つ、警視庁きっての敏腕と美貌を併せ持った彼女は――警察では対応しきれないニュータント犯罪の解決を、外部のヒーロー達に委ねてしまっている現状に歯噛みしていた。


 ――デーモンブリード、桃ノ島もものしまにて「吸血夜会」の幹部級怪人を撃破。彼の快進撃は、止まるところを知らない。

 ――紅蓮魔ぐれんまヒバチ、東京郊外にてニュータント犯罪組織を壊滅。正義の爆炎、悪の野望を焼き尽くす。

 ――ゴールデンオーガ、天津市あまつし郊外の廃ビルにて、ニュータント怪人を撃破。黄金の戦鬼、常勝無敗。

 ――キャプテン・アオモリ、川で溺れていた子供を救出。郷土愛、今日も炸裂。ニンニクや長芋もよろしく。

 ――マイティ・ロウ、神嶋市かみしましにて銀行強盗を単身で鎮圧。我らのヒーロー、未だ敗北を知らず。

 ――キャプテン・コージ、都内に出現した10体以上のニュータントを殲滅。神の閃光、異形を穿つ。


 こうして新聞の大見出しに必ず現れる、ニュータント・ヒーロー達。市民は皆、彼らを信頼し崇めている。この時代においても「税金泥棒」と陰口を叩かれている警察とは、雲泥の差だ。


 そんな苦境に、溜息を吐き出しつつ。怜悧な美貌を持つ女刑事は、新聞の片隅に小さく載せられていた見出しに着目する。


 ――謎のヒーロー、「吸血夜会」のヴィランを捕獲。何らかの特殊能力により、ヴィランを生身の人間に戻した模様。能力の正体は依然として不明。


 その内容を、彼女は目を細めて凝視していた。

 ――昨夜、あの赤いヒーローは生身になったブルーハ・ニュータントを自分達に引き渡した後、いずこかへと姿を消してしまった。何か思い詰めている様子だったが――それを問う暇もなく、彼は赤いオープンカーで走り去ってしまった。


「依然として不明……か」

「ニュートラルを切除し、ニュータントを生身の人間にしてしまう謎のヒーロー達……。彼らは、何者なのでしょうか。あんなヒーローは登録されていませんでしたし……」

「それをこれから確かめるんだ。ようやく、手掛かりになりそうな情報を得られたしな」


 新聞を畳み、茉莉奈は用意している書類に目を通す。その1枚には、壮年の医師の顔写真が貼られていた。


「城北大学付属病院院長、藍若勇介54歳。昨夜から行方が分からないんですよね」

「周囲の人間の話ではここ最近、何かと思い詰めたような顔をしていたそうだ。しかし……親族も当人が何をしていたかは知らないらしい。何か知ってる参考人がいるとすれば……この男しかいないだろうな」


 その1枚をめくると――今度は、優美な青年の写真が目に入る。その書類を見つめる女刑事は、スゥッと目を細めていた。


「城北大学付属病院に勤務する外科医、橋野架20歳。藍若院長とは特に仲が良い医師だそうだ」

「20歳……? 医師免許が取れるのは、最短でも24歳からでは……?」

「……お前はたまには新聞を読め。橋野架といえば2年前、飛び級で海外の大学を卒業して、齢18で医師免許を取得した天才児だろう。当時は何度もニュースになっていた時の人だぞ、全く……」

「す、すみません。……あ、そろそろ着きますよ」


 情報収集が足りない部下にため息をつき、茉莉奈は目的地である城北大学付属病院を見上げる。

 昨夜の事件との関連性を探るべく、ここへ足を運んだ彼らは――パトカーから出ると、剣呑な面持ちで歩き出していた。


(……橋野架は10年前、交通事故で両親を失い、当人も意識不明の重体だった。その彼を救った当時の執刀医が、藍若勇介……か)


 ◇


 ――その頃。架は、何事もなかったかのように出勤し、白衣に袖を通していた。


 あの後……残弾が僅かだったことを受け、やむなく帰還した架は、エイドロンと2号のスーツを地下研究室に一旦格納することになった。

 無人となった地下研究室には、勇介が残した装備や設備が全てそのままになっている。彼は自分が死んだ後、その全てを架に託す算段だったのだろう。


 憂いに満ちた表情のまま、いつものように診察室を目指し廊下を歩いていた彼は――心ここに在らずといった様子で、床を見下ろしていた。


(勇介先生……あなたは、あなたは本当に藍若さんを……家族を残して……?)


 自ら死を望み、姿を消した勇介。彼の決断は、本当に正しかったのか。

 夜が明け、一睡も出来ないまま今日を迎えた今も、架はその答えを見出せないでいた。


(尊厳死……先生は、本当にそれでいいんですか)


 確かに勇介を救うとなれば、そのために生じるリスクは計り知れない。だが、彼の決断に沿うということは、「医師」でありながら「患者」を見捨てることを意味している。

 手遅れでもない、救える可能性があるはずの、「患者」を。


「ね、ねぇ楓ったら。そろそろ元気出しなよ、あんたがいつまでもそんな調子だと、患者さん達までしょげちゃうじゃん」

「でもっ! でもっ……凪沙なぎさっ……!」


 その事実が、若き医師の背にのしかかる時。架の視界に、2人のナースが飛び込んでくる。

 茶色いウェーブの長髪が特徴の、藤野凪沙ふじのなぎさ。そして彼女の親友であり、今まさに「死」に近付いている勇介の娘――藍若楓。


「藍若さん……」

「先生……橋野先生っ!」


 彼女達と目が合う瞬間。楓は泣きじゃくりながら、架の胸に飛び込んでくる。内気で恥ずかしがり屋の彼女らしからぬ挙動に、親友の凪沙は驚嘆の声を漏らしていた。


「先生っ! お父さんが……お父さんが、昨夜から家に帰ってないんです! 警察に届けても行方がわからなくて……私、私どうしたら!」

「……」


 架の胸で啜り泣き、楓は嗚咽交じりの声で訴える。そんな彼女の涙を見下ろし――架は、己の中である一つの結論を出していた。


(……違う。こんなはずはない。先生が、この子の涙を望んでいるはずがない)


 本当にこれが、こんな結末が、楓の……家族のためだというのなら。今、彼女が泣いているはずがないのだ。

 勇介には、平和よりも正義よりも、守らねばならないものがあるはずなのだ。


「先、生……?」

「大丈夫。勇――院長は、必ず帰ってくるよ」

「えっ……? で、でも、警察の人でも全然見つけられないのに……」

「――少し、院長の行き先に心当たりがあるんだ。ちょっと出掛けるから、ここで待ってて欲しい」


 そう確信した架は、指先で楓の涙を拭うと――か細い両肩に手を置き、彼女の身体を引き離す。そして、真摯な眼差しで彼女の眼を射抜き、自分の「選択」を告げるのだった。


「お父さんの居場所がわかるんですか!? 私も行きます、連れて行ってください!」

「それはダメだ、危険過ぎる」

「危険……!? それは……どういうことなんですか!?」

「……院長は、必ずオレが連れて帰る。それからが、君の出番だ。院長が帰って来たら、付きっ切りで看護してあげてくれ」


 それを聞いた楓は、父に会いたいと架にせがむ。だが、勇介が消息を絶っていることの真相を知る彼は、決してそれを許さない。

 架は、楓に「出来ること」だけを告げると――白衣を翻し、いずこかへと走り去ってしまった。


「ま、待ってください! お願いですっ! 先生っ! 橋野先生っ!」

「ちょ、ちょっと橋野先生ぇ!?」

「ごめん藤野さん、藍若さんのことよろしく頼むよ!」


 楓だけでなく、凪沙も制止しようと声を上げるが――架は振り返ることなく、そのまま走り去ってしまう。


『一つ一つ、自分に出来ることを尽しなさい。大切な人の力になりたいと願うのなら、お前が選べる道はそれだけだ』

『院長は、必ずオレが連れて帰る。それからが、君の出番だ。院長が帰って来たら、付きっ切りで看護してあげてくれ』


 ――そうして消え去っていく背中に、決して届かない手を、伸ばしながら。涙に塗れ、悲しみに歪んだ貌のまま……楓は、嗚咽を漏らして座り込んでしまう。

 その脳裏には、愛する「父」と「彼」が残した言葉が過っていた。


(橋野先生っ……私、頑張りますから……出来ることを、尽くしますから……! だから、どうか、どうかお父さんをっ……!)


 凪沙は、そんな親友を心配げに見下ろし、どう声を掛けたものかと苦心していた。

 ――するとそこへ、黒いスーツに袖を通した、怜悧な美女が現れる。胸元から僅かに窺える、はち切れんばかりの巨峰を揺らす彼女の後ろには、歳若い新米刑事が控えていた。


「失礼、警視庁の浅倉茉莉奈あさくらまりなと申す者ですが。こちらの病院に、橋野架先生はいらっしゃいますか?」

「えーっと……すみません。橋野先生なら丁度今、どっか行っちゃいまして」

「……なんですって?」


 警視庁の者だという彼らに、何事かと目を丸くしつつ。泣き崩れている楓に代わる形で、凪沙はありのままの状況を説明する。

 その言葉を聞いた茉莉奈と新見刑事は、暫し互いに顔を見合わせた後――弾かれるように走り出していた。


「――追うぞ新見!」

「あ、ちょ、ちょっと待ってくださいよ先輩!」


 今ひとつ状況が飲み込めず、凪沙は首を傾げながら彼らの背を見送る。


「……なんなのよ、もう」


 それでも彼女は、わからないなりに。悲しみに暮れる親友の肩を、優しく抱き寄せていた。

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