第3話 藍若楓の苦悩
――4時間に渡る手術の末、ニュータントの爪に切り裂かれたという重傷患者は一命を取り留めた。
手術を終え、術後経過を見る段階に至る頃にはもう、夜の帳が下りていた。架はシャワーを浴びて着替えた後、カルテを見るため診察室に足を運ぶ。
「ふうっ……」
「橋野先生、お疲れ様です! あの、良かったらこれ……」
そこで待っていた楓から一杯のコーヒーを受け取った架は、カップに唇を寄せながら椅子に腰掛けた。
そんな彼の横顔を、楓は熱を帯びた眼差しでじっと見つめている。
「あぁ、ありがとう藍若さん。……院長は?」
「もう院長室に戻られています。今日は……これで終わり、みたいですね」
「そっか」
山積みになったカルテに一つ一つ目を通しつつ、架は物思いに耽っていた。
――18歳で医師免許を取得した天才。その触れ込みでメディアの注目を集めてから、2年が経った頃。架は恩師である藍若勇介から、城北大学付属病院に異動するよう誘われていた。「君にしか頼めないことがある」、と。
それに応じて、日本に帰国してから半年。職場にも馴染み、仲間達にも恵まれた日々ではあるが――自分をここへ導いた勇介は、未だにその目的を語らずにいた。
(オレが院長に呼ばれて、この病院に来てから……もう半年になる。何か理由があってのこと、のはずだが……今の所、それを教えてくれる気配は全くない。先生は一体、何を考えている……?)
ニュータント犯罪による被害者達を救える、優秀な医師を集めるというだけなら……他にも適任者は大勢いる。確かに架も腕に覚えのある1人だが、決して彼以上の名医がいないわけではない。
架は現状から「自分でなければならない」理由を見出せず、眉を潜めていた。
「……」
――そんな彼の貌を。楓はじっと、覗き込んでいる。どこか儚げで、悲しげなその眼差しは、父が最も信頼している医師の眼だけを真っ直ぐに見つめていた。
『……一つ一つ、自分に出来ることを尽くしなさい。大切な人の力になりたいと願うのなら、お前が選べる道はそれだけだ』
その脳裏に過るのは、敬愛する父が残した言葉。豊かな胸の上で指を絡める彼女は、物憂つげな表情を浮かべていた。
(お父さん……)
やがて彼女は、意を決したように顔を上げると――真摯な面持ちで架に声を掛ける。
その声色に反応した彼は、深刻な相談であることを察して、神妙な表情に変わった。
「あの……先生。お疲れのところ、大変申し訳ないのですが……少し、お時間を頂けますか」
「うん?」
そんな彼と、視線を交わして。
楓は、彼ならばと望みを託すように――思いの丈を打ち明ける。
「父の……ことなんです」
「……!」
それは――架自身にとっても関係の深い父、勇介のことだった。
◇
――数日後の深夜。
夜遅くまでの勤務を終え、自宅に辿り着いた勇介を、玄関から1人の美女が出迎えていた。上流階級が集まる閑静な高級住宅街の中で、彼らの家だけが明かりを灯している。
「……ふぅっ」
「お帰りなさい、あなた。今日も遅かったのですね」
「あぁ、まぁな」
勇介の上着を預かり、甲斐甲斐しく世話を焼く彼女は――
楓の美貌とプロポーションが、誰に由来しているのか。それは彼女の成熟した肢体を見れば、一目瞭然だろう。
「お食事の用意がもうすぐ終わりますから――」
「いや、いい。今日も少し仕事が立て込んでいてな、遅くなるからお前達は先に寝ていなさい」
だが、そんな妻の熱い視線すらも意に介さず。勇介は着替えもせずにそのまま、自室の書斎に向かおうとする。彼を引き留める奏は、その表情を悲しみに染めていた。
「あなた……そう仰って、昨日も何も口にされなかったじゃありませんか。これ以上は体に毒です、少しはお休みにならないと……」
そして申し訳なさそうにしつつも、少々強引に彼の手を引いた――その時。
「……触るな!」
「きゃっ……!」
「……!」
勇介は突然声を荒げ、奏の手を振りほどいてしまった。その
その「力」に驚いたのは、突き飛ばされた奏だけではなく――腕を振るった勇介自身も、この「力」に瞠目しているようだった。
「あ、あなた」
「……す、済まない。お前の言う通り、このところ少し疲れが溜まっているようでな……。だが、今はまだ休むわけにもいかんのだ」
「……」
気を取り直した勇介は、妻を抱き起すと取り繕うように微笑む。だが、奏の表情からは不安の色が拭えない。
「……なに、今の仕事が落ち着けばゆっくり出来るようになる。その時はうんと、休ませてもらうさ」
「あなた……」
「だから……今は、独りにしておいてくれ。どうしても今、やらねばならないことなんだ」
自身を案じるその眼差しを、痛いほどに感じながら。勇介はそこから目を背けるように、書斎に向かっていく。
突き飛ばされたことへのショックゆえか、彼を案じるゆえか。奏は不安げに眉を潜めながらも、ただ彼の背を見送ることしか出来ないでいた。
「お母さん! 大きな音がしたけど……!」
「楓ちゃん……」
「お父さん……なの?」
すると、そこへ風呂から上がったばかりの楓が駆け込んでくる。母譲りの美貌と肢体を持つ彼女は、生まれたままの姿を一枚のバスタオルで隠しながら、心配げに母の側へと寄り添った。
「……前々から、忙しそうにされてはいたけど。ここ最近、特にひどく疲れていらっしゃるわ」
「お父さん……」
「何かせめて、お父さんの疲れを癒せる方法があればいいのだけど……」
そんな愛娘に「私なら大丈夫よ」と微笑みつつも、奏はその貌に滲んだ不安の色を隠しきれずにいる。
19年間、愛する母と共に暮らしてきた娘がそれに気づかないはずもなく――父に起きている異変を感じた楓は、苦い表情を浮かべて書斎の方向を見つめるのだった。
(橋野先生……)
やがて。
そんな彼女の胸中を、ある男の笑顔が過る。父が誰よりも信頼を寄せる、「彼」の笑みが。
◇
――その後。ハート柄のパジャマに袖を通した楓は、華やかな自室のベッドに身を投げ、天井を仰いでいた。
この頃、勇介は普段以上に帰りが遅く、何か思い詰めている様子だった。だが、娘や妻に問い詰められてもはぐらかすばかりであり、いつも書斎に閉じ籠っている。
――そんな父は日に日にやつれ、疲弊を重ねているように見えた。
(お父さんと仲良しの橋野先生なら、何かお父さんの力になってくれるかも知れない。……いつも皆に頼られて忙しい先生に、こんなこと頼んじゃうなんて、いけないことだけど……もう他に、頼れる人なんていないし……)
このままではいつか、取り返しのつかないことになってしまうのではないか。そんな不安に駆られた楓が、迷惑を承知で架に助けを求めたのが、つい先日のこと。
架は快く引き受けてくれたが……楓自身としては、本当にこれでよかったのか、という葛藤があった。
(橋野先生……)
――ふと、架を想う彼女の視線が。ベッドの棚の上に飾られている、1枚の写真に移される。
幼い頃、神嶋市の植物園に訪れた際。家族
(いつからかな……橋野先生にお兄ちゃんのこと、重ねるようになったのは……)
――その中に映る、亡き兄。アネモネの花畑に包まれた、生前の肉親を見詰めながら……楓は、その日のことを思い返していた。
『ねー、父さん。何なのここ、白い花でいっぱいだけど』
『これはね、アネモネという花なんだ。人に生きる力をくれる、「希望」の花なんだよ』
『きぼう?』
『そう。
『んー……よくわかんないや』
『わたしもー……』
『あっははは、いつかわかる日が来るさ』
父は、「希望の橋」と呼ばれる綺麗な場所にも連れて行ってくれたが……兄も自分も、父の話を理解することは出来なかった。
そればかりか兄は……理解するための年月を生きることさえ、許されず。10年前、ニュートラル・ウイルスに感染し……この世を去った。
感染者の体が幼すぎると、強大なウイルスの作用に肉体が耐えられないのだという。
「……お父さん、お兄ちゃん……」
思えば、兄が世を去った時から。明るく優しかった父の笑みには、影が差すようになり――徐々に、今の彼へと変わってしまったように思う。
もし兄が健在ならば、そんな父をきっと救ってくれていただろう。そのような想いが、兄の面影を持つ架を頼るよう、楓を導いたのかも知れない。
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