第2話 天才外科医・橋野架


 ――1999年、「メキドの刻」。

 その日を境に人類は、自らを蝕む病魔の存在を悟る。


 老若男女、ありとあらゆる人間に感染し、無機物まで侵食する未知の病原体。「ニュートラル」と命名されたそのウイルスは、人間を「超人」に「変身」させる病を発症させていた。


 ニュートラルに感染し、異能の力を手にした者達は「ニュータント」と呼ばれ、その運命は彼らの心ひとつで二分される。

 自らの力を人々の平和に役立てる「ヒーロー」になるか。己の欲求のままに力を振るい、人々の脅威となる「ヴィラン」になるか。


 彼らの行く末を巡り、人々は社会の中で彼らを管理すべく、様々な制度を導入していた。ニュータント犯罪対策基本法。ヒーロー登録制度。その新たな司法は、多岐に渡る。

 正義か悪か。ヒーローかヴィランか。人の身でありながら、過ぎた力を手にしてしまった彼らを、人間社会は二極に分けることで安定を保とうとしているのだ。


 ――だが。


 ニュータントという存在を、正義でも悪でもなく……「患者」と見做し、手を差し伸べようとしていた医師がいたことは、知られていない。


 ◇


 ――20XX年、4月。

 東京都某区、城北大学付属病院。


 区内でも有数の規模と敷地を持つ、その大病院には……1人の若き医師がいた。


「はい、もう大丈夫。今までよく頑張ったね、大地だいち君」


 ――小児科診察室。

 その一室の椅子に腰掛ける白衣の青年が、聴診器を外して優しげに微笑む。表情こそ穏やかであるが、白衣の下にある炎柄のTシャツや紅いレザーパンツ、漆黒のブーツ等からは、情熱的な印象が漂っていた。

 向かいの椅子に座っていた少年は、そんな彼の言葉に満面の笑みを浮かべている。それだけ、少年は「評判」の彼を信頼しているのだ。


「うん、先生ありがとー!」

「ありがとうございます橋野はしの先生、本当にお世話になりました……」

「もしまた具合が悪くなったら、いつでも来てくださいね。お大事に」


 少年の隣に立っていた母親が、深々と頭を下げる。そんな彼女に、先生と呼ばれる青年は朗らかに笑いかけ――病から解放された親子を見送った。

 その眼差しに、微かな「羨望」を乗せて。


 ――橋野架はしのかける

 10年前、この病院で九死に一生を得た彼は、勤務医としてここに籍を置いている。


 2年前。齢18という異例の若さで海外の医大を卒業し、医師免許を取得した天才として知られている彼は、ニュータント犯罪による負傷者が絶えないこの時勢には欠かせない人材として、その手腕を振るっていた。

 その艶やかな黒髪や長身、甘いマスクもあってナース達からの人気も高いのだが……当人は患者のことしか頭にないのか、今の所は浮いた話が全くない、というのが現状である。


「ふぅっ……今日はまた随分と忙しいな。外傷のケースは特に多いし」

「ここ最近……特にこの近辺で、ニュータント犯罪が多発してるみたいですから……」


 椅子に腰掛け、一息つく架。そんな彼に寄り添う1人のナースが、彼の前にコーヒーを差し出した。


 ――藍若楓あいわかえで

 ショートヘアの黒髪に色白の柔肌、そして推定Gカップの巨峰を持つ、院内でも評判の美人看護師だ。さらに院長の娘という、筋金入りのお嬢様である。

 19歳の若さで準看護師として、父が院長を務めているこの病院に勤務しており、現在は架の助手として尽力している。その家柄と清楚な美貌ゆえ、学生時代から幾度となく男性に言い寄られており、中高生の頃は「学園の聖天使」とまで呼ばれていた……のだが。


 当人は、ある男性にしか興味がないらしく――未だに、恋人がいないのだという。


 それほどの美女にコーヒーを淹れられているのだが……架自身はさして気にする様子もなく、遠い眼差しで患者達のカルテを見つめていた。いずれも、街で暴れた「ヴィラン」のニュータントによる被害者達のものだ。


「……ニュータント、か」


 その余りにも多い件数に、深くため息をついて。架は、ニュータント排斥を叫ぶ新聞の記事を見遣り、苦々しい表情を浮かべていた。


(確かに世間は、ニュータントを悪魔の怪人だって糾弾してるけど……ニュータントだって、ニュートラルに感染した「患者」じゃないのか)


 そう思案する架の耳に、ナース達の雑談が、診察室の扉越しに入り込んでくる。


「ねぇ今朝のニュース見た!? また『ジャスティス』が現れて怪人をやっつけたんだって!」

「見た見た! カッコいいよね〜、『神装刑事しんそうけいじジャスティス』! 私ファンになっちゃった〜!」

「んー? あんた前に橋野先生に憧れちゃう〜、なんて言ってなかった?」

「それはそれ、これはこれよ! 怪人達から私達を守ってくれるヒーローなのよ、好きになって当然でしょ」


 ――神装刑事ジャスティス。


 それは今話題の、ニュータントを必ず抹殺・・・・することで知られているヒーローの1人だ。苛烈なまでにヴィランに堕ちたニュータントを憎み、一切の容赦なく滅殺するその姿は、白く整然とした容姿とのギャップもあり、広く民衆に知れ渡っている。

 「白い処刑人」とも呼ばれ、恐れられてもいる存在だが――常にニュータント犯罪に怯えている民衆にとっては、そんな彼の姿勢が頼もしいのだろう。ニュータント犯罪が勢いを増している昨今、ジャスティスのようなヒーローを支持する声は日を追うごとに高まっていた。


(超常の力ゆえに誰からも理解されず、手を差し伸べられることもない「患者」……か……)


 だが、ヒーローもヴィランも、元を辿れば皆人間。にも拘らず、民衆はニュータントの抹殺と排除を望むようになっていた。

 そんな社会から孤立しつつあるニュータントの未来を憂いて、架は目を伏せる――のだが、その時。


「済まないな、橋野君。専門外の小児科まで任せてしまって」

「あっ……お父さん!」

「いえ、構いませんよ。力になりたいって申し出たのは、オレの方なんですから」


 背後から響いてきた声に反応し、架は一旦思考を中断してしまう。すぐさま振り返った彼の前で、気難しく眉を潜めている初老の男性――藍若勇介は、架の顔を見るなり、なんとも言えない表情で目を伏せてしまう。

 ――本来、架は外科手術が専門であり、小児科は本業ではない。だが、本来小児科を預かるはずだった医師が、ニュータント犯罪を恐れてここを辞めてしまったため、架が一時的にその役目を兼任しているのだ。


「本来担当するはずだった小児科医が辞めてしまったのは、思いの外痛手だったな……。君の負担を軽減するためにも、早く後任を見つけねばならん」

「ニュータント犯罪のせいで、ここで頑張ってくれる医師の皆がいなくなってしまうのは……辛いですからね」

「そうだな……それと、楓。いい加減、職場でお父さんと呼ぶのはやめなさい。何度も言っているだろう」

「あっ……ご、ごめんなさい」


 そんな架の負担に、心を砕く一方で……勇介は目を細め、娘の私情を諌める。楓は身を竦めて頭を下げるが、架は彼女を庇うように笑っていた。


「いいじゃないですか。家族が仲睦まじくしてちゃいけない、なんて規則はここにはありませんよ」

「……君がそう甘いと、娘がしっかり働けているかも心配になってくる。楓が何か迷惑をかけていないか? この子は昔から何かと抜けていてな……」

「う、うぅ……」


 だが、勇介としては娘の勤務状況が気にかかるらしい。ため息混じりに自分を見つめる父の視線に、楓は冷や汗をかいていた。

 ――すると。勇介の前に立った架は、穏やかに微笑みながらもきっぱりと言い放つ。


「迷惑だなんて、とんでもない。彼女には、いつも助けて貰ってばかりですよ」

「橋野先生……」

「……そうか、そうだといいな。手のかかる娘だが、よろしく頼む」

「ちょっ……お父さん!」


 そんな彼の眼と言葉を前に、勇介は納得したように口元を緩めると……含みを持った言葉を残して、診察室を後にしようとする。その意図を察した楓だけが、顔を赤らめて声を上げようとした――瞬間。


 突如、院内の電話が鳴り始めた。その内容を瞬時に察した架は、毅然とした表情に変わると素早く受話器を取る。


「――はい、橋野です」

『橋野先生! 2分前に救急で運び込まれた男性1名が、かなりの重体なんです!』

「重体……またニュータント絡みですか?」

『は、はい。止血はしましたが、全身を爪のような刃物で切り刻まれていて……!』

「分かりました、すぐそちらに向かいます。手術室の準備を」

『はいっ!』


 ――こういった急患は、今に始まったことではない。

 この近辺はまだニュータント犯罪の件数も少なく、比較的平和な方ではあるが……他の区では、こうした重傷患者が出る事態は日常茶飯事なのだ。


 架の様子から内容を察した勇介は、渋い表情を浮かべている。楓も、また・・重傷患者が出てしまったことで胸を痛めているようだ。


「またニュータント犯罪による被害者か……」

「急患……それもかなりの重体のようです。少しここを外しますね」

「は、橋野先生! 私もお手伝いを……!」

「藍若さんは他の患者さんを頼むよ、ここも人手が足りないんだ」

「で、でも……」

「大丈夫。オレ達で一緒に・・・、皆を助けよう」

「……っ!」


 日々増加の一途を辿るニュータント犯罪に対し、人々は無力であり――生命線となる医師の数は、圧倒的に足りていない。

 そんな現状の中でなおも奔走している架は、楓に微笑みかけた後――すぐさま毅然とした面持ちに変わり、診察室を飛び出して行った。

 例え持ち場が違っていても、自分達は皆、共に戦う仲間だと言い切って。


「……一つ一つ、自分に出来ることを尽しなさい。大切な人の力になりたいと願うのなら、お前が選べる道はそれだけだ」

「……」


 そんな彼に対する、無力感に打ちひしがれながら。楓はただ、その背を見送ることしかできなかった。勇介はそんな娘の肩に手を置き、厳しくも暖かみのある言葉を残す。


(……私も、いつまで尽くせるかな)


 ――その身を蝕む病魔・・の存在に、苛まれながら。

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