仮面

みょん

仮面

 春の暖かさにつられてか、心なしかいつもより賑やかな気のする教室。今、僕の高校は昼休だ。僕はひとり窓際の自分の席で読書に熱中している。僕にとって何かに熱中することは、この喧騒や孤独から逃避する唯一の方法だった。しばらくすると、それを妨げる人が現れた。

「急にごめんね。君っていつもそんな感じだけど、ひとりが好きなの?」

 見上げるとそこには、このコンクリートのゴツゴツとした校舎とは似合わない可憐な少女が立っていた。窓から差し込んだ光は彼女を包み込み、神秘的な雰囲気をかもしだしていた。青緑のセーラー服に赤いリボンをした彼女は、クラスメートの大木だった。口調から察するに、純粋な疑問のようだ。


 僕は返事をしようと口を開いた。

「それは……」

 しかし、言葉にできなかった。どんな言葉を選ぶべきなのか、選んだとしてどんな表情で返事をすればいいのか、また僕自身ひとりが好きなのかどうかも、まるで見当がつかなかった。僕が考えているうちに、彼女は不思議そうな顔になっていき、仕舞いには、

「変な質問しちゃってごめんね。邪魔しちゃったかな? またね」

 と言って立ち去ってしまった。どこかで生徒がこちらを見てクスクスと笑っているような気がした。羞恥心が額までのぼってきた。


 人間関係の柱となるのが意思疎通だ。僕には、その柱が欠落している。先ほどのように、言葉を出すべきところで言葉が出ない。そして柱の欠落であるがゆえに、人間関係が、それどころか世界の内も外も、あらゆる場面が支えをなくしてぐにゃりと歪み、ひどく醜いものになっていた。そしてこの歪んで見える世界そのもの、それからこの運命をも僕は嫌悪していた。


 午後の授業はあまり頭に入らず、あっという間にホームルームに突入し、号令とともにひとりクラスを飛び出し下校道に出た。この地域は田舎なので、車もあまり通らず、また人という人もおらず、下校する帰宅部の生徒がぽつりぽつりといるばかりだ。


 ひび割れたコンクリートの細い道と、曲がりくねる道とその周りの畑を長めながら淡々と歩いていると、この左右の足の単調な運動と、明日も明後日もいつまでも変化の無い学校生活、その先の人生とが似ているような気がした。そして、本能と呼ぶべきなのか、その得体の知れない意思によって無意味に突き動かされ、死という最終目的地に付くと再びその意思によってひたりと静止させられる、まるで操り人形のようなものだという点において、足と人生は似ていると思った。もっとも、人生の中に身体があり、身体に足があるのだから、逆に足の延長に人生があるのは当然のことでもあるとも思った。そして我ながら非常にくだらないことを考えていると思い、自己嫌悪した。


 家に着くと、酔った父親が汚い台所で母親を殴っていた。母親は冷蔵庫へ押し付けられ、腹を殴られる度に、何か得体の知れない動物のようなうめき声をあげていた。よく見る光景だ。父親はやせ細った身体をしているので、殴られたところで母親もさほどの怪我にはならないとは思ったが、それでもいつか死ぬのではないかと僕は心配している。しかし母親は、私のせいだから殴られて当然なのだと言い張って、相談所や警察への連絡を頑なに拒否している。世間体を気にしているのだろう。前に僕が痣だらけの母親を見かねて連絡をしようとしたときは、今度は母親が包丁を振り回して暴れた。僕の右腕には、一直線にそのときの傷跡が深く刻まれている。だから僕は、もうこのままでいいのだと自分に言い聞かせることにした。


 自分の部屋に入ると、学校の復習と予習をし、昼休みの本の続きを読みながら眠りについた。それまで終始、例のうめき声と泣き声がきこえていた。


  * * *


 明くる日の昼休みも、昨日のように彼女は話しかけてきた。

「何を読んでるの?」

 僕は「草枕」とだけ告げて、再び口を閉ざした。彼女は「へぇ」と興味深そうに僕の顔と本を交互に見た。

「確か夏目漱石の本だよね? 文学少年だね。私はそういう本はあんまり読まないから、おすすめとかあったら教えて」

 僕はまた口を噤んだ。これは社交辞令なのか、また社交辞令だとして、こちらも社交辞令として何か本を薦めないといけないのか? また、ここで誤った本を薦めた場合、手ひどい仕打ちを受けるのではないだろうか? などという被害妄想まで浮かんだ。他にも、そもそもどのような本を薦めたら良いのかわからなかった。

「うーん……どんなジャンルが好きなの?」

 しばらくして僕の口がようやく開いたので、彼女は少し明るい顔になり、そうだなぁなどと言って考え始めた。一秒もしないうちに彼女の口から言葉が流れてきた。

「ライトノベルかな。知ってる? 『俺の非日常ラブコメがなぜか勝手に始まっている』とか」

 ライトノベルの存在自体は知っていたが、なんだか凄いタイトルだと思った。他のものもこんなタイトルなのだろうか。

「ごめん、わからない……」

 ごめんと謝るのは僕の悪癖だ。幼少の頃から、頻繁に父の拳が飛ぶので、気付かないうちに誰彼構わず先に謝るようになっていた。

 彼女は苦笑して、ふと外を眺めた。

「じゃあ、とりあえず草枕、読んでみようかな。面白い?」

 彼女は微笑んだ。窓から差し込んだ光を受けたその細く黒く長い髪、つややかな唇、そして細く繊細な顔は昨日と同じく神秘的だという感想を抱かせた。神秘的な容姿、社交性、性格の良さ……僕とはまさに対極にある人だと思った。僕の醜く歪んだ世界から唯一見える光だと思った。僕の醜い瞳からはその光さえもが歪んで見えたに違いないが、それがかえって万華鏡のような美しさに変貌させたのだとも思った。

「面白いよ。僕は何度も読んだから、その、よかったら、読む?」

 少し手汗をかいた気がする。僕はとりあえず、彼女に本を手渡した。彼女は、ありがとう、じゃあ読んでみるねと微笑んだところで、他の女子生徒に呼ばれ、去っていった。


 そして僕はまた孤独と自己嫌悪を感じ始めていた。人と話せば話すほど、僕の欠落が露になっていく。その欠落は人との隔たりを表し、人との隔たりは、人間失格の烙印を表しているように思えてならなかった。そして彼女は、僕が人間失格であるからこそ、同情心から優しくしているのではないか、という被害妄想が渦巻いた。そうして僕の心は独りでにかき乱された。


 そして、いずれ彼女は、高校生活を長くするうちに、良い人であるが故に集団生活特有の妬みの渦に巻き込まれるのではないか、そして僕の光はあっという間にかき消されるのではないかという恐怖が襲った。しかし同時に、だからといって僕には何もできないだろうという諦めの意識が襲った。僕は僕自身でさえも救うことができないのに、いったい誰を助けられるというのだろうか? そもそも、自分の光を失うのが怖いから救いたいというのは、不純な動機ではなかろうかとも思い、自分に呆れた。

 5限目の音楽の授業とホームルームを終えると、すぐさま下校し、いつもの道を帰り、家についた。今日は家の中は静かだった。父の勤務表を見ると夜勤と書いてあった。束の間の平穏が訪れた。僕はその晩、音楽の授業で習ったショスタコーヴィチの交響曲5番を聴いていた。この暗雲とした曲と大木の雰囲気は対極にあるはずなのに、どこか似ている気がした。僕にはなぜだかわからなかった。


 僕は眠りの奥底で、彼女が泣いている夢を見た気がした。


 * * *


 数日後のある雨の日、再び彼女は僕に話しかけてきた。彼女は貸してくれた本の最初のほうが少し難しくて躓きかけていたこと、でもとても興味深かったので最後まで読んだということ、そして僕が貸してくれて凄く嬉しかったことを話し、本を返した。僕は「よかった」とだけ返事をした。それから僕と彼女は、長い間校庭を眺めていた。時々、彼女が僕のほうを見た。僕も彼女の美しい髪と、遠くを見つめる瞳を見た。そして彼女には、どこか悲しげな本当の顔があるような気がした。僕は気が付くと、彼女に話しかけていた。

「何かあったの?」

 僕がそう言うと、一瞬驚いたような顔をしてこちらを見たが、すぐにいつもの優しい顔に戻り「ううん、ちょっと疲れただけ」とだけ言って、また校庭を眺めた。その瞬間、彼女の頬を涙が伝うのを僕は見た。僕にはその涙の意味も、何があったのかも、そしてなんと声をかけていいものかわからなかった。そしてあらゆる言葉が、僕の口から出ることを拒んでいた。僕たちはただ、ひたすら雨の降る校庭を眺めていた。

 そうして、彼女と僕は次第に昼休みや下校時、放課後などの時間を一緒に過ごすようになった。初めのうちはよく話した彼女だったが、最近では彼女の方がふらりと僕のところに来て、そのままぼーっとしたり、ときたまあの涙を見ることがあったりしただけだった。どこか以前よりも暗い影のようなものを感じた。


 彼女との時間は、孤独どころか、他のあらゆる不幸すらをも忘却させた。そして何より彼女との時間は心地が良かった。時折僕も訳も泣く涙した。彼女は優しく笑いかけてくれた。大丈夫だよと言ってくれた。彼女は光だった。遠く眩い光だった。ただ僕は、未だ彼女の真実らしき姿を知らない。僕の目を通すと、どうしても彼女という光は万華鏡を通したように幾重にも跳ね返され、歪められ、ありもしない姿に湾曲され、それでいて過剰に美しい姿をしている。あの涙や暗い何かは真実の姿の一部だったのだろうか? 僕はいつしか、万華鏡に映る虚構の美よりも、真実の姿を眺めてみたくなっていた。


 家では、相変わらず父の拳が飛び交ったが、頻度は前よりも少なくなっていた。ただ、父親の飲酒量は脳を萎縮させないかと心配になったし、アルコールで真っ赤になってリビングで寝ているときの姿は、どこか死体を思わせて身の毛をよだたせた。ひそかに呼吸を確認したりしたこともあった。そうすると、いつも生きている。それを確認する度に、また近いうちにこの人の拳が母親を殴るのだろうと思った。


  * * *


 今日もまた、彼女と放課後の時間を過ごしていた。今日は校舎の中庭のベンチにふたり腰掛けている。彼女は相変わらず無口なまま、ただ僕のそば座っているだけだった。話すということが苦手なこともあり、僕もまた取り立てて何かを話そうとは思わなかった。


 今日は春にしてはやたらと暑かった。彼女は暑さに耐えかねて腕まくりをした。その時、彼女の腕に僕のものと似た長く深い傷と、二の腕のほうには根性焼きの痕のようなものを見つけた。すぐに重力で袖がずり落ちて隠れてしまったが、確かに僕は見たのだ。そして彼女はふと、僕にこんな話をもちかけた。

「ねぇ、殺人鬼に同情しちゃうことってない?」

 僕は何か薄気味悪いものを感じた。それから、前に頭を過ぎった光の消失が、既に始まっているのではないかと思った。

「それはちょっとわからない……」

 先ほどの考えがまだ僕の中で渦巻いていたこともあったが、本当の意味で同情するかわからなかった。まず彼女の言う同情というものがどのような同情を指すのかもわからなかったし、僕は犯罪全般、それどころかほとんどのニュースに対して何も感じないからだ。ただ、殺人鬼に生まれたら不幸だろうと考えることだけはあったので、それを告げた。


 彼女はまた口を開いた。

「それじゃあ、親のことってどう思ってる? 正直、私は頼んでもいないのに生まれさせられて、なんていうのかな、ちょっと憎んじゃいそうかな」

 僕は驚いた。僕のような人間に話しかけるような、そんな社交的な人間は、すべからく親に感謝すべきだという考えを持っていると思っていたのだ。そしてその非人情な言葉に打ちひしがれ、ひるんだ。

「僕も、憎むまではいかないけど、好きではないかな」

 彼女は「そっか」とだけ呟いて、また空を見上げた。僕は何かほかに声をかけるべきだったのかわからなかった。彼女の目線を追ってみると、遠くのほうに流れる、真っ黒な雲を見つめていた。


  * * *


 ある日、大木が包帯をぐるぐるに巻いて登校してきた。頭や腕、その他いろいろな場所に包帯やガーゼがあててあった。どうしたのかと尋ねると、転んだの一点張り。どこでどうしてかという質問には、曖昧な回答しかもらえなかった。


 僕は光の消失が、いよいよ始まったのではないかと再び恐怖した。いじめられているのではないかと思った。いじめられている人は、いじめの怪我を隠すために、よく「転んだ」と言うことを本で読んだことがあったからだ。しかし、少なくともクラスを眺める限り、大木を嫌っているような人はいないように思われた。むしろいつも好かれていて、人の中心にいるような人物だ。いったい、彼女に何があったのだろうか。


 放課後。再び彼女と話したが、怪我の話に触れることはなかった。

「ねぇ、地獄ってあると思う?」

 大木は真剣な眼差しでこちらを見ていた。

「死んだことがないから、僕にはわからない」

「多分私は、地獄に落ちると思う」

 それは唐突で、またしてもその言葉に打ちひしがれた。

「どうして……?」

 僕の口からは、自然とそんな言葉が出ていた。

「私は、地獄に落ちる運命だと思う」

「いったい何があったの? 僕でよければ、その、相談に乗ったりもできるし」

 そのときばかりは、すらすらと言葉が出てきた。

 光の消失が怖いということもあった。しかし、最近は共に過ごす時間も増え、彼女に対して親しみを覚えていたからだ。僕がこんな感情を抱くことは、そしてこんなにも饒舌になるのは、とても珍しいことだ。

「何もないよ、でも、私は地獄に落ちる。地獄があるなら」

 そう言って、彼女は黙り込んでしまった。彼女はまたどこか遠くを見ていたが、今日はとても恐ろしい顔をしているように思えた。僕はその後、彼女にあまり話しかけられずに、そのまま別々に下校した。


  * * *


 数日が経った。ある日を境にしばらく欠席していた彼女は、ある雨の日、僕の下校途中に突然電話をかけてきた。そうして震える声で学校の近くの神社に来てくれと言い、一方的に切ってしまった。嫌な予感がした。僕は傘を捨てて神社へと走った。僕はびしょ濡れのまま、不安を隠すように狐と睨みあっていたが、しばらくすると私服姿の大木らしき人影が傘もささずに境内に入ってきた。僕はその顔を見てぎょっとした。彼女は頭から血を流していた。よく見ると服にも血がついている。そして僕に倒れるようにしがみついた。彼女はひどく怯え、震えていた。僕は彼女の肩を握り締め、境内の奥へ、雨宿りのできる場所へと引っ張っていった。

「何があったの? 警察に連絡はした?」

 問いかけに応じることのできない彼女は、ただただ俯き、腕の内で震えていた。よく見ると、頭から血を流しているものの、服の血は他人の返り血のように見えた。この雨でも流れていないほどの血だ。何かの事件に巻き込まれたのだろうか。彼女は僕の顔をじっと覗き込んだ。その顔は、雨と涙でぐしゃぐしゃになっていた。そして何かを言おうと震える唇を動かしていたが、その声は言葉になっていなかった。僕はいつか彼女が言ってくれたように「大丈夫だよ」とだけ言い、ただひたすら抱きしめた。

 しばらくすると、彼女はかすかな声でこう呟いた。

「私……お父さんとお母さんを……殺した……」

 確かにそう言った。彼女は震えていた。僕はいっそう強く抱きしめた。彼女もまた、僕にいっそう強くしがみついた。永遠にも思える時間が流れた気がした。僕は震える彼女をずっと抱きしめていた。時折頭を撫でてあげた。彼女の長い髪は、雨に濡れて冷たかった。僕も彼女も、泣いていた。僕は、あのときの彼女の涙のわけを、なんとなく知ることができたように思った。対極の存在だと思われた彼女の仮面の下は、案外僕と近い存在だったのかもしれないと思った。僕は彼女に、自分も親によくやられていると言って、腕の傷や背中の痣を見せてみた。そうして、もう一度ふたりで抱きしめあった。すると彼女は前よりも、少しだけ強く僕の背中を握り締めた気がした。


  * * *


 彼女は女子少年院に送られた。境内で僕らが泣きやんだすぐ後、彼女は言っていた。両親から日常的に精神的にも物理的にも暴力を受けていたということ、顔以外の見えない場所を殴られたり、タバコを押し付けられたりしていたこと。包帯を巻いて登校してきたあの日以来、暴行はエスカレートしていたこと。事件当日は、手を振り上げた母に張り手を食らわせてしまって、報復に包丁で刺されそうになり、奪い取って刺し殺し、そこに居合わせた父親も殺してしまったこと。痣や根性焼きの痕も見せてもらった。そして人間不信で、家でも学校でも、本当の自分を見せることができず、ひたすら偽りの自分を演じていたことや、僕にだけはどこか親しみを感じて、素の自分でいられて、一緒にいたいと思ったことも話してくれた。


 彼女が少年院から出たら、もう一度ゆっくり話してみたいと思っている。


  * * *


 あの日と同じような雨が降っている。そして今、僕の家には相変わらず母親のうめき声が響いている。僕は彼女のように親を殺すだろうか? いや、多分それは無いだろう。僕は、少なくとも世界にはひとり、仲間がいるということを知っているのだから。

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仮面 みょん @yunokiryoutarou

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