第6話 幽玄なる黒狼

仄かに暗い茂みの中からゆらゆらと揺れる影のような黒狼の赤瞳が浮かび上がる。


 「存在しない黒狼ファントム・ブラックウルフ……。そうか、さっきのデブ猪はお前さんの獲物だったって訳か。だが、ここは戦場じゃないのになぜいやがんだぁ⁉」


 ありえないといった様子で続けざまにカインは呟いた。発せられた言葉は震え、その同様具合が伺える。


「いや、そんなことよりも日はまだ落ちてないはずだ……なのにどうして動いてやがる⁉」


 不可解だと声を荒げたラインは赤い双眸が怪しく光る黒狼に見覚えあるようで、警戒心を剥き出しにして、鞘に納められていた剣を躊躇なく引き抜いている。


 先ほどの口ぶりからして眼前にいる黒狼―――存在しない黒狼ファントム・ブラックウルフのことも知っているのだろう。ラインが五年前の戦争に参加していたということが思い出された。


 カインは静かに問いかける。


 「何ですか、あの黒いのは?」


 「…魔獣だ。存在しない黒狼ファントム・ブラックウルフ。戦時中、夜になるとどこからともなく現れ死肉を漁った掃除屋スカベンジャーだが、こいつらは生きている人間も喰らう。死体だけ漁ってるんならそこまで脅威じゃないんだがなぁ 」


 「まさか、ライクネスの忠告通りになるとはな」とため息をつきながら吐き捨てるライン。その額には汗が滲み出ている。

 カインは〝魔獣〟という言葉を聞いた時、ライクネスの忠告が思い出していた。


 『昼間でも活動している個体がいるらしい』


 出くわすことはないだろうと思い、ラインに対して強く言わなかった事が今となっては重くのしかかる。


 自分の犯した失敗に悄然としているとラインの緊張感漂う声が聞こえてきた。その声で今は眼前の魔獣に集中すべきだと意識を変える。


 「いいか。カイン、こいつらの最大の脅威はその統率力にある。単体では決して行動せず、群体としてゆっくりと追い詰め獲物を狩る。気が付いたら囲まれていてどうすることもできずに死んでいった人間を俺は良く知っている」


 戦時中は多くの人が死んだ。純粋に戦場で死んだのは騎士や傭兵が大半だが、突如現れた魔獣によって戦場とは関係ない村々は血の海に変わった。


 そもそも魔獣とは魔力を自在に操ることの出来る―――魔法を使用する獣のことである。ある日を境にどこからともなく現れ、次第にその数を増やしていった獣は騒乱にあったミストラル王国に拍車を掛けた。ただ魔獣の生息域は限られており、ここアカルディア大森林を除いても多くはないが、現在もその生息域を増やしていっている。


 結果として魔獣の影響で栄華を極めた七つの都の内一つが壊滅した。その混乱に乗じて村を襲う人間も現れたが。


 今でこそ村や都市は結界や警邏隊によって守られているが、ごたついていた当時の王国にそんな余力はなく多くの命が見殺しにされた。


 今、目の前にいる赤瞳の獣はそんな戦時中に現れた狂暴な魔獣だ。じっとこちらを捉えたまま動く気配はない。時折、鋭利な口元から涎が垂れ緑の地面を濡らす。

 

 カインは黒狼に注意を払いつつ周囲を見渡した。ラインから聞いた通りならあの魔獣は一体ではなく、複数体いることになる、そう思ったからだ。

 目を凝らし森の中を警戒するが視認できない。鬱蒼と生い茂る草や若木のせいで視界が遮断されている。これでは他に魔獣がいたとしても気付くことが出来ないだろう。


 どうしたものか思いラインを横目で確認すると同じ事を思っていたのか目が合った。

 ラインは黒狼に気付かれない小さな声で訊く。


 「なぁ、カイン。お前若いんだから目良いよな。あいつ以外に何か見えたか?」


 「生憎、木が邪魔で見えませんね。ラインさんこそ見えないんですか?」


 首を横に振りカインは再度訊き返す。


 「俺も同じだ。全く見えん。ったく……こりゃあ覚悟を決めなきゃいかねぇか」


 そう顔を引きつらせながら呟き、剣を構え直す。両手で柄を握りへその前に構えられたぼろい剣は、ラインの体内魔力によってある程度まで強化されている。体内魔力とは――生きる為に必要な生命エネルギーを変化した魔法を使うための原動力のことだ。


 本来なら魔法を発動するために必要なエネルギーであるのだが、ラインは魔力のまま膜のように剣をコーティングしてその強度を高めている。一般的に強化魔法と呼ばれてはいる芸当だが、宮廷魔導師の扱う魔法に比べれば児戯にも等しい。


 そして、突如現れた黒狼はラインの準備が整うのを待っていたかのように鋭敏に飛び出した。駆ける強靭な足腰は何物をも切り裂く鋭さがあり、猛る牙は噛んだものを鏖殺する。


 紅い双眸がラインを一直線に捉え、カインやスノウには歯牙にもかけない。

 瞬く間にラインの懐に入り込み、その喉元を噛み千切ろうとし口腔が勢いよく開かれる。

 無骨に生え揃った牙が不敵に覗きラインの命を断とうと鋭く光る。

 そして命を刈り取ることに特化した死神の鎌のような牙がラインを襲う。


 だが、その牙がラインの命に届くことはなく


 「ふんヌッ!!!」


 力強い掛け声と繰り出された烈火の突き上げが黒狼の顎を貫いていた。間違いなく致命傷だ。顎を裂かれ 脳天まで突き刺されて生きている生物はそういない。それが例え超常の力たる魔法を操る魔獣であってもだ。


 カインはその一部始終を茫然と見ていた。


 ラインが襲い来る黒狼に剣を突き刺した瞬間――まるでその一瞬を待っていたかのようなタイミングで 黒狼が湧いた。現れたではなく湧いた。まるで初めからそこに在ったかのような自然さで。パッと見た所、五十の魔獣の群れが染み出ていた。


 その様子を見たラインはやっぱりそう来るかと、忌々し気に舌打ちをし、突き刺した黒狼を振り払った。すると地に伏した黒狼の亡骸は霧のように四散し、姿を消した。

 闘い慣れているラインは柔軟に対応して次の行動を見定めていたが、慣れていないカインはあまりの異様さに慌てふためき口走る。


 「ラインさん……なんなんすか。これ」


 「……あれが黒狼の正体だ。奴が使うのは霧の複製体……本体とそっくりな幻影を複製する魔法だ。一種の幻惑魔法だが、奴らは魔力でできた塊だ。幻影だからと言って無視すれば死ぬぞ。……一体の黒狼が複製できる数はおよそ五十。だから今襲って来ているのは一体だけってことになるが……油断はするなよ。奴らは群れで行動するからな。まだどこかに隠れているのかも知れんからなぁ!」


 眉間に皺を寄せながらラインは吐き捨てる。そして続けさまに


 「さぁ、お喋りは終わりだ。奴さんどうやら俺たちを喰い殺したくて仕方ないらしい。あぁ言い忘れていたが牙には麻痺毒があるから気を付けろ」


 ラインはそう言い残し湧いた魔獣の群れに突貫する。騎乗兵の如き剛健さは戦を経験した者だけが成せる荒業か。


 カインにはラインのような思い切りの良さはない。


 突貫するラインを確認した黒狼は、迎え撃つべく麻痺毒のある牙を剥き出しにして襲い掛かる。その統率されたその攻撃に一切の無駄はない。


 それに対しラインは構えた長剣を横に振り払いそれを一閃する。数は多いが所詮は虚構。消えゆく運命にある幻だ。地獄のような実在する戦場を駆けたラインの敵ではない。


 「はぁぁあぁ!」


 ラインが一振り、銀に光る長剣を振るうと幽玄の黒狼は次々と消えていく。それは圧倒的な蹂躙で、黒狼では相手にならない。


 だが、黒狼とて馬鹿ではない。魔獣と呼ばれるだけあって理解し修正する。〝このままでは殺される〟そう判断した黒狼は真正面からぶつかることを止め、ゲリラ的戦術をとることにした。


 そして虚構たる黒狼の大半は茂みに姿を隠し、隙を伺いタイミングをずらして襲い掛かる。地の利は圧倒的に黒狼側にある。こうもこそこそされては、さしものラインも攻めにくく防戦に徹するしかない。


 茂みから聞こえてくる荒々しい吐息はひどく不気味で、神経が少しずつすり減らされる。何も訓練されていなければ泣き喚いて逃げ出してもおかしくない。


 こういう時こそ落ち着く事が大事だとラインは知っている。

 剣は構えたまま瞑目し深く息を吸い込む。―――落ち着け。落ち着け。

 そう自分に言い聞かせ神経を集中させる。その姿には木の葉の擦れる音すら聴き逃すまいという迫力があった。



 瞑目することおよそ二分。


 待ちわびたその時が訪れた。ラインの後方からカサッという葉が擦れた音が聞こえたと思うと、涎を振りまきながら突進する黒狼が現れた。そして続けと言わんばかりに次々に黒狼が飛び出してくる。


 ラインはすぐさま身体を翻し、その勢いのまま右手で頭を掴み地面に叩き付ける。一頭目を処理している間に近づき、遅れて牙をむく黒狼には肘打ちを喰らわせる。肘打ちを喰らった黒狼は一瞬、怯んだが再びその獰猛な牙を突き立てるべく疾走する。


 そしてラインはその黒狼の脳天めがけて長剣を振り下ろし、頭をかち割る。

 霧のように四散する虚構の黒狼はこれで二十体目だ。少なくともあと三十はいる。ふとカインは大丈夫かと目線を向けたその一瞬、それが致命的だった。


 「ラインさんッ!!!避けて!!!」


 ――唐突に、カインの必死の叫びが木霊した。


 ◇


 ラインが旋風の如く魔獣を狩り初めてから数秒後、一部の魔獣はカインを標的と定めた。

 黒の体毛に覆われた狼型のその威容。それはカインがこれまで対峙した如何なる悪漢よりも邪悪な存在だ。

 初めて見るその凍えるような殺意にカインは怯んだが、黒狼は待ってはくれない。荒ぶる黒狼は爪で引き裂き、牙で噛み殺さんと猛々しく襲い来る。


 「クソっ!容赦ねーな。やっぱり」


 どうしようないこのくそったれな状況にカインは思考を一旦放棄し、敵の迎撃をすることにする。悪態をつきつつ、腰に携えた柄に月が刻まれた短刀―――ククリナイフを抜き放ち、脱兎のごとく跳びかかる黒狼を頭から真っ二つに両断する。

 そしてカインは両断した黒狼の感触のなさに納得した。地に伏した黒狼は地面に溶けるように消えていく。


 ―――なるほど。これがファントムと呼ばれる所以か。存在しないのに命を刈り取る生粋の狩人。その上、死肉を漁る掃除屋とは……これが魔獣というやつか。


 そう考えながらカインは黒狼の猛攻をククリナイフで捌く。鋭利な牙がぎちぎちと刃とぶつかり合う。ちらりと目端に二頭、此方めがけて左右同時に駆けぬける黒狼の姿が映る。


 堪らずククリナイフに噛みついた黒狼の腹を蹴り上げ、怯ませる。その隙に両足に魔力を集め、瞬間的に爆発させる。その圧倒的出力により常人には考えられないほど真上に跳躍し、黒狼の左右からの飽和攻撃を躱す。


 あっぶねー、と内心では冷や冷やしているカインは、標的を見失った黒狼めがけて落下する。突如、頭上から現れたカインに成すすべなく二頭の黒狼は焼失した。


 ふぅと短く息を吐きカインは周囲を確認する。

 カインを囲んでいる黒狼は先ほどの落下攻撃で全滅した。思いのほか少ないな、ラインさんの方へいっているのかと思い、目線を向ける。


 そこには誰が見ても手助けなどいらないほど蹂躙するカインの姿があった。戦闘が始まる前は弱気な部分も垣間見えたが、五十程度なら一人でもどうとでもなるのだろう。そう思わせる圧倒的な強さだった。

 どうやっているのか分からない軌道で長剣が唸り、次々と黒狼が霧へと帰っていく。そこにカインの加勢する余地など微塵もなかった。


 あと一分もすれば黒狼も全滅するだろう、そう思った時、違和感が襲った。

 

 その違和感が何か分からない内にラインの立つちょうど真下の地面が盛り上がる。


 カインは咄嗟に避けろと叫んだが、赤く光る瞳を持つ獣がラインの右足に噛みついていた。

 ラインから苦悶の声が零れた。

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