1. 漁師の男、マーディアスの物語(サーガ)
1-1. クロメリアの漁師達
日が落ちると夜になる。月明かりが照らす中で人はその日の営みを終える。
「今日も大漁だった」
「ああ、辛気臭え面した大陸の連中と違って俺達は景気がいい!」
仕事の疲れは酒で中和するのがクロメリアの男の慣わしだ。酔うと年甲斐も無く子供のようにはしゃいだ後は動物のように腹を出して眠る。
「魔王が何だてぇんだ! こんなクソ田舎一つマンゾクに落とせない奴らだ」
「そうだとも、俺達に勇者は要らない!」
酒が回って機嫌が良くなると彼らは勇者排斥運動の標語を声高に叫ぶ。
魔王だの何だのと騒がれている現世に在っても大酒飲みの漁師達にとってはこの酒場は神々から聖別された楽園であった。
だがそれも束の間、泡沫の夢に過ぎない事を思い知る。
一人の女が饗宴の最中にある酒場に足を踏み入れた。凛とした育ちの良い雰囲気を纏う女はこの荒くれ者の群れでは明らかに浮いてしまう。
「お客さん注文は?」
思わぬ客人に不意を突かれたのか、酒場は静まり返る。女もまた静かに席についた。
「私はお酒が飲めませんの」
「身なりからして修業中の神職の方かな?」
「まぁ、そういった所の者です」
店主は女の出で立ちが醸し出すその禁欲的な趣きから教会の者と判断したようだ。女は艷やかで大層に美しかったが、不相応に色香という物が全く感じられなかった。
「冷やかしなら帰ってくれ。この商売も暇じゃないんだよ」
店主は宥めるように平坦な声で注意を促すが、態度からは不機嫌な様子が見て取れる。
「そうだ、そうだ!」「ここはテメェの様な尼は歓迎されねぇんだよ!」「おととい来やがれてぇんだ」
先程までの静寂の反動から漁師達の口から女を汚く罵る野次が矢継ぎ早に飛ぶ。酒場の情調を壊されたら酒も不味くなる。酒以外の楽しみを知らないクロアチアの民にとっては許しがたいことであった。
なによりここは勇者排斥運動の拠点である。勇者を擁する教会の人間がいい顔をされないのは自明である。
「非礼を詫ましょう。しかし、私は冷やかしに来たのではございません。人探しの為です。ここに来ればその方にお会いできると伺いましたわ。そう、漁師のマーディアスに」
女が尋ねてきたときマーディアスは席を外していた。
クロメリア人で漁師のマーディアスを知らない者はいない。この与太者達を率いる漁業組合の頭領である。クロメリア長老からの信望も厚く、次代の長老に最も近いとされている。
そして、この土地で勇者への
「遠路遥々御苦労と言いたいが急に出て来た他所者がウチのボスに取り次ぎ願うなんてのは筋が通らねぇんだよ。それともそれが教会式の流儀なのか?」
「勿論、相応の御礼はします」
女は懐から彼女の路銀の一部と思われる金貨を取り出した。女神の加護を受けているとは言えうら若き乙女が大金を持って一人旅をすることなど非常識極まりないのだが、金の輝きに目が眩んだ者はそんな些細な事は歯牙にもかけない。
更に物欲だけで無く酔も彼らの理性を曇らせていたのだ。彼らは先程とは打って変わって女を客人として手厚く饗した。
――しばらくして
「ハハハ、思ったより話の分かる姉チャンだ。ホラ、あんたも一杯どうだ」
「フフ、止してくださいナ……私は主に禁酒を誓った身、戒律を破る訳にはいかないワ」
「気乗りしねぇなぁ」「カミサマだってこんな僻地まで気が回らねぇよ、ホラ」
女の方は一滴足りとも酒を口にしてはいなかったが、相手に合わせて場酔いしているようにも見える。厭世的な世捨て人を思わせるその風貌から一転して俗に浸った売女のような口ぶりでやくざ者の漁師達を手玉に取る。
「ダメだねぇ、女の子に無理強いしちゃあさぁ……まぁいい、飲める奴はどんどん飲んでけ! 今日は俺の奢りだ!」
「はぁ……お前さん、俺がいない間に随分と偉くなったんだな」
「マ……マーディアスさん……何時から……」
兄貴分の存在に気付くと仕切っていた男の顔面は蒼白した。この男だけではない。どんな荒波も恐れない海の男達が死神と邂逅したかの如く震えていた。
「何時って……そりゃあお前らが寄ってたかってこの姉ちゃんをイジメてた辺りかな」
「へ、へぇ……マーディアスさんも居るなら居ると言ってくだせぇよ……全くお人が悪い」
「ああ、違いねぇや。悪党しかこの仕事は務まらないからな」
この愚連隊の頭領は冷然たる調子で皮肉を利かしている。男の方は緊張からすっかり酒気が引いたようである。
「近う寄れよお前」
マーディアスは酒瓶を持って手招きする。男はその意味を理解しかねていた。
「へ?」
「いいから来い。今日はお前の奢りなんだろ? 礼に注いでやら」
「ありがてえ……光栄です」
言葉を字面通りに受け取った男は歓喜した。頭領が部下に酒を注ぐのは後継者を指名するときだ。
――遂にこのときが来た! 恐怖政治を敷く独裁者は消え去り、頂点の座は俺に引渡されるのだ!
思えば長かった。男にとってマーディアスとは嵐のようなもので抗いようが無く、ただ通り過ぎのを待つしかなかったのだ。男にとってマーディアスとは恐怖という点で本質は魔王と相違ないものであった。
男は今まで忍んできた甲斐があったと感慨に耽る。
だが、その安堵も刹那の内に露と消えた。次に男を襲ったのはマーディアスの鉄拳であった。
「どうやら俺の目も濁ったみたいだ。お前は仕切りたがりやで馬鹿だかもうちょい分別がある奴だと思っていた……だが買い被っていたようだな」
「な、何をッ?」
「それはこっちの台詞だ……常日頃から言ってるだろ? 商い以外で相手から金を受け取るんじゃねぇってな……」
これは客とは対等な関係が望ましいというマーディアス自身の哲学である。賄賂を受け取るとなると必然的に客先と上下関係が生じる。彼はそれが尾を引くと完全な買い手市場となり組織にとっての旨味のある利権が消滅してしまうのだと危惧しているのだ。
「お前達も目先の利益ばかり見ないで、頑なに戒律を守ろうとしたあの尼さんをちっとは見習え」
「へい! リョーカイしゃした!」
漁師たちは見せしめとして〆られた男を横目に声と心を揃えて返事をした。
「それと、そこの尼さん。ウチの野郎どもが迷惑をかけたな。仕事後も力が有り余っていてその矛先を間違えたんだ。悪く思わないでやってくれ」
マーディアスは女に近づくいて謝罪の言葉ともに挨拶を交えた。女は軽く会釈した後に被り物を外して素顔を見せた。
その顔はマーディアスを驚愕させた。
「いえ、先に礼節を欠いた真似をしたのはこちらです。お初にお目にかかりますわ、漁師のマーディアス。噂に違わね傑物のようで安心しましたわ」
「俺はあんたとは初めて会った気がしないな」
「まぁ、お上手。口説いても何も出ませんわよ?」
彼は安っぽい口説き文句を言ったのではない。事実として女はマーディアスにとって忘れようもない容貌と瓜二つであった。
「本日は夜分に失礼しました。また日を改めてお会いしましょう」
女は起立とともに踵を返して酒場を後にしようとした。女はすれ違いざまにマーディアスの耳元で囁く。
「
「お前、どこまで知って……」
マーディアスが振り向くとそこに女の姿は無かった。ただやり場のない喪失感で胸がいっぱいになった。
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