月ウサギ

 禍々しい月が破壊されたことで、辺りの光景はすっかりと暗くなってしまっていた。


 まだ僕は、ミネコさんに化かされたままなんだろうか。


 目的を達成したキツネが、月に帰ってしまうなんてストーリーを、僕は知らない。


 きっとどこかにいるはずだと思い、探してみるけれど、ミネコさんの姿は、黒く広がる夜空に隠されて、発見することは、未だに叶わなかった。


 ミネコさんが月を墜とせば、それでもうおしまいだとばかり思っていたけれど。


 嫌な想像が巡る。


 もし僕の知らないどこかで、もうすでにミネコさんも堕ちてしまっていたら。


 そんな。


「嫌だ」


 先ほどのような悪意を感じさせない、元通りの月を発見した。


 僕は祈る。


 どうかミネコさんを見つけてください。


 どうかミネコさんを助けてください。


 僕はどうなったっていい。


 何もできない地上を這いつくばるだけのうさぎでもなんでもいい。


 だから、どうかミネコさんを。


 僕の祈りに呼応するかのように。月は一際輝きを増した。


 太陽の光を受けたわけではなく、まるで月自らが、自分の意志で光を放っている。


 そんな錯覚すら、本当のことのように思えた。


 この時になって、僕はようやく、思い出した。


 どうしても思い出せなかった夢の中身が、ハッキリとした映像になっていった。


 輪郭も判然としない、謎の人型の生物らしきものは言った。


「君に、一生に一度だけ使える魔法をあげよう」


 そうだ、僕だって、一度だけ魔法が使えるんだ。


 イメージする。火に体を投げ入れる、イメージ。


 自身の体が焼かれていくのを、満足気な心を持って、手放した。


 誰かに何かをしてあげたい。良い人だとか偉いからだとか、そんな打算的な理由じゃない。


 純粋な奉仕の心を、今だけでも、理解しようと努めた。


 そんな誰にも出来なかった、側から見れば本当にバカみたいで、生物としては失格の、自殺ともとれるやり方。


 けれどもそんなバカでのろまで健気なうさぎは。


 月に昇ることが出来たんだ。


「じゃああああんぷ」


 掛け声はいらなかったのかもしれない。


 けれども、雰囲気と気合の問題だった。


 すべてを投げ捨てるように、無限とも錯覚してしまう地上外の世界に、僕は飛び出した。


 動かずに鈍い足では、50センチも飛べなかったと思うが、重力に呼び戻され、地上に堕ちることは、なかった。


 わずかながらの上昇。現代の物理学ではありえないような、幻想的な浮上。


 地面がどんどん遠ざかっていき、恐怖もあったけど、今の僕には落下の恐怖は考えにくいと思い直すと、胸の内に灯ったのは、冒険心だった。


 僕は、空を飛んでいた。


 吹きすさぶ風に流され、体の舵取りがうまく出来なかったけど、体を揺らし、腕も使い翼のように広げたりするうちに、飛ぶことに慣れつつあった。


 慣れてしまったところで、もう一生自力で空を飛ぶ機会はこないだろうから、今を精一杯体感しよう。


 そう思えた。


 月を見上げた。地上から離れる度に、少しずつ大きさは増していって、距離が詰められているのを感じた。


 お願いします。


 ミネコさんの居場所を、教えてください。


 そう祈ると、乱反射的に撒き散らされた光が、ある一点に集約されていった。


 上方にあった光の線は、徐々に角度を下に下げていった。


 ということは、落下してるんだ!


 僕はやり方もわからなかったけど、架空のアクセルを踏み込む想像をした。うさぎが跳ねる姿をイメージした。


 加速していく。どんどんと下に落ちていく光を追いかけた先に、ついに落下する人影を見つけた。


 ミネコさんだ。


 見つけた。


 ミネコさんは、満足気な表情で、目を瞑っていた。すべてをやり終えたせいか気が抜け切って、今の自分の境遇に、気づいてすらいないのかもしれない。


 ミネコさんは時間が進む度に、堕ちていく。当たり前だ。もうミネコさんは、魔法を使ってしまったのだから。


 このままでは、ミネコさんは。


「ミネコさあああああああん」


 僕は叫んだ。叫びが力になるなんて都合のいいことは思わないけど、ただ必死だった。


 このままでは、いずれ地面に激突してしまう。


 ただの人でしかないものが、重力に引きずり込まれ、地面に叩きつけられてしまったら、どうなるかなんて、明白だった。


 僕は高度を下げつつ、手を伸ばした。ミネコさんの体は地上に引きずられるように下降していく。


 下を見ると、もう地面がすぐ側まで迫っていた。


 ミネコさん。ミネコさんに。


 届け!


 衝撃が体を破壊する寸前、ちっぽけな腕はミネコさんを、捉えた。


 体を正面から抱えることに、羞恥心を感じている場合ではなかった。あらん限りの力で抱きとめて、架空の翼を羽ばたかせるイメージで、上昇した。


 聴覚が捕まえた、微かな息遣いに、僕は安堵した。


 良かった。


 生きてる。


 思わず、僕はぎゅっと、抱きしめてしまった。


「いたっ」


 ミネコさんは、呻くように声をあげた。少し力を込めすぎていたらしい。


「あれ? ユウト? なんで、顔、近い……」


 ミネコさんは、珍しく狼狽えるような表情をしていた。月明かりに照らされて、相貌に差した朱色まで確認できてしまった。


「ミネコさん、ちょっとごめんね」


「わわっ」


 右手をミネコさんの膝裏に入れて、持ち上げるように傾けた。


 体を抱きしめ続けることも限界になってきたので、申し訳ないけれど、少し楽な体勢をとらせてもらった。


 おんぶはしたことがあっても、抱っこしたことはなかったな。


 お姫様という単語がつくけれど。


「なに、どうなってるの? 嘘、あたし、飛んでるの」


「ミネコさんのおかげで思い出したけど、実は僕も、一生に一度だけ、魔法が使えるんだ」


 ミネコさんは、驚愕に口を開けていたけれど、合点がいったように、スッキリとした表情になっていた。


「そっか。あたしと同じだったもんね。マルくん」


 六年越しに、今まで看護師さん以外に呼ばれたことのなかった呼称で呼ばれた。


 背中がむず痒い。


「もしかして、僕があの時の男の子だって、キーちゃんは知ってた?」


 僕も、一度も呼んだことのなかった愛称で、お返しをした。


「当たり前でしょ。でもマルくんは……なんだか恥ずかしいからいつも通りに呼ぶね。ユウトは全然気づかないんだから」


 そっかバレてたのか。


 何が決め手になっていたかはわからないし、そもそも気づかなかった僕が、ただ単に鈍かっただけなのかもしれない。


 今となっては、どちらでも良かった。


「ミネコさん、見て」


 月を指差す。


「……わあ」


 禍々しくも、悪意に満ちてもいない、本物の月が、祝福の光を放つように、微笑んでいた。


 間近で見る月は、圧倒されるくらいの大きさで、僕もミネコさんも、言葉を失った。


 美しいものを美しいと讃えるのに、言葉はいらないのかもしれない。


 ただただ、その姿に感動して、眺め続ける。


 きっと、それだけでいいんだ。


「ねえ、ミネコさん」


「なに、ユウト」


「今すぐは無理かもしれないけど、僕たちを、見守り続けてくれた月のことを、少しずつでもいいから、好きになって欲しいんだ」


 ミネコさんは、尚月の輝きを凝視続けていた。


 潤んだ瞳に映っているのは、どんなことだろうか。


 僕はそれを、とても知りたいと思った。


「ユウトは、月が好き?」


「うん」


「そっか」


 何かを考えているような沈黙。


「ユウト、顔に何かついてる」


 一瞬気が逸らされた瞬間、頰にミネコさんの手が添えられえた。


 何を。


 思った刹那、僕の視界にも、ミネコさんの視界にも、月は映されなかった。


 僕の視界にはミネコさんが。


 ミネコさんの視界には僕が。


 二人の姿だけが映っていた。


 息が出来ない、唇を塞がれているから。


 ミネコさんが目を閉じて、僕もそうしなければならないと、ミネコさんに倣った。


 ドキドキとしているのに、不思議と心は穏やかで、ふわふわとした満ち足りた気分が胸を打った。


 大胆で、恥ずかしいとも思ってしまう出来事に身を委ねられたのも。


 僕らを見ているのが、お月様だけだから。


 唇が離れるのを、名残惜しく感じた。


 ミネコさんははにかんでいた。女の子というよりも、女性と呼ぶべき雰囲気だった。


「ユウトが好きなものなら、あたしもきっと、好きになれるよ」


 僕はとても嬉しくなった。


 ミネコさんは、そんな僕に、ねだるような視線を向けていた。


「ねえユウト。もう一回」

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