月堕とすキツネ

 高台に辿り着いた頃には、いよいよ月の大きさが増していて、ひっそりとした神秘性よりも、圧倒的な神々しさすらも感じ取れる。


 なんとか高台の公園に辿り着いたけれど、いつもの高台の側に、ミネコさんはいなかった。


 まだ来ていないのだろうかと思い、ベンチに腰をかけようかなと考えた刹那。


 見つけた。


「ミネコさーん」


 視線の先は高台の上に。昨今、遊具での事故が取り沙汰された一環で、使用禁止とされた遊具の展望台部分に、ミネコさんは佇んでいた。


 表情は完全には伺えないけれど、いつものように、真っ直ぐに月を眺めているのだろう。


 ミネコさんの視線は、徐々に焦点が合ってきて、僕の視線とぶつかった瞬間、表情が崩れた。遠くても、ハッキリとわかるほどに、わかりやすかった。


「ユウト? ユウトだ! 来てくれたんだね」


 ミネコさんのはしゃいだ声を、とても嬉しく思う。


 ミネコさんに頼りにされる。


 たったそれだけで、抜け出して来た罪悪感など吹き飛んでしまうほどに。


 嬉しかった。


「ミネコさーん。一体何をしようとしているの?」


 距離が遠く、大声を通すように投げかける。


 ミネコさんは、自信ありげに、豪語した。


「あたしは今日、月を墜とすんだ」


 具体的な返事はなく、ただ自信と決意に溢れたセリフ。


 一体どうやって。


 そんなことは決まっているよね。


 一生に一度しか魔法が使えないのなら。


 一生で一番、大事な場面で使うに、決まっている。


「ユウトが来てくれて良かった。夢で見た奴の言ってたことはよくわからなかったけど、一つだけわかったんだ。世界を化かすには、あたし一人じゃ出来ないんだって」


「それって、どういうこと?」


 ミネコさんは、一瞬、僕の姿を視認し、口元を綻ばせた。


「化かされる対象が、必要なんだ」


 コーン、と鳴き声が聞こえた気がした。


 瞬間、出所は不明の煙が一瞬で拡散し、辺りは灰色の景色だけとなった。風が吹き、霧が晴れるように煙が飛ばされていく。


 空を見上げる。


 浮かんでいたのは、さらに大きく膨張した月だった。


 大きい、という例えですら足りないのかもしれない。誇張でもなんでもなく、山のように大きな球体が徐々に近づいて来ている。


 ゴツゴツした表面や、太陽の光の反射が眩しく、目を開けているだけでもやっとだった。


 杞憂というのは、空が落ちて来るんじゃないかと、ありもしない心配をすることではあるけれど。


 月が墜ちてくることを、一体どのような言葉で表現すればいいのか、僕にはわからなかった。


 思わず、尻餅をついた。仰天しすぎて、言葉が出ないどころか、呼吸の仕方すらも忘れてしまった。


 事故にあった日以来に感じる、体が総毛立つような死の恐怖。


 もしも世界に終わりが来たのなら。


 きっと、こんな光景なのかもしれない。


 月が人のように瞳を持って、牙の生えた禍々しい口を大きく開いて、世界を飲み込もうとしているようだった。


「大丈夫だよ、ユウト」


 ふいに、ミネコさんの声のする方を探したけれど、ミネコさんの姿は見当たらない。


 一体、どこに?


「真上を見て」


 真上を見て、仰天した。


「ミネコさんなの?」


「そのとおり」


 僕の真上に浮かんでいたのは、より早く、速く、スピードと耐久性に特化させた、男の子なら憧れたこともあるんじゃないかという代物。


 人の作り上げた科学と、叡智や利害を超えたロマンを司る、大気圏を突破するための代物。


 スペースシャトルだった。


「やっぱり、月っていったらこれかなって。まあ、月に着陸するんじゃなくて、ぶつけるんだけどね」


 アポロ計画で見られたような、想像上のフォルムを再現してあるけれど、先端部分だけは、オリジナルの黒ではなく、違う色が施されていた。


 鈍く輝く、赤褐色だった。


「お父さんもお母さんもいなくなっちゃった。強くて弱く明滅する月の光に、笑われているような気がした。それ以来、あんたはあたしの宿敵だった。どうしようもなく辛いことも、悲しいことも、あんたに怒りをぶつけてた。嫌なことも先送りに出来た。けれども、悲しいことを、もう終わらせたいんだ」


 ミネコさんの言葉は、呟きのようにわずかな声量だったが、段々と気持ちが篭り、大きく熱い叫びへと熱量を増していった。


 スペースシャトルとなったミネコさんに、炎が灯る。


 エンジンが起動するような音が響く。機械的な煙が空気に運ばれていき、大きく激しさを増していく振動が、エネルギーの爆発を予兆していた。


 月はいよいよ大口を開けて、雲の高さよりも世界に近づいていた。この光景が、僕たちの以外にはどう映っているのだろうかと気にはなったけれど、今考えるのは野暮だ。


「ミネコさーん」


 僕は彼女の名前を叫ぶ。


 月への想いの違いは解消されていないけれど、ミネコさんがやりたいようにやることが、一番なんだと思った。


 お父さんを失った悲しみを。


 お母さんのいなくなった切なさを。


 視力をすり減らした苦痛を。


 訪れるはずだった家族揃った日々を。


 今の日々が変わってしまう焦燥感を。


 今までも、きっと、これからも味わっていく理不尽を。


 この世のすべての悪を、憎悪を、嫉妬を、悔しさを、憐憫を。


 なんでもかんでもごちゃまぜに乗せて、押し込んでぐちゃぐちゃにして。


 全部全部、爆発させてしまえ。


「やってやれ!」


 肺が痛むくらいに、僕の人生史上一番大声で、ミネコさんにエールを送った。


「ありがとう、ユウト……いってきます!」


 僕の瞳に映るのは、まぎれもなくどこかで見たスペースシャトルなんだけれど。


 タッタッタとリズムよく駆け出す、ミネコさんの姿が思い起こされた。


 シャトルは飛ぶ。ロケットというよりはミサイルのような攻撃性を秘めていた。


 一瞬にして光のように進むシャトルは最早遅れてきた閃光でしか判断出来なかった。


 月に降り立つことが目的ではない純粋に破壊をするための突撃。


 言葉すら発する暇のない刹那。


 シャトルと月が触れた瞬間に空を覆い尽くす爆発が巻き起こった。


 一瞬の光の連撃は視覚を破壊して世界に光が満ちる。耳を塞いでも尚足りない轟音が広がり幻でしかないはずなのに焼かれているような熱を身に受けているようで本当に死んでしまったのかとすら思った。


 閃光が音が熱が収まりを見せると醜悪な姿をした月は砕け散り身近な銀河を創造していた。初めからそうであったかのように細かい粒となり地上に降り注ぐ黄輝色の雪のようだった。


 月を墜とすなんていう物騒な言葉からは、想像もつかなかったほどに、幻想的な光景だった。


 ああ、とても綺麗だ。


 おめでとう、ミネコさん。


 月を墜とすキツネは、きっと悲願を達成できたんだ。


 降り注ぐ月のかけらは、手のひらですくい取ろうとしても、触れた瞬間に消えてしまった。


 ふと、不安がよぎった。


 ミネコさんは。


 どこにいってしまったのだろう?

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