スーパームーン
物置に置いてある、工業用のロープを拝借し、ベランダの支柱の二箇所にくくりつけ、二重になったロープを掴んだ。
月を眺める日課が見つかってから、祖父母と兄は僕に対する監視の目を強めて、部屋から出てこないかを注意深く見守られている。
となると、玄関からの脱出を試みることはあまりにも無謀で、無策とも言えるのは愚行だと判断した。
そんな条件の中、僕が考えられる手段としては、窓から脱出を図るという方法くらいしか、思いつかなかった。
ただし、この方法にリスクが伴うことも充分に理解はしている。
第一に、ロープが外れたり、なんらかのトラブルがあれば、怪我につながる危険性がある、ということ。
ロープを握りしめる手が少し震えていた。
二階程度の高さとはいえ、ヘマしてしまったり、ロープが千切れたり外れてしまうと、思わぬ怪我を負いかねないし、すぐに見つかってしまうだろう。
正直怖いという感情が勝る。アクション映画の主人公になれるほど、身体能力の高さは持ち合わせていない。
足を捻る程度で済めばありがたいけれど、最悪骨折なんかもあり得る。
第二のリスクとして、この方法だと、部屋に戻ってくることを見つからないようには、出来ない。
窓からロープを使って降りるだけであれば、なんとか僕にも出来るかもしれないけれど、登るともなると話は別だ。
重力に抗うだけの筋力と体力。そして精神力も必要だと思う。
どれもこれも、僕は持ち合わせていなかった。
やるのであれば一度きりで、無事に終わったとしても見つかって、ボロクソに叱られて、もしかしたら今以上に制限をかけられるかもしれない。
大まかな二つのリスクを思うと、足がすくむ。
もう止めようよ。そう理性は言っている。君はよくやったじゃないかと、何もなしていないのに、身の安全を優先する、生存の本能が、語りかけてくる。
頭を振って、振り払う。
腕に力を込め、足を二、三と足踏みをする。両手で顔面を横から叩いた。
ミネコさんの姿が思い浮かぶ。
小学三会生の、髪も長く線の細い、儚げな姿が。
野山やグラウンドや、学校内ですらも駆け回る、野性味溢れたしなやかな姿が。
笑うと目が細まり、ますます狐めいてきた愛らしい姿が。
僕の背中に収まり、手を回してくる愛おしさ、体温、息遣い。
悲しげな表情。月を見上げる、すべての悪を月に託したと言わんばかりの、憎々しげな表情を。
助けたいと思うのはおこがましくて、それでも何かしたいと、思う。
僕は今、ミネコさんに、ものすごく会いたかった。
こっそり拝借してきた、中学一年生頃まで履いていたスポーツシューズに履き替える。
ロープを握りしめる。
上着を一枚余分に羽織る。
恐怖の感情は、まだ消えてはくれなかったけど、ミネコさんに会いたいという思いの方が、圧倒的に勝っていた。
おじいちゃん、おばあちゃん、にいちゃん、ごめんなさい。
謝罪の思いを月に込め、地上の兎は、生まれて初めて、窓から飛び立った。
爛々と輝く月。世界中のどれだけ素敵な宝石を集めても、日の光を浴びる巨大な月の煌びやかさには、敵わない。
綺麗なだけなら、美しいだけなら、月に勝るものなんて、いくらだってあるのかもしれない。
けれど、凸凹としたクレーターの土臭さは硬質な物体の表情のような気がして、まるで生きているかのような存在感を感じた。
すすきが揺れる川面に、月が揺れる。泣いているようにも、笑っているようにも見える。その媒体によって、映し出すものによって、月は色んな姿を見せてくれる。
きっと僕が見ている月と、ミネコさんが見ている月は、違うものだと思う。
それは僕が見ている月と、例えばシエラさんが見ている月とも、当たり前のように違う。
月に感じる思いを瞳のフィルターに通した時、きっと素敵なものにも、禍々しいものにも、変わってしまうんだ。
月が綺麗なことを愛に例えた人がいた。
月を見ると、狂気に捉われる怪物がいた。
月に登っていった兎がいた。
色々な味わいを、奥深さを、物語を、文脈を、感情を、夢を、現実を、秘めている。
いつもより大きく。
いつもよりも近い。
遠くて切なくて届かない距離が、少しだけ近くなる。僕たちの世界に近づく。
今日であれば、今日だけならば。
本当に手を伸ばせば、ついうっかりと届いてしまうんじゃないだろうか。
そんなバカげた妄想すら、脳裏に湧き出てきた。
いつもより早く出発したつもりだけど、ミネコさんはもう、月を眺めているのだろうか。
それとも、僕が気づいていないだけで、もう月を墜としてしまったのだろうか。
早く、いかなくちゃ。
動かない足で、飛べない足で、出来る限りのスピードをもって。
僕は走った。
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