一度だけの魔法
月の兎の物語を知ったその日、ミネコさんは月を眺めにこなかった。
この日課が始まって以来、雨が降り、月を見渡せない夜以外は、途切れることなく続いていた日課だったので、何かあったのではないかと、心配になった。
翌日、教室に足を踏み入れると、ミネコさんはグッタリとして、机の上に顎を乗せていた。
やっぱり何かあったんだと、途端に心配な気持ちが表に出て来た。
腰を下ろして、ミネコさんを正面に見据える。
血色は別に悪くないけれど、全体的に表情が下がっている気がする。
「ミネコさん、どうかしたの?」
ミネコさんは、一瞬訝しげに睨むような視線を向けてきたけど、ハッと何かに気づき、表情が少し柔らかくなった。
「ああユウトだ。おはよう。ちょっと色々あってね」
声が粘っこく、なんていうか、眠い時のような、夢うつつな声をしている、気がする。
ますます心配になる。
「体調が悪いの?」
「そうじゃなくてね……実は、一昨日出歩いていた時に警察に見つかっちゃって。おじいちゃんとおばあちゃんにお説教を、ね」
合点が行くと同時に、僕は不安に襲われた。
おそらく昨日、長澤先生に追われていたのは、きっと夜の日課のことについて注意されるためだったんだ。
いつ起きてもおかしくなかった崩壊が、今になって始まった気がした。
僕らはまだ中学生で。
受験生で。
まだ大人の力が必要な、無力な立場なのだから。
そろそろ、ミネコさんとの密会も、潮時なのかもしれない。
「心配しなくても大丈夫だよユウト。今夜は抜け出すから、今日も来てよね!」
一応頷くことは出来たけど、一度胸に差し込んだ不安は、ずっとずっと消えることはなかった。
いつもより慎重に家を抜け出し、曲がり角が来るたびに体を隠すように進んでいったせいで、いつもよりも随分と時間がかかってしまった。
ようやく高台に辿り着いた時には、ミネコさんは待ちくたびれていたらしく、珍しくベンチに腰を掛けていた。
「ユウトおそーい」
「ごめんごめん。見つからないようにしてたら、時間がかかっちゃって」
普段より気を張っていたためか、疲れがどっと出て来たので、ミネコさんの隣に腰をかけた。
ふわりと漂う健康的な香り。男の匂いというのはなんというか不快さが先に来るんだけど、どうしてかミネコさんの香りは、どことなく心地よくてドキドキしてくる。
小ちゃくて軽くてしなやかなミネコさんも、確かに女の子なんだと意識してしまい、舌が何かに絡まったように、うまく言葉が出てこなかった。
「いよいよ、明後日だね。スーパームーン」
ミネコさんの瞳は情熱に満ちていて、長年の敵を打ち崩そうと決意する、戦国の武将のような貫禄を幻視した。
その対象はもちろん。
月。
「一体、何をするつもりなの?」
ミネコさんの表情がわからなくなる。一瞬にしてどこか遠くを眺めているように、心が彼方へと飛んでいってしまったようだ。
僕は不安を抱えながらも待った。
ミネコさんの言葉を、ただ待った。
「あたしはね、一生に一度だけ魔法が使えるんだ」
一生に一度だけ魔法が使える。
彼女は確かに、そう言った。
「それって、どういう?」
「昔ね、あたしは両親と旅行に行ってたんだけど……その時に乗っていたバスが、事故に遭ったんだ」
それは、かつてどこかで聞いたことのある。
ちょっぴり悲しい出来事だった。
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