月の兎を眺めるは、地に這う兎
相変わらず月を眺める日々は続いていた。
日を増すごとに、月の形はどんどん完成度を増していって、満月に至るまではもう幾ばくかといったところだった。
けれど、僕たちの間に何かしらの変化は、特に訪れない。
徐々に現実は足音を大きくしているのに、次の居場所を決めれず仕舞いだった。
もうすぐ、次の行き先を決めなければならないのに、自身の道を決められずにいる。
変化が怖い、ということもある。
いずれ来る別れを、今から惜しんでいる、ということもある。
とはいえ、どんなに嘆き悲しんでも、僕は、僕たちはそろそろ決めなければいけない。
ミネコさんは今日も、月に拳を突き立てる。
僕は今日も、本当の気持ちを言えないまま、立ちすくむ。
スーパームーンの日は、近い。
もう後三日後には、全国的にスーパームーンが観測できます。
そんなニュースキャスターの嬉々とした報告がテレビから流れた。
ミネコさんは、まだ僕に何をするのか、教えてくれなかった。
何らかの意図もあり、きっとミネコさんが拘っている意味もあるのだろうけど、まだ何もわからないままだ。
放課後になり、もう引退したはずの図書委員の仕事を、今日だけ頼むという教師のお願いがあって、仕方がないので手伝うことにした。
なんでも、入荷した新刊を図書室に出さなければいけないのだが、今日に限って人手が足りなくて、入荷品のチェックと、棚出しに人員が必要らしい。
一学期に図書委員を務めていたシエラさんを連れ立って、図書室への道を歩いていた時だった。
「キリツさん、待ちなさーい」
生徒指導の長澤先生の怒号と、タッタッタという駆ける音を認識し、振り返った。
ミネコさんが、こちらに向かって一目散に走ってきた。
何をやらかしたのかは知らないけど、長澤先生に追われている、その事実だけは理解した。
「ミネコさーん」
きちんと話し合ったほうがいいと思う。
そう言う前に、ミネコさんは僕の声に反応し、進行方向を右にずらし、こちらに突撃するように向かってきた。
「ユウト、ちょっとかがんで!」
勢いに押されて、咄嗟に上半身を曲げた。
わけがわからないけれど、反射的にミネコさんの指示に従った。
一瞬の衝撃を感じて、視線を上に向けると、ミネコさんの跳躍した姿が映った。
制服姿のミネコさんを、下から眺める形になったので、思春期男子が焦がれてやまない光景が眼前に広がっていた。
「ありがとうユウト!」
ミネコさんは飛んだ勢いそのままに、階段の手すりをさらに蹴って、上の階へと軽々と登っていった。
鮮やか。
「こちらこそありがとう」
呟くように口に出た言葉は、シエラさんにばっちり聞かれてしまっていた。
「……ユウトくん、なんのお礼なの?」
それは言えません。
ただ、シエラさんとの気まずさの代わりに手に入れたのは。
純白に輝く、思春期の思い出だったということだ。
シエラさんから浴びせられる視線は、普段にはない刺々しさがこもっていて、とても居心地の悪さが増長された。
それでも、与えられた仕事はこなさなければいけない。
入荷された本のリストと、実際に届いた本の山を見比べた。
確認が終わると、学校の図書である証として、学校指定のシールを貼る。
この作業は僕の管轄ではないので、チェックの終わったものに関しては、図書室利用者が使用する、横に長く伸びるテーブルに置いていった。
最近の学校は、図書に関しては規制緩和の波に流されているらしく、思わず目を惹くようなイラストのノベルが何点か並べられていた。
そんな中、教養を必要とするような古典文学も、新装版という形で、新たに図書室のラインナップに加わっていた。
「今昔物語だって。社会の教科書でしか見たことないや」
「私は少しだけ読んだことあるよ」
独り言に、シエラさんは反応してくれた。
普段から本を読んでいる姿は目撃してたけど、古来から伝わる日本文学にまで手を出していたとは、さすがはシエラさんだと関心した。
「やっぱりシエラさんはすごいなあ。僕には一生縁のなさそうな代物だよ」
「そんなことないよ。実際に触れてみるとね、どこかできいたことがある物語が載ってたりするんだよ。例えばね」
シエラさんはページをパラパラとめくっていった。
原文の言葉遣い見ると、頭が痛くなってくる。
「ほらこれなんかは、どこかで聞いたこともあるんじゃないかな。身を捧げる兎の話とか」
シエラさんに教えられたその物語は、言われてみればどこかで聞き覚えのあるお話だった。
猿と狐と兎は、倒れていた老人を助けるために、各々の出来ることをした。
猿は木のみや作物などの山の幸を採って、老人に与えた。
狐は狩を行い、山の生き物や川魚を老人に献上した。
けれど、兎は少し鈍臭くて、老人に対して何の施しも与えられなかった。
何も出来ない兎は、自分の無力さを恥じて、最高のご馳走を用意すると言って、猿と狐に火を焚いてもらう。
何も採ってこれないじゃないかと責められるなか、兎は自らの体を燃え盛る炎に投げ出し、自らが老人に捧げる供物となった。
身を犠牲にした行為に、老人の姿をしていた帝釈天はいたく感動し、兎を天へと登らせた。
こういった物語があって、月には兎が住むこととなったのだという。
もともとはインドでの出来事で、仏教にある説話の一つらしい。
由来については知らなかったし、遥か昔に綴られた物語があって、今の時代にも尚語り継がれている雄大さは、物語にあまり触れたことのない僕にも、とても素敵なもののように感じられた。
「なんだか、すごい話だね。僕には出来そうにないや」
「そうかな。大なり小なり、自己犠牲の精神っていうのは、出来る人にしか出来ないことだよ」
シエラさんは微笑む。なんだか吹き出しそうなくらいに、表情が崩れている。
「なんだか、心当たりがありそうな顔をしてるね」
「うん。ユウトくんって、なんだか兎っぽいなあって」
そう言って、シエラさんはとうとう笑った。
湧いてくるのは、反発心と、羞恥心らしき感情。
僕だって男の子なのだし、しかも飛び切り繊細でめんどくさい、男子中学生という生き物なんだ。兎っぽいっていうのは、なんだか納得がいかなかった。
「シエラさんが思っているよりも、僕はずっと獰猛で凶悪な生物なのかもしれないだろ」
「ないね」
全否定。
「頼まれごとを断れないのも、実は結構繊細で気にしいなところも、すごく兎っぽいよ。悪い意味じゃなくてね。うん、私は、そんなユウトくんが……けっこう好きだよ」
頰が熱くなり、体が熱を吐き出し始めた。
うまく言葉が紡げなくなって。音を発することなく、もぞもぞとした蠢きがあるだけだった。
横目で見ると、シエラさんの視線は明後日の方を向いていた。
自分で心臓の動きを確認出来るくらいに、動揺してしまっている。
この時、この瞬間だけでも。
僕が肉食動物であったなら。
一人の女の子を、欲望のままに食い荒らす獣であることが出来たのなら。
少し違った未来も、あったのかもしれない。
けれども、僕は自分では認められないけれども、どうしようもなく臆病な兎で。
月には手が届かない、地を這って憧れを眺めるだけの、地上の兎であった。
結局この話は、そろそろおしまいにするかと言い放った、図書委員の顧問の先生によって、うやむやになった。
ところで、月兎の話を教えてもらった時に、ミネコさんをどんな動物で例えるべきなのか、という疑問が解決した。
しなやかで優雅さもあり、悪戯好きで好奇心旺盛。
実は人懐っこさもあり、重力を振り切るように飛び跳ねる姿が印象的なミネコさんは。
まるで狐のようだなって、思った。
狐が狩の標的にする相手の一つが、兎だというところが、特に。
そして、物語の登場人物に倣うのならシエラさんは……。
この思いは、今が思い出に変わって、笑い話として機能するようになるまで。
絶対に言えない。
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