背中の温もりは僕の嘘
もともと、月を見にいくために、山間の高台に行く習慣はなかった。
たまに寂しい気持ちになった時、言いようもない不安が押し寄せて来た時、ふと夜空を見上げると、月が笑顔を向けてくれていた。
そんな風に感じた。
ある時、僕は夜空に誘われて、星々が流れる大海原に向けて飛び出した。
両手を広げて、中々思うように動いてくれない足を無理矢理にでも動かして、転ぶ危険も顧みず、顔を上げたままで進んでいった。
手を伸ばしても、地面を蹴り上げジャンプしても、星々にも月にも、まるで届かない。
もどかしく感じた。
もっと、もっと近くに行きたい。
気がつくことのなかったわずかな欲求が、胸を打つ衝動に変わった時、僕は空を目指した。
翼はなく、よく飛べる足もないので、現実的な手段として、より高い所に登ろうと思った。
山間の公園。その中には、かつては螺旋階段や網目状のロープが張り巡らされた、遊具としての高台に登れたものだけど、怪我や事故にまで発展するケースもあり、今は使用禁止になっている。
仕方がないので、閉鎖された遊具にもたれながら、父のような、母のような月に祈りを捧げる。
そんな日々が続いているのだ。
時刻は夜の二十一時過ぎ。
早寝早起きを信条とする、祖父母の就寝を確認して、隣にある兄の部屋で、今日も大きな音で何をいった言っているのか、よくわからない音楽が流れていることも確認する。
今日も見つかりませんようにと、内心ではビクビクしながら、自宅を後にした。
おそらく今日もいるであろう、両拳を握りしめ、テコでも動かせないように真っ直ぐと顔面を固定しながら空を見上げる、ミネコさんの姿を思いながら、僕は今日も出かけたのだった。
ミネコさんは、予想通り、今日も月を見上げていた。
ミネコさんはとても小さい。成長が止まった僕よりも、さらに。
風が吹いただけで折れてしまいそうな体躯を見るたびに、彼女の世界に対する無力さのようなものを感じてしまう。
いつもなら、僕が辿り着いたとしても、構わずに空を見上げ、忌々しそうに口元を歪めているのだけれど、今日はどういうわけか僕を睨んでいた。
どういうわけかって、理由はまあわかるけれど。
「なんでこなかったんだよ」
声に質量があったのなら、軽く地面から飛ばされていたかもしれない。
それくらいの迫力を秘めていた。
すごく、怒ってる。
「ごめんごめん。図書室に行かなかったことは悪いと思うけど、掃除当番をサボっていい理由にはならないよ」
「うー」
唸った。
正論に返す術がなかったんだろうけど、言語を放棄されても困る。人類よりは野生生物に近いよね、ミネコさんは。
ミネコさんを動物に例えるなら、一体なんなのだろうって僕は悩む。
犬、ではない。どちらかというと猫のほうが近い気もするんだけれど、少しばかり猫特有のアンニュイさが足りない。まだ明確な答えは僕の中には存在しなかった。
「それで、今日はなんで掃除当番サボったの?」
「担任の川島先生に呼び出されてたからさ、ちょっと教室に残っていることが気まずくてね」
「なんでまた?」
「進学も就職もしたくないって、言ったからだと思う」
思わず嘆息した。
てっきり、色んなところに悪戯を仕掛けていることを咎められたのかと思ったけれど、中学三年生としては、もっと深刻な問題を、ミネコさんは先送りにしているようだった。
まあ特別な事情がない限りは、大抵進学をすることにはなるけれど。
どこに進学するのかならまだしも、その前段階すら拒否しているのなら、担任の先生としては頭が痛いだろう。
「ありきたりな言葉かもしれないけどさ、高校くらいは言っておいたほうがいいんじゃないの?」
「ユウト」
名前を呼ばれることで、僕の意見は封殺される。
そんなことは聞きたくないという意図であっても、僕が黙る必要なんてないけど、黙ってしまう。
卑怯だなあと思うけれど、だってミネコさんが、今にも泣いてしまいそうな表情をしているから。
教室で、友達と談笑するミネコさん。
授業中に、グラウンドを、スーパーボールみたいに跳ね回るミネコさん。
色んなものに悪戯して、ニヤニヤと勝ち誇ったような笑みを見せるミネコさん。
昼間のミネコさんとは、まるで違う表情に、ミネコさんの仮面を被った、別人が僕を惑わせているんじゃないかとすら、思う。
それはないと思いたい。メリットが見つからないし。
「ユウト、背中」
「ほいよ」
ミネコさんからは背を向ける。タッタッタと刻み行く足音を確かめて、背中に神経を集中させた。
ザッと砂利を蹴る音を確認して間も無く、僧帽筋の辺りを中心に、衝撃が訪れ、確かな重みが加わったので、足と腰を踏ん張り、倒れてしまわないように努めた。
ミネコさんは軽い。小さくて、軽い。
成長が止まってしまった僕よりも更に小さく、140センチにいかないくらい、らしい。
時々、ミネコさんはどこかにいなくなってしまうのではないかと、馬鹿げた不安に襲われる。
どこかへ転校するとか、引っ越しをするとか、そういう人間的な事情の話じゃなくて。
キリツミネコそのものが、いたのかいなかったのかよくわからないものになって。
曖昧なまま、世界と関係なくなってしまうのではないか。
体が小さくて、質量が少ないということは、世界と関わって、触れ合っている部分が、それだけ少ないのだから。
そんな風な漠然とした不安を、抱いた。
「ん」
少しばかり甘く、鼻にかかったような声とともに、ミネコさんの右手が首に絡まり、続いて左腕も重ねられた。
僕の腰上部にミネコさんはしがみついており、落ちないように念のため、ほどよく肉付きはあるが、しなやかなふとももの下に、そっと手のひらを添えた。
幼い頃、近所を散歩した時、父親にやってもらった記憶が蘇る、おんぶという行為。
言ってしまえばそれだけのことだ。
たまに、たまにだけ、ミネコさんにも甘えたくて、頼ってしまいたくて、どうしようもない時があるらしい。
そんな時、僕の背中に飛び乗り、何かに想いを馳せるんだ。
それは、僕と同様に、もう亡くしてしまった両親についてかもしれないし、次々と訪れる不満や現実についてを考えているのかもしれない。
ただ、広くもなく大きくもない、ただ生きてきただけの僕の背中で、何かを思ってくれる、得てくれる、それだけでも、充分なのかもしれない。
寝巻き越しに伝わる体温は、温かさを超えて熱いくらいで、一定間隔で繰り返される鼓動は、早くなったり遅くなったりと、感情の変化も教えてくれた。
ところで、ミネコさんが僕にこうして体を預けてくれることに躊躇いがないことには、理由がある。
ミネコさんは、僕のことを、月のことを恨んでいる同志、として認識しているらしかった。
違うんだ、本当は逆で、ミネコさんからすれば、不倶戴天の敵かもしれない思いを僕は抱いているのだけど。
僕はまだ。
この思いを言えないでいる。
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