帰り道

 教室の鍵を閉めて、職員室まで持っていき、昇降口まで降りた。


 まだ日が暮れるまでには余裕があって、行き場がないのか、なんとなくたむろっている生徒追い越して、学校を後にした。


 ミネコさんからの呼び出しを受けていることが頭によぎったけど、掃除をサボって、しかもエンマさんにまで手伝ってしまう展開になってしまったので、反省させる意味も込めて、待ちぼうけさせることにした。


 まあおそらく、今夜もあの場所で会うことになるだろうし、その時にでも弁解すればいいや。


 それに、エンマさんが珍しく、相談したいことがあるって話があったので、お礼の意味も兼ねて、今日はこちらの用事を優先することにした。


 まだ辺りは明るく太陽の力が色濃く出ているけど、段々日が沈む時間帯は早くなってきた。うだるような直射日光もじわりと汗ばむ程度になり、通り過ぎる風が、徐々に季節の移り変わりを運んできているようだった。


 僕もエンマさんも、特に言葉を発してはいなかった。普段は一人で帰る自宅までの道も、隣に誰かがいるというだけで、なんだか違ったもののように見えた。


 ましてや、女の子と一緒に帰る経験なんて、思い出の中には数えられるくらいしかなくて、どうしたらいいのか、的確な答えを出せないでいた。


 何かを決したように、空気を取り込む息遣いが聞こえた気がした。


「トマルくんは、どこの高校に行くつもりなの?」


「まだ完全に決めてはないんだけど、まあ考えているのは、一番近い公立高校かな」


「トマルくんの成績なら、もっと上を目指せるんじゃない?」


 僕は返事に困る。


 確かにエンマさんの言う通り、今の成績を維持できるのであれば、一番近い公立高校で勉学に励むのには、少々物足りなくなる可能性はあった。


 運動をすること自体があまり得意ではないので、その分を勉強にあてた甲斐があってか、そこそこの成績はキープしている。


 けれど、高校となると、今よりも通学にかける時間がどうしても増えてしまうから、漠然と近いところの方が通いやすいのかな。その程度の考えはもっていた。


 ただ、このことを言ってしまうことで、エンマさんに不快な思いをさせてしまいたくなくて、僕はごまかす方向で話をすることにした。


「そんなことないよ。僕の実力を考えると、妥当なところだと思うけどね。ちなみにエンマさんは、どこを受験するつもりなの?」


 エンマさんが口にしたのは、県外にある有名な進学校だった。全国からも受験生が押し寄せる、言ってしまえば名門校だ。


 まるで雲の上にあるようなレベルの高い高校を受験するだなんて、流石はエンマさんだ。


 そう思った矢先、でもね、とエンマさんは浮かない顔で続けた。


「実はもう一つ行きたい高校があって。どっちに行こうか、迷ってるんだ」


 エンマさんが迷っている選択肢とは、県外にある高校という点は前者と変わらないけれど、主に芸術系の教科に重きを置いている、私立高校だった。


 エンマさんには夢があるらしい。


 幼い頃に、両親に連れられて行った美術館で、古典のものから現代美術まで、様々な芸術作品に触れた。


 優美な色遣いから繰り出される、情動を形にしたかのように鮮やかな絵画。一体どんなことを考えながら生きているのか、見当もつかないほどに独創的なオブジェ。


 子供心ながらに、感動という感情を覚えたエンマさんは、胸に抱いた情熱を、未だに忘れられないらしい。


 見つけることが出来た、とてもとても素敵なもの。


 かつて生じた情動を、自分自身で描いていきたい。


 そう思ったのだった。


 けれど、まだ中学生でしかない身分では、現実的な問題が付きまとった。


 お金のことはもちろんだけれど、勉強という分野に秀でてしまったエンマさんに、両親は期待と親心を込めて、こう言うのだという。


 いい高校や大学に行って、しっかりとした所に就職したほうがいい。


 それはきっと親御さんの優しさであることは疑いようはない。絵描き志すこと自体は悪いことではないけれど、実力や運が必要以上に絡んでくる職業を目指すことが、不安なのだと、言う。


 エンマさんは、表面上は納得しているフリをして、同学年の僕らよりもハイレベルなテキストを解きつつも、まだ諦めきれていないらしい。


「エンマさんはすごいな。大きな夢を持っていて」


 僕は月並みな感想しか述べられなかった。


 どうでもいいと思っているからじゃなくて、むしろその逆だ。


 将来夢なんていう形のないものを、僕は思い描けていない。


 だからこそ、純粋にエンマさんの夢を応援してあげたいから、肯定的な言葉を使いたかった。


 けれど、ご両親の気持ちというのも、決してないがしろにして欲しくはないんだ。


 父さんの厳しくて乱暴な励ましも、母さんの耳障りだけど優しさ溢れるお小言も、もう僕は貰うことが出来ないから。


「そんなことないよ。結局、まだ私は決められてない」


「大事なことだからこそ、悩んで決めればいいんじゃないかな。エンマさんの夢も、ご両親さんの思いも、出来る限り一つに出来るように、悩んで、話し合って決めよう。そうじゃないと、多分後悔する」


 後悔は、物事が起こった後にしか出来ないから、少しでも後悔しないように、今を一生懸命考える。


 わかったような気になっているだけかもしれないけど、きっと間違っているだけじゃないと思う。


 エンマさんは歩幅を広げて、僕より少しだけ前に進んだ。揃っていた足並みが乱れるけれど、どこか楽しさを包み込んだステップのように感じた。


「その考え、いいかもね。私だけが意固地になっても、それはそれで後から後悔するかも。うん、もっと悩んで話し合ってみる」


 エンマさんの頬が、少しだけ緩んでいた。僕は安堵する。


 少なくとも、エンマさんの夢を、正しく応援出来たと思う。


 その後、しばらくは雑談に時間を費やした。読んでいる本のことを教えてもらったりする代わりに、掃除用ロッカーには、カエルのおもちゃが仕込まれていたことを話した。


「びっくりして思わず、うわっ、なんて悲鳴をあげちゃったよ。多分ミネコさんの仕業だと思うんだけどね」


「トマルくんのリアクションが、私の記憶と違うんだけど」


「気のせいだよ」


 押し通すことにした。


 エンマさんは、困惑に首をかしげていた。


「確かに、キリツさんならやりそうだね。ところで、キリツさんは図書室にいるって言ってたけど、どうしてわかったの?」


「カエルのおもちゃに、メモが挟まってた。放課後に図書室で待ってるって」


「行かなくていいの?」


 目玉の中心は茶色に染まっていて、お月様みたいなまん丸だ。そんな真っ直ぐな瞳で見つめられると、僕はなんだか恥ずかしくなってしまう。


「掃除をサボるようなミネコさんは、同情に値しません。それに、今日はエンマさんにも迷惑かけちゃったしね」


「ふうん。そっか」


 エンマさんは立ち止まった。T字路を眺め、名残惜しそうに、言った。


「ここで、お別れ。トマルくんは、そっちだよね」


 僕はそのまま真っ直ぐな行けば自宅の方に帰れるけど、エンマさんは右に曲がるらしい。そのまま真っ直ぐに進めば、この街で一番高い、山間公園へと続いていく。


 そっか、エンマさんはそっちから来ていたんだ。


 いつも通学途中に追い抜かれていたから、エンマさんの自宅がどこにあるのかは、知らなかったのだ。


「うん。今日は本当にありがとう。エンマさん、また明日」


「シエラ。キリツさんを名前で呼べるんだったら、私のことも呼べるでしょ?」


 悪戯っぽい笑みだ。普段は物静かなエンマさんの、初めて見る表情。


 僕はちょっとだけ、迷う。


「……また明日……シエラさん」


 文字で表現するようであれば問題ないのかもしれないけど、実際はしぃえりゃさんみたいな発音になった。


 僕の脳みそも舌も、名前で呼ぶことには慣れていなかった。


 それでも、シエラさんの表情は明るかった。


「また明日ね、ユウトくん」


 胸元の前に手をやって、控えめに手を振ってくれた思えば、くるりと体を反転させて、T字路を右に曲がっていた。


 シエラさんの背中をチラリと見つめ、気づかれないうちに僕も歩き出した。


 塀の上で尻尾を振っている猫と目が合う。興味なさげにそっぽを向かれてしまったけど、悲しい気持ちにはならなかった。

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