掃除当番
お前たちももう三年生だ。受験までまだ時間はあるなんて思っていても、気がついたらやってきてしまう。だから本格的に勉強を始めろよ。
そんなどこの中学でも言われているような担任の先生のセリフをもって、今日の学校は終了した。
部活動はもう引退してしまっているし、塾に通っているわけでも、この後の約束があるわけでもないので、素直に帰宅しようかと思ったけれど、今日は掃除当番だった。
四人で一組の当番制なのだが、同じ当番の相沢は「悪い、今日は用事があるから掃除やっといてくれ。ほら、おばあさんの法事的な」と言って逃げるように帰宅。なら朝からいないだろ。
それで、もう一人同じ当番の横井は「今日再放送の見たいドラマがあるからすまん」とウキウキの帰宅。素直な分マシな気もするけど、録画しなさい。
最後の頼みの綱であるミネコさんは、気がついたらもういなかった。いっそ清々しい。
教室からは段々と人が減っていき、誰かに手伝ってもらうことも叶わなさそうだった。溜息が出る。
嘆いていても仕方がないし、サボる度胸もない以上は、一人で当番を全うする他なかった。
後遺症とは別の理由も加わった、重い足取りで教室後方の窓側に設置してある、掃除用具の入ったロッカーまで移動し、戸を開けた。
カエルがいた。
「きゃー」
女子みたいな悲鳴をあげてしまいながら、床にへたりこんだ。カエルは宙に浮いているがまるで動きがなくて、恐る恐る手にとって感触を確かめた。
「おもちゃじゃん」
おもちゃだった。
クラスメイトどころか同学年中を含めても、こんな小学生じみた悪戯をする奴なんか一人しかいなかった。いや、いるかもしれないけど、心当たりは一人。
ミネコさんめ。
少し腹が立ち、カエルのおもちゃを投げ捨てようと握りしめると、背中に何か貼り付けてあった。
ノートの一部分を、乱暴に千切ったような切れ端。
中身を確認すると、放課後に図書室で待ってるよ、とメモが残されていた。
もし僕以外が発見していたら、どうするつもりだったんだろうと思いつつも、カエルとメモ用紙はポケットにしまった。
勝手に待っていられたとしても、僕の歩みではいつ掃除が終わるのかもわからないってのに、まったく。
「なんだか悲鳴みたいな声が聞こえたけど、どうしたの?」
また悲鳴が出そうになったけど、なんとか堪えた。
振り返ると、もう教室から出て行ったはずのエンマさんが心配そうにこちらを覗き込んでいた。
「あれ、帰ったんじゃなかったの?」
「うん。だけど忘れ物してね。さっきの悲鳴みたいなのって、トマルくん?」
羞恥心で、顔に血液が集中していく感じがする。
同学年女子に、恥ずかしい声を聞かれてしまった。
また、きゃーと声を出してしまいそうになる。さっきとは別の意味で。
「そう、だと思う」
エンマさんは、なんだか申し訳なさそうに、表情を曇らせて、言った。
「えっと、かわいい悲鳴だね」
「お気遣いありがとう」
かわいい悲鳴だと言われて、それを喜ぶ中学生男子がいるのだろうか。けれど、気を遣ってフォローしてくれているエンマさんに、お礼を言う他には何も言えなかった。
「あれ? トマルくん以外、誰もいないの?」
僕は頷いた。
エンマさんは、一瞬眉をひそめたが、鞄を自分の机に置いて、ロッカーの中から箒を取り出した。
「手伝うよ」
「そんな、悪いよ。もともとは僕たちの仕事だし」
「僕たちって、トマルくん以外いないよね。一人よりは、二人の方が早いし。それに、時間、かかっちゃうでしょ」
エンマさんは、僕の足元をわずかに見て、すぐさま視線を逸らした。言おうとしていることが伝わり、僕はますます申し訳ない気分になる。
ここまで気を遣わせていることは不本意だけど、ここで断ってしまうと、最早失礼な態度と取られても仕方がなくなる。
人の好意を受け取らないことも、それはそれで申し訳ない。バランスって難しいな。
「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます」
「うん」
普段は使わない敬語なってしまった。そこそこ照れてしまっているみたいだ。
教室の掃除は、大まかに言うと、床のゴミを箒で集める掃き掃除と、黒板や窓などを雑巾で拭きあげる、拭き掃除に別れる。
エンマさんは、より移動距離の求められる掃き掃除を選択してくれた。
ますます、ごめんなさいとありがとうが入り混じった気持ちに苛まれるけど、その分早く終わらせてエンマさんを開放することが、今の僕の仕事だと思った。
「そういえば、今日掃除当番の人って、誰だったの?」
教卓の下に溜まった埃を集めながら、エンマさんは言った。
「相沢と横井とミネコさん。相沢は法事で、横井はドラマ。それでミネコさんは……図書室で待ちぼうけ中」
椅子に乗っかって、上窓を拭いながら、僕は答えた。精一杯の背伸びをして、ようやく窓の上部に届いた。低身長だと、こういう時に困るんだよね。
「どれ一つとして、掃除を休む理由にならないね」
怒っているというより、呆れに近い声色でエンマさんは答えた。少しだけ、笑っているようだった。
「ほんとだよ」
そう言ってもらえたことで、僕も少しだけ笑うことができた。あまりよくない出来事も、ちょっとしたきっかけで、楽しさも感じるような出来事になるんだと思えた。
嬉しい気持ちになった。わずかに、だけど。
僕が窓拭きをしている間に、エンマさんは掃き掃除を終えてしまい、結局、黒板の掃除までエンマさんにやってもらってしまった。
普段はなるだけ意識しないようにしているけど、こんな時ばかりは、僕ももっと普通の人間として生きていけたらと、思ってしまう。
ただちょっと、うまく歩けるだけでいい。
ただちょっと、高い景色が見えればいい。
現実の僕から見れば、少し贅沢な願いなのかもしれない。けれど、夢を見るくらいは、誰にだって許される権利だろう。
雑巾を水道でゆすぎ、掃除道具をロッカーに収めて、今日の掃除は無事に終了した。
エンマさんは、黒板掃除の時に汚れてしまったのだろうか、スカートを手のひらではたいていた。
お詫びとして、僕がなんの下心もない寛大な心で、エンマさんのスカートはたきを手伝うこともやぶさかではなかったのだけれど、それをやってしまったら、ただ単にセクハラ野郎に成り下がってしまう。
恩を仇で返すことはしたくないので、自分自身も良心を抑えることにした。いやはや残念、残念。
エンマさんは自分の机から、カバーに覆われた文庫本を取り出し、鞄にしまっていた。忘れ物というのは、おそらくそれのことだろう。
エンマさんは僕よりも後ろの席だから、机の中に文庫本を入れていたことは知らなかった。
エンマさんは振り返る。僕と視線がぶつかる。少し困ったような表情をしていて、何かしてしまったのかな、と思考した。
「いつも授業中に読んでるわけじゃないよ。たまにだけ」
この時、僕がどんな顔をしていたのかは、鏡か何かで見てみないとわからない。
けれど、エンマさんは恥ずかしそうに目を逸らして、頰も少し体積を増している様子から考えると、スカートをはたくよりも過激な、セクハラじみた顔をしていたんだろう。
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