第6話:蜘蛛とナッツとライムグリーン
黒い翼は雑踏から逃げ、朝日が昇る寸前の街には吐息が行き交う。雑多な路地裏に、男が一人立っていた。
男は小さな蜘蛛の巣に向かい、ブツブツと自らの野望を語りはじめる。
「私は、昔から
『それが、貴様の願いか?』
「そうだ。正義を遂行するため、悪をこの手で断ち切れるほどの力がほしい」
東から昇る光は、ビル街の喧騒にかき消されて歪な陰影を形作る。垂らした糸にぶら下がった蜘蛛は、英雄志望の男に力を与えるのだ。
* * *
『なぁなぁ、このカシューナッツ食っていい?』
「たまに冷蔵庫漁ってると思ったら、そんなの食べてるの? ……そもそも、ディークって人間の食事も摂れるの?」
『別に食べなくても生きていけるけど、生活としての幸福は維持してたいじゃん。囚人だって毎日献立の変化はあるんだから』
「居候の割に、いい身分だね」
ナッツを咀嚼しながらQOLについて語るミューズを雑な応対で受け流し、ハルはTVニュースに目を移す。スーツを着たニュースキャスターが、神妙な顔で事件を報道している。
「〈刑務所内で集団不審死、遺体には蜘蛛のマーク〉だって。全員絞殺体で見つかってるらしいよ……」
『こういうのって、漫画の中だけじゃないんだな。アルカトピア、治安悪くない?』
* * *
「……なぁ、付きまとうのはやめてくれ! なんなんだ!? 私のことを何者だと……!?」
「違法献金を立件した検事に金を握らせ、証拠不十分で不起訴にした……。なるほど、お前は確かに“悪者”だな!」
高架下のトンネルで威張り散らす小太りの男に、スーツを着たもう一人の男が覆いかぶさる。男は細く透明な糸を相手の首に巻きつけ、慣れた手つきで締め上げた。
「何をする! 私はアルカトピア議会の元議員だぞ……ッ……!?」
小太りの男の声は、高架を通る電車の音にかき消される。スーツの男は、息絶えた元議員の首に巻かれたピアノ線めいた糸を噛み切り、喉元に蜘蛛の烙印を押す。
白目を剥いて絶命している男を一瞥しながら、蜘蛛のディークは呟いた。
『これで十人目、か。世間では、〈蜘蛛の英雄〉なんて呼ばれているようだ。よかったじゃないか』
「ハ、ハハハハッ……! やっと、やっと私も評価される……尊敬される……英雄になれる……ッ!」
『なぁ、これで満足だろう? 貴様の願いは叶ったな』
男の頭上で糸を垂らしながら、蜘蛛は叫ぶ。
『よし、契約は終了だ。報酬を頂こう。……お前の自我だよ』
薄れゆく意識の中、男は自らの身体の自由が利かなくなっていることを悟る。苦言を呈すこともできず、彼の身体は徐々に人間の姿を保てなくなっていた。
* * *
『ハル、ディークの気配だ!』
「了解……」
時刻は午後九時を過ぎていた。ハルが向かったのは、オフィスビルが立ち並ぶビル群の路地裏である。そこには、明確な異物が存在していた。
蜘蛛の巣。それも四メートルを優に越えようかという巨大なものだ。巣の中心には二メートル程のピンク色の蜘蛛が、獲物を求めてガシャガシャと鋏角を動かしている。
『
「何こいつ……何こいつ……!?」
『カラーリング、気持ち悪すぎないか!? 毒とか持ってないよな!?』
蜘蛛はハルの姿を感知し、上方の看板に向けて糸を飛ばした。粘ついた糸をワイヤーのように操り、ジップラインめいてハルに突進する!
ハルは
突進してくる怪物に向けて射出される弾丸は、蜘蛛の柔らかい腹には届かない! 糸で巻き取られ、ぽとりとアスファルトに落ちる。
『ダメだな。対策されてる……!』
蜘蛛は連射され続ける弾丸を強靭な糸で防ぎ、じわじわとにじり寄る。泡の集合体めいた複眼でハルたちを睨みつけ、鋏角を向けた。今にも飛び掛からんとしているのだ!
『ハル、どうする? 詰みかけてるぞ?』
「そんなこと言われても! 銃が効かないんじゃ、どうしようも……」
蜘蛛がトドメとばかりに吐く糸は、ハルの足を絡め取ろうとのたうつ。彼女が死を覚悟した、その瞬間である!
——閃光が躍る。
ハルは切り刻まれた足元の糸を視認する。何者かが、凄まじい速度で切断したのだ。
彼女と蜘蛛の間を遮るように現れたライムグリーンの髪をした少年は、流れるような一太刀で蜘蛛を叩き斬る。
「狩りの邪魔だよ、動かないで……」
柔らかい腹に斬撃を浴びせられた蜘蛛は、突如現れた乱入者に剥き出しの警戒心を抱き、鋏角をカチカチと鳴らした。
「まぁ、これだけで倒れてもらっちゃ味気ないよね……」
カーキのロングコートを着た少年は呟き、小さく息を吐いた。その瞳は、深い青色だ。
「これで終わりだ……
少年の背丈の倍はあろうかという両刃の長剣が、彼の声に鳴動するように輝く。その曇りのない白銀と彼の華奢な腕は不釣り合いのように見えて、その実よく映えていた。
少年は一歩踏み込み、脚を斬る。
さらに踏み込み、複眼を斬る。
わずかに表情を緩め、柔らかい腹を斬り刻んだ!
蜘蛛は残りの複眼を刮目させ、自らの敗北を悟る。下腹部が袈裟斬りされ、真っ二つになっているのだ!
『グォォォォ!!!!』
大きな苦悶の叫びを上げた怪物は、瘴気を噴出しながら徐々に人間の姿へ還っていく。そこにいるのは、血を流して倒れている生身の人間だった。
「倒したんだよね……?」
『あぁ、気配は消えたよ。それより、そこのお前! お前だよ、無視すんなって……。素質持ちのディークノアさん!』
狩りの時間を終え、どこかに去ろうとする少年は、ミューズに呼ばれて振り向いた。まだあどけない顔立ちに、冷めたような眼をした少年だった。
「何? 今から帰るんだけど。ちょっと静かにしてくれない……?」
『お前なぁ、初対面の人外に面と向かって文句言えるとか……ふざけんなよ……!』
「まぁまぁ、ミューズ……。ありがとう、助かったよ! それで、キミは一体何者?」
『そうだよ! なんでライムグリーンの髪? キャラ付け? それ、自分で染めた感じ!?』
「ごめん、このコウモリは無視して! それで、キミもディークノアでいいんだよね? 名前は?」
少年はハルの方を向き、値踏みするような視線を向ける。
「助けるつもりじゃなかった。ただ、僕の狩りの邪魔をされそうになったから乱入しただけ。それと、名前は名乗りたくない。僕は〈サイレント・ノーブル〉だから……」
『なんだそれ、カッコいいじゃん……!』
ハルがミューズの口を塞ぐと同時に、少年の背後からディークが現れる。そのディークは、宿主に恭しく頭を垂れるのだ。
『ラン様、そろそろ帰りましょう。夜風がお身体に障りますので!』
「ソルグ、ガキ扱いしないでくれる……?」
少年は欠伸を一つすると、従者のように付いてまわるディークを無視して歩き始めた。ハルは最後の確認のため、その背中に声をかける。
「待って! 君は、こっちの味方でいいの? それとも……」
『代わりにお答えしましょう。ラン様は孤独な狩人であらせられるお方ですので、誰の敵でも味方でもございません。ただ、狩り場を他人に荒らされることを嫌う14歳の……』
「ソルグ、うるさい……。ほんとに置いてくよ?」
『お待ちください、ラン様~!』
パートナーのディークを無視して歩く少年の後ろ姿を眺め、ミューズは溜め息を吐いた。
『何なの? あの偏屈な中二病くんと、その信者みたいなディーク……』
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